説    教   出エジプト記20章8〜11節  マタイ福音書12章6〜8節

「安息日の主」

2018・06・10(説教18231753)  私たちの教会の週報を見ますと、礼拝順序のいちばん上に「主日礼拝」と書いてあります。この「主日」 とは「主の日」すなわち「主イエス・キリストの日」という意味です。ですから聖書の中には「主の日」 また「キリストの日」という言葉がたくさん出て参ります。それと共に聖書には「安息日」という言葉も 出て参ります。何よりも十誡の第四誡に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。私たちは一週間 の最初の日である日曜日を「主の日」「安息日」として聖別し、教会に集まって共に礼拝を献げます。教会 とは何かと言えば、それは「主の日」である「安息日」を聖別し礼拝に生き続ける群れです。  一週間を7日とする習慣は古代バビロニアの太陰暦に由来すると言われています。もともと太陰暦では ひと月の日数は28日であり、それを四等分すれば7日になるのですが、その暦はイスラエルに受け継が れる中で、単なる形式を超えて、主なる神が全人類にお与えになった特別な日「主の日」(礼拝の日)を守 る礼拝生活へと変わってゆきました。マルティン・ブーバーというユダヤ人の哲学者は「安息日を聖とす る」という言葉を「主の勝利を祝う」と訳しています。イスラエルの民は安息日の誡めに、あらゆる人間 存在を真に生かしめる、本当の自由と祝福への招きを聴き取ったのです。  この世界万物を創造された主なる神は、全ての者を限りなく愛したまい、まさに安息日において、私た ちをご自身の「勝利の民」として招いておられるのです。私たちの人生は、生き、飲み食いし、働き、死 ぬ、自然的生命で終わるものではないのです。そうではなく、私たちは「安息日を聖とする」歩みにおい て、既に罪の赦しの恵みにおいて、十字架において死に勝利された主(イエス・キリスト)に結ばれて生 きる者とされているのです。「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門 の内にいる他国の人もそうである」と、主ははっきりと告げておられます。この生命の祝福は「生命の門」 (キリスト)を通って来る全ての人々に無条件で恵みとして与えられているのです。  ですから「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれた。そ れで主は安息日を祝福して聖とされた」とあります。この「安息」とは単に“仕事を休む”という意味で はなく、私たちがそれぞれの人生のただ中において、今ここにおいて、神の勝利と祝福と生命に、共にあ ずかる者とされていることです。それが「安息日」という言葉の本来の意味です。  イスラエルで「安息日」のことを“シャバース”と申します。ヘブライ語で「第7日目」という意味で す。ただ、旧約の時代にはこの「第7日目」の「安息日」とは土曜日のことでした。かつて私がエルサレ ムの宿に泊まったとき、部屋に「シャバース」と書いた赤いスイッチがあるのに気がつきました。一体な にかと思って宿の人に訊きますと、これを安息日が始まる金曜日の日没前に押しておけば、安息日には自 動的に部屋の明かりが点る、そのためのスイッチだということでした。つまりスイッチを押すことさえも 「わざ」にあたると解釈する、それほど厳格に「安息日には何のわざをもなすべからず」を守ろうとする ユダヤ人の姿に感動すら覚えたことでした。  しかしながら、これが単なる形式に陥りますと、いささかおかしなことになるのです。ある安息日のこ と、主イエスは弟子たちと共に麦畑の中を歩んでおられました。空腹を覚えた弟子たちは麦の穂を摘み、 掌で揉んで食べ始めたのです。するとそれを見ていたパリサイ人らが「安息日の食物規定に反する」と言 って騒ぎ始めたというのです。麦の穂を摘むことは収穫の労働にあたるという解釈でした。それに対して 主イエスは「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子 は、安息日にもまた主なのである」とお答えになったのでした。主が言われたことは、安息日は掟のため にあるのではなく、喜びの祝日、すべての人が神の勝利にあずかる「礼拝の日」であるということです。 私たちが天の祝福にあずかる日なのです。  だから大切なことは「安息日の主」がどなたであるかを、いつも明確にすることです。主イエス・キリ ストのみが「安息日の主」であられる。この大切なことを忘れると、安息日の規定そのものが崩れるので す。私たちが主日ごとに礼拝を献げるのは、それが掟だからではありません。何よりも十字架の主みずか ら、ご自分の生命をかけて、何の値もなき私たちを、あるがままに祝福と生命のもとに招いていて下さる からです。主が招きたもうその御招きに、私たちは喜び勇んで従うのです。  だから主イエスは、会堂の中で片手のなえた人を癒されたとき、それは「安息日の規定に反する」と非 難したパリサイ人らに対して「安息日に善を行なうのと、悪を行なうのと、命を救うのと殺すのと、どち らがよいか」と厳しく問いたまいました。そして癒しの御業を断行されたのです。ベテスダの池の廻廊の 片隅で38年間も病気に苦しみ続けた人を癒されたのも安息日でした。そのときも主は「わたしの父は今 に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われ、パリサイ人らの形式主義を退けたまいま した。私たちが罪の支配から解放され、聖霊なる神の御臨在のもと、新しい生命に生かされることが安息 日の祝福であることを明らかになさったのです。  このように主イエスは、安息日の本来の正しい守りかたを私たちにお示しになりました。福音書を見ま すと、主イエスは安息日には、かならず会堂で礼拝を献げておられたことがわかります。主イエスご自身 が最も敬虔な礼拝者であられたのです。この礼拝の精神を主から受け継いだ弟子たち、そして初代教会の 人々は、日曜日を「主の日」(安息日)として礼拝を献げるようになります。「聖日厳守」という言葉さえ も私たちの標語となりました。これは古臭いことでしょうか?。私はそう思いません。私たちは何よりも 「聖日厳守」に生きる群れなのです。安息日を生活の中心軸に据えた者たちなのです。  それは、日曜日が主イエスの復活の日だからです。キリスト教で「三大節」と言いますと、クリスマス、 イースター、ペンテコステですが、そのうち最も早く祝われるようになったのはイースターです。そもそ も「主の日」(日曜日)の礼拝はイースター、主の復活の恵みの上に成り立っているのです。その意味では 毎週の主日礼拝がイースター礼拝なのです。復活の主は聖霊により、活ける御言葉によってここに親しく 現臨しておられます。ですから礼拝は、キリストの過去の事跡を語ることではなく、今ここにおける生き た救いの御業を告げることです。宗教改革は礼拝の改革ですが、その中心となったものは文字どおり「主 の日」の回復でした。聖人の祝日や様々な迷信を伴っていた教会ミサ聖祭を改革して「主の日」の喜びを 回復したことです。  このような「主の日」の喜びを知るとき、私たちの生活は根底から変わってゆくのです。キリストに結 ばれた者の生活は、死を超えた生命に支えられた生活です。私たち一人びとりが、いまこの「主の日」に おいて、そのような者として招かれているのです。そこで私たちは安息日について3つのことを心に留め ましょう。  第一に「主の日」は、私たちにとって「聖なる喜びの日」です。古代イスラエルの民はバビロン捕囚と いう民族最大の悲劇の中にあっても、決して礼拝を休みませんでした。預言者ネヘミヤはネヘミヤ記8章 10節において「この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの 力です」と語りました。私たちの人生にも様々な悩みや苦しみや悲しみがあります。しかし私たちが「主 の日」の礼拝に真実に生き続けるとき、私たちは全てを超えて、主イエス・キリストという揺るぎなき岩 の上に立つ者とされているのです。  主イエスの復活の場面において、空虚な墓の前で恐れる女性たちに、天使は「恐れるな」と、主の復活 の事実を告げました。「イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行か れる。そこでお会いできるであろう」。ガリラヤは「異邦人の地」であり暗黒と私たちの罪の象徴です。そ こに復活の主は「先立って」行かれるのです。そこで私たちは復活の主にお会いする。教会はその恵みの 証人です。だからこそ私たちは、大きな喜びをもって「主の日」を祝います。たとえどんな悲しみや憂い の心を抱いていても、私たちはそのあるがままに、ここに主の御声を聴きに参ります。「あなたのために主 は世に来られ、十字架におかかりになり、復活され、そして再び来たりたもう」。この御声を、私たちの救 いの出来事として聴くのです。 第二に「主の日」は、私たちが「神の栄光を現わす者とされていることを感謝する日」です。「主の日」は 新しい一週間の始めです。私たちはこの大切な日に、まず神の限りない救いの恵みにあずかり、主の御名 を讃美し、主の栄光を現わす者とされていることを共に喜びをもって言い表すのです。「神の栄光を現わ す」と言っても、人の耳目を引くこと、世間を驚かせることをする必要はありません。大切なことは、私 たち一人びとりが、いかなる時にも主が贖い取られた教会にしっかりと連なり、礼拝者として歩み続けて ゆくことです。  入院や治療のため、あるいは高齢のために、礼拝に出席できなくなる人も少なくありません。しかし、 それらの人たちは、肉体においてここに共に集えなくても、霊においては常に教会の大切な枝とされ、礼 拝者とされているのです。人の眼には無力に見えるところにこそ、神の栄光は輝くのです。私たちは、病 院や老人ホームで、教会のため、牧会者のため、また信徒一人びとりを覚えて、日々多くの祈りが献げら れていることを忘れてはなりません。そのような隠れた祈りの生活が、どんなに私たちの教会を祝福し、 伝道のわざを支えていることでしょう。ある入院中の姉妹が「先生、私には祈ることしかできません。し かし、この入院生活の中でこそ、主は祈る喜びを教えて下さいました」と言われた婦人がいました。その とおりではないでしょうか。その祈りこそ御国の宝です。そして、祈りを執成して下さる主の御手にあっ て、その姉妹もたしかに「主の日」の祝福に共にあずかっているのです。礼拝者の生きた枝とされている のです。  第三に「主の日」は、私たちにとって「キリスト告白の日」です。私たちが教会に連なって生きるのは、 私たち自身の資格や能力によるのではありません。ただキリストの限りない恵みにより、私たちは「イエ スは主なり」と告白し、礼拝の民とならせて頂いているのです。何の値もなきままに、主の復活の生命に 連なる者とされているのです。その私たちは、全人類を測り知れない罪から贖い救って下さった唯一の贖 い主イエス・キリストの御名のみを宣べ伝えます。キリストによる唯一永遠の救いのみを宣べ伝えるのが 私たちの教会です。十字架の主なるキリストにのみ、人間のあらゆる問題の根本的な唯一の完全な解決が あることを知る群れとして、私たちはおりを得ても得なくとも、ただキリストの御名のみを告白し、世に 宣べ伝えてゆく群れであり続けたいと思います。  終わりに、詩篇27篇4節を拝読しましょう。「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを求め る。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。これ は人生の戦いとは無縁なところ、安全地帯にうずくまった者のロマンティックな詠嘆などではありません。 まさに、人生と社会のありとあらゆる戦いと試練の中で、私はただこのひとつの事に生き続ける、このひ とつの事を主に願い続けると言うのです。わが生きるかぎり、主の家に住まい、そこで「主のうるわしき を見」主の御業の素晴らしさ、尊さ、限りなさ、豊かさを尋ねきわめること…。そして、その主の御手の 内に堅く結ばれた者として生き続けること…。そこに、私たちの永遠に変わることなき喜びがあり、慰め があり、平安と幸いと勇気があるのです。祈りましょう。