説     教   エレミヤ書17章5〜8節  コロサイ書3章1〜4節

「永遠なる喜び」

2018・06・03(説教18221752)  私たちが毎週の礼拝のたびに歌いつつ告白する「使徒信条」は「アーメン」という言葉で終わっていま す。なによりも私たちは、祈りや讃美歌の最後にかならず「アーメン」と唱えます。これはもともとヘブ ライ語で「神の真実」という意味の言葉です。つまり私たちは「アーメン」と唱えることによって、私た ちの信仰生活(信仰の生命)の中心がいつも「神の真実」であることを言い表しているのです。  ある英語の辞書ですが「アーメン」という言葉の訳語として「しかあれかし」という古い日本語をあて はめていました。これはとても良い訳であり、これ以上の日本語訳はないと私は思っています。「神の真実、 それがいまこの私の上に『しかあれかし』」すなわち「永遠に真実でありますように」と私たちは告白する のです。あたかも処女マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたとき、彼女は大きな畏れとためらい の中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と申し上げたように、私た ちの信仰生活は、私たちのために、まず主が成遂げて下さった救いの御業を「アーメン」(しかあれかし) と告白することによって成り立つのです。主の御業をそのままに、わが救いの出来事として受け入れる恵 みを、私たちは与えられているのです。「アーメン」とは、その限りない「神の真実」を言い表す告白なの です。  そこで、今朝の御言葉・コロサイ書3章3節と4節に、このように告げられていました。「あなたがた はすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠されているのである。 わたしたちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われ るであろう」。  ここで使徒パウロは「あなたがたのいのち」すなわち、キリスト・イエスに結ばれ贖われた私たちの復 活の生命は「キリストと共に神の内に隠されている」と申しています。不思議な言いかたですが、この「隠 されている」とは「最後の日まで堅く守られている」という意味の言葉です。私たちはキリストに結ばれ ることによって、死を超えた甦りの生命を与えられている者たちですが、その私たちといえども、やがて 肉体においては死すべき時を迎えます。最後の時を迎えるのです。  しかし、私たちに与えられたキリストの生命、死を超えた甦りの生命は、決してそこで終わることはな い。それは「キリストと共に神の内に隠されている」ものであって、その生命は、いま私たちを礼拝者と して健やかに生かしめると同時に、歴史の最後の日まで「キリスト共に神の内に」堅く支え続けている生 命であると、使徒パウロは教えているのです。そしてそれは終わりの日、キリスト・イエスの再び来たり たもうその日(世界に救いの御業の完成するその日)に「わたしたちのいのちなるキリスト」と共に栄光の 内に現われるであろう。つまり、私たちはキリストの栄光の御姿と同じ形に変えられるであろう。それが 今朝の御言葉が私たちに告げている福音の真理です。  ところで、私たちはこのように「永遠の生命」を信ずる者たちですが、もしもこの「永遠の生命」を、 ただ単に“永続する生命”という意味でのみ理解するならば、それは決してキリスト教だけの専売特許で はありません。いかなる宗教でも、多少の意味の違いこそあれ、死後も存続する生命や意識について、何 事かを教えていないものはありません。たとえ無神論者であっても、死後の生命について漠然とした希望 を抱いているのが普通です。もしそうでなければ、無神論にとって葬儀は不必要だということになります。  私たちが仏教のお葬式に出席しても、弔辞の中で故人に対して「私たちをいつまでも見守っていて下さ い」等と呼びかけるのはあたりまえになっています。本来の仏教には霊魂不滅の思想というものはなく、 人は死ねばただ無に帰するのであって、死後の世界など存在しないというのが釈迦本来の教えです。しか しその仏教が日本に伝えられますと、いつしか祖霊崇拝、死者供養の宗教へと様変わりしていったのです。  明治20年代にわが国にやって来たラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、当時の松江中学校の英語の授業 で「神について」という題で生徒に英作文を書かせました。するとほとんど全ての生徒が「神とは死んだ 人間のことである」と書いたのを読んで非常に驚いたということです。ハーンという人はこよなく日本を 愛し、日本文化をよく理解した人ですけれども、それでも日本人が持つ独特の死者崇拝に対しては驚きの 思いを抱いているのです。これは決して過去の事柄ではなく、現代でもなお、大多数の日本人が、霊魂の 存在や死後の生命について、漠然とした肯定をしているという統計結果があります。人間はどんなに時代 が変わっても、自分の死の問題を乗り超えることはできないのです。たとえ漠然としていても、藁にも縋 るような思いで、迷信にさえ頼ってしまうのが人間なのです。  しかし、もしそういうことが、聖書が語る「永遠の生命」と同じことだとしたなら、古代エジプト人や 古代ギリシヤ人、またはアメリカ・インディアンなどのほうが遥かに確かで純粋な、生き生きとした希望 を抱いていたと申さねばなりません。古代エジプト人にとって、死後の生命の実在は疑う余地のないこと でした。古代ギリシヤ哲学においても、プラトンに代表される霊肉二元論(霊魂不滅説)は長くヨーロッパ 思想を支配し、中世においてはキリスト教の中にさえ取り入れられました。あるいは、中国古代王朝やわ が国の古墳時代の墳墓に観られる死後の生命への願いは、その規模の大きさにおいて私たちを圧倒します。 現代人よりも遥かに確かな希望を抱いていたと言えるでしょう。  私たちが信じる「永遠の生命」とは、そのようなもの(その程度のもの)ではないのです。聖書が私たち に告げている「永遠の生命」の確かさは、古今東西のあらゆる“死後の生命”の思想とも違うものです。 それを明らかにするものは、私たちの教会の大切な信仰の遺産である“ハイデルベルク信仰問答”の問57 と58です。そこを引用しましょう。身体のよみがえり、永遠の生命について、あなたは何を信ずるかと 問う箇所です。まず問57の答え。「わたしの魂が、この生命の終わった後に、直ちに、かしらなるキリス トのもとに、受けとられるばかりではなく、このわたしの肉が、キリストの力によって、甦らせられて、 再び、わたしの魂と一つにせられ、キリストの栄光のからだに似せられる、ということであります」。  そして問58はこう続きます。「(問)永遠の生命の項は、どんな慰めを、与えますか。(答)わたしが、いま すでに、心の中に、永遠の喜びの初めを受けていますように、この生命の終わった後にも、人の目もいま だ見ず、人の耳もいまだ聴かず、誰の心にも、今まで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのう ちにあって、神を、永遠に、讃美するようになることであります」。  使徒信条の最後、つまり「アーメン」のすぐ前には「われは…身体のよみがへり、永遠の生命を信ず」 と告白されていますが、この2つの告白はひとつのものなのです。つまり「肉体は汚れているが、霊魂は 清い」というような霊肉二元論はキリスト教の福音にはありません。仏教の言葉で言うなら「欣求浄土・ 厭離穢土」という思想は、主イエスの御教えではないのです。そうではなく、私たちはハイデルベルク信 仰問答において、否、何よりも聖書の御言葉そのものによって、驚くほど単純明快な一つの事実を確認し ます。それこそ私たちに与えられているアーメンたる「神の真実」です。  それは、私たちは死んだのち「ただちに、かしらなるキリストのもとに、受けとられる」と告げられて いることです。それこそ、今朝の御言葉で言うところの「あなたがたのいのちは、キリストと共に神のう ちに隠されている」(キリストと共に神の内に、終わりの日まで堅く守られている)恵みでして、私たちの 全存在が、肉体も、心も、魂も、その全体が「ただちに、かしらなるキリストのもとに、受けとられる」 のです。この「受けとられる」という元々のドイツ語は「抱き止められる」という言葉です。肉体の死と いう、何人も乗り越えることのできない断絶を超えて、主なるキリストが私たちの全存在を、御自身の恵 みの御手に「抱き止めて下さる」のです。それが私たちの救いそのものなのです。そのために主は十字架 にかかって死んで下さった。教会のいちばん高いところに十字架が掲げられているのは、この主イエス・ キリストの恵みの確かさを、全ての人々の証し、告げるためです。  私たちは自分の死において、そこで何の支配を観るのか。罪と死の絶対的な支配でしょうか?。違いま す。「かしらなるキリスト」の永遠の恵みの御支配を見いだすのです。その永遠の恵みの御支配の内に、今 も、肉体の死の後にも、私たちの存在の全体が「抱き止められている」のです。それこそローマ書8章38 節以下の御言葉を心に留めましょう。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来 のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主きりスト・イ エスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。  このことは同時に、今なおローマ・カトリック教会に残っている「煉獄」の教理を否定するものです。 英語では煉獄のことをパーガトリィ(清めの場所)と言います。死者は天国に行く前に、生前の罪を煉獄に おいて償わねばならない、という教理です。しかし私たちは第二スイス信条において、煉獄の教理は聖書 の根拠を全く持たないこと、死者の魂はただ神の恵みの主権のもとにあるのであって、人間が支配しうる ものではないこと、従って聖人の功績を執成す代理的祈祷、免罪符(贖宥)の教理の誤りであることを明ら かにしました。私たちは死によっても、煉獄によっても、代理祈祷によっても、浄化されることはありま せん。ただ信仰によって「イエスは主なり」と告白し、教会において贖い主なるキリストに連なることに よってのみ、義とされるのです。  それゆえにこそ、私たちが主から戴いている死を超えた慰め(救い)は、それだけではないのです。先ほ どのハイデルベルク信仰問答の問58にありましたように「このわたしの肉が、キリストの力によって、 甦らせられて、再び、わたしの魂と一つにせられ、キリストの栄光のからだに似せられる」慰めと幸いと 祝福を、私たちは主から戴いているのです。本来、私たちの「身体」は罪に支配されたものであって、文 字どおり「朽つべき、滅ぶべき」もの「主の御前に失われていた者」でした。しかし、主はまさに私たち の「滅び」をも御自身に引き受けて十字架に死んで下さったのです。だから今朝のコロサイ書3章3節で も、パウロは「あなたがたはすでに死んだものであって」と言っています。私たちはキリストと共に罪の 古き身体に死に、キリストの賜わる永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)に、主の教会によっていま 招き入れられ、堅く主に結ばれているのです。  朽つべき、死ぬべき、失われていた私たちの「身体」が、朽ちないもの、死なないもの、キリストの賜 わる永遠の生命に呑みこまれ、覆われてしまったことを私たちは信ずるのです。キリストの義の衣を纏わ せて戴いているのです。そのような者として、キリストの生命の祝福に生かされ、満たされて、生命ある かぎり、否、死を超えてまでも、私たちは神にお仕えし、主の御救いを讃美し、永遠に主と共にあり続け る者たちとされているのです。そして神は、御子イエスを死者の中から復活させた同じ御力によって、こ の私たちの死すべき身体をも、やがて主の来臨のとき、キリストの栄光の御姿に似た者となして下さるの です。  今そうであるごとくに、永遠に主の御教会に結ばれて、私たちは「いますでに、心の中に、永遠の喜び の初めを受けているように、この生命の終わった後にも、人の目もいまだ見ず、人の耳もいまだ聴かず、 誰の心にも、今まで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのうちにあって、神を、永遠に、讃美 するように」ならせて戴くのです。そこに、この礼拝が永遠に連なった御国のわざであること、そして私 たちの日々の信仰生活が、永遠の御国に連なった者の歩みであることが現わされているのです。  最後に、ハイデルベルク信仰問答の問1を読んで終わりましょう。「(問)生きている時も、死ぬ時も、あ なたのただ一つの慰めは、何ですか。(答)わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのも のではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。祈りましょう。