説    教    詩篇11篇1〜3節   マルコ福音書14章32〜36節

「ゲツセマネの祈り」

2018・05・27(説教18211751)  「ゲツセマネ」とは、エルサレムの東側に位置するオリブ山の中腹にあったオリーブ畑の名称です。そ こからはエルサレムの街を一望に見下ろすことができました。元々「ゲツセマネ」とはヘブライ語で「油 絞りの場所」という意味です。まさにその言葉の示すごとくに、主イエスは私たちの罪のために十字架に おかかりになる前日、そこで血の汗を流したもうて、激しい祈りの時を過ごされたのです。  今朝の御言葉・マルコ伝14章32節以下は、息詰まるような厳しく重い場面の連続です。時は「最後の 晩餐」の直後のことでした。そこではユダの裏切りの出来事があり、弟子ペテロの離反の予告が主の御口 よりなされました。だから弟子たちにとっても、主イエスと共に通い慣れたはずのゲツセマネへの道は、 喩えようもなき重い足どりであったことでした。しかも主イエスはそこで、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3 人だけをお連れになって、園の奥へと入って行かれたのです。  34節以下を見ますと、主イエスの御言葉と御姿が次のように記されています。まず主は「わたしは悲し みのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい」と3人の弟子たちにお命じにな りました。「目を覚ましていなさい」とは、ただ「起きていなさい」という意味ではなく「堅く信仰に立ち 続けなさい」という意味です。主は私たちに、ただ信仰によって祈り続けるように求めておられるのです。 さらにこう記されています。「そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ 去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはあり ません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころの ままになさってください』」。  よく、キリスト教の、といいますより、聖書のこの場面が、日本人にはいちばんわかりにくいと言われ ます。古今東西、偉人聖人と言われる人々は、非業の死に直面しても従容として死を受け入れました。ソ クラテスは弟子たちの見ている前で平然と毒杯を仰ぎ、織田信長は本能寺の変に際して「敦盛」を謡いつ つ業火に身を投じ、吉田松陰は安政の大獄にあたり「留魂録」を遺して粛然と死に赴いた。それなのにど うして、イエス・キリストはかくのごとく死を恐れたのか。そこが日本人には「わかりにくい」と言われ るのです。  芥川龍之介の短編小説に「おしの」という作品があります。時は安土桃山時代、大阪夏の陣で戦死した 侍の未亡人「おしの」は、ある切支丹伴天連のもとに幼い息子の病の癒しを求め、切支丹秘伝の薬を頒け て戴きたいとやって来ます。伴天連は親切に彼女を聖堂の中に案内し、キリストやマリアの像を彼女に示 し、キリストの生涯を説き聞かせます。最初は神妙に聞いていたおしのでしたが、伴天連の話がゲツセマ ネの祈りに及ぶや否や、一転して軽蔑の念を露わにし、死を目前にして脅えるなど、侍の風上にも置けぬ うつけ者、かくのごき弱卒がいかでわが子を癒しえようぞ、ええい汚らわしいと言い捨て、聖堂を立ち去 ってゆくのです。  そこで現代の、この教会に連なっている私たちには、このゲツセマネの祈りは少しも「わかりづらいも のではない」と言い切れるでしょうか?。私たちには「この祈りは心の底から理解できる」と言い切れる でしょうか?。そうではないと思うのです。現代のキリスト者である私たちにとっても「おしの」と同様、 やはりゲツセマネの祈りは最もわかりづらいものであり、時に「つまずき」でさえありうるのではないで しょうか。それは、このゲツセマネでの主イエスの祈りのさまが余りにも凄まじいからです。ここには、 私たちの想像もつかぬ苦しみが描かれているからです。  もともと、神は苦しみや死とは無縁だからこそ神であると、ギリシヤの人々は考えていました。言い換 えるなら、神は死や苦しみや悩みとは隔絶したかただからこそ「神」の名にふさわしいと考えられていた のです。ゲツセマネで血の汗を流して、悲しみの余り死ぬほどであると言われ、壮絶に祈りたもう神の御 子というものが、そもそも人類の思いを遥かに超えたものでした。私たちの思いを超えた神の出来事が、 つまり福音の出来事が、ここには現れているのです。だからこそ、私たちには「わかりにくい」のです。 「わかった」などという安易な言葉を打ち消す、まことに厳粛な神の出来事が、ここには現われているの です。  そもそも、キリストの十字架の死とは、いかなる死であったのでしょうか。旧約聖書によれば、十字架 による死は、永遠に神に棄てられることを意味しました。つまり、永遠の呪いを身に負うことでした。私 たちは世間で言うところの「天寿」を全うしての死でさえも恐れます。私たち人間は死を真正面から見る ことができないのです。死は自分の存在の終わりであり、経験の彼方にあるものです。それならば、永遠 の呪いとしての死は、なおさらではないでしょうか。  私たちはそれを想像することさえできないのです。悟るなど問題外です。自分の肉体の死さえ正面から 見据ええない私たちが、どうしてキリストが担われた永遠の呪いとしての死を、永遠の滅びとしての死を、 理解することなどできるでしょうか。絶対にできないのです。在原業平ではありませんが、私たちにとっ て死はそのたびに新しい課題です。ましてや永遠の神の御子イエス・キリストの、私たちの罪のための十 字架の死のさまが、どうして理解できましょうか。  私たちの罪は、一言で言うなら「神との交わりの外に出てしまうこと」です。神と無関係な存在として 生きてしまうことです。神の生命から出てしまうことです。それほど重大なことなのに、私たちはそれを 自覚もせず、自覚症状もありません。なぜなら、罪は私たち人間にとって「自然なこと」だからです。自 然なことに対しては自覚がないのです。私たちはふだん空気の有難さを自覚しません。空気はいつも自然 にそこにあるからです。しかし空気がなくなれば、はじめて空気の有難さを自覚するでしょう。それと同 じように、罪は私たちにとって自然なものですから、私たちはそれを自覚しないのです。神から離れ、神 との交わりを失っていながら、なおその重大さを自覚できずにいる存在が人間なのです。そこに人間存在 の根本的な矛盾があるのです。  キリストは「まことの神のまことの御子」であられます。言い換えるなら、キリストのご生涯と御言葉 には、私たちに対する神の御心が全て現されているのです。キリストのご生涯は最初から終わりまで、そ の全てが私たちの救いのためのご生涯です。主は私たちのためにご自分の全てを献げて下さいました。言 い換えるなら、まことの神は、あなたというただ一人を罪から贖い救うために、ご自分の全てを献げて下 さったかたなのです。それがまことの神の御性質なのです。  ごく単純なことを考えれば良いでしょう。もし私たちの愛する家族の誰か一人が病気になったとき、心 から心配して、居ても立ってもおれなくなるのではないでしょうか。それならば主イエスにとっては、ま ことの神の御子にとっては、全世界の全ての人々の罪のさまが、ありありと見えておられるのですから、 私たちの病の現実が世界中に溢れているのですから、それを真直ぐに見据えたもう主の御心の内には、い かに限りない御苦しみと御悲しみが満ち溢れたことでありましょう。いまゲツセマネにおいて祈りたもう 主の上に、その全ての苦しみと悲しみが、測り知れない重みとなってのしかかっているのです。それが「わ たしは悲しみのあまり死ぬほどである」と、主が弟子たちに言われたことの意味なのです。  本当に愛するとは、その愛する者のために自分の生命を献げることです。主は私たちを極みまでも愛し たまい、その私たちのために、全世界の全ての人々の罪の救いのために、ご自分の全てを十字架に献げた もうのです。主イエス・キリストの上に、全世界の人々の罪の重みがのしかかっているのです。私たちが 自覚さえしないでいる罪の重みを、主は黙って私たちのために一身に受け止めて下さったのです。だから こそ主は祈られたのです。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわた しから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と。  主イエスが十字架の上で死なれた死は、私たちの誰もが直視することさえなしえず、また死ぬことさえ できない本当の、罪人たる人間の永遠の滅びである「まことの死」でした。言い換えるなら、主イエスだ けが、私たちの死ぬべき「まことの死」を身代わりになって引き受けて下さった。私たちが滅びなくても 良いように。私たちが神との交わりから離れたままでいないように。主はご自分の一身に、全世界の人々 の全ての「まことの死」を担い取って下さったのです。神の外に出てしまった私たちを救い、まことの永 遠の生命(まことの神との永遠の交わり)を与えて下さるために、神みずからイエス・キリストによって 神の外に出て下さったのです。十字架におかかりになって、私たちの罪の全てを贖い取って下さったので す。  ここに、神は死なないからこそ神である、というギリシヤ的公式は崩れ去ったのです。まことの神は、 私たちの救いのために、私たちに対する極みまでの愛のゆえに、ご自分を永遠の死に渡したもうたかたな のです。主が飲まれた「杯」とは、まさにこの永遠の死です。測り知れないほど恐ろしい、永遠の滅びと しての死です。本来なら罪人なる私たちが死なねばならなかった死です。それを主はことごとく御自分の 上に担って下さった。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と、父なる神の御心 に全く従順に、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。  まさに私たちは、この十字架のキリストによって、全ての罪を贖われ、キリストの義を与えられて、新 たな永遠の生命に連なる者とされました。その目に見える証拠がこの教会です。ゲツセマネの祈りによっ て示されたキリストの御姿を、私たちは堅く心に刻みつつ、ただ十字架の主のみを仰ぎ、主の御跡に従う、 新しい喜びの生活を造って参りましょう。そして、主のお建てになったこの教会に連なり、礼拝者として 生きる歩みにおいて、生涯変わりなく、忠実かつ熱心なキリスト者であり続けたいと思います。祈りまし ょう。