説    教   エゼキエル書37章4〜5節   使徒行伝2章1〜4節

「ペンテコステの喜び」 聖霊降臨日主日礼拝

2018・05・20(説教18201750)  椎名麟三という優れたキリスト者の作家がいました。若き日に地方の鉄道会社に就職し、当時は違法 であった共産党の活動に関わる中で、治安維持法違反で検挙され、拷問を受け、ついに仲間を裏切って しまった。その絶望と自己破綻の経験から、人間存在の脆さ(希薄性)というものを、戦後の作家活動 の基盤に据えて出発した人です。彼は自分の挫折の絶望と苦しみの中でキリスト教に出会い、洗礼を受 けてキリスト者となるのですが、自分が洗礼を受けた時のことを、ある文章の中でこのように語ってい ます。  それは、自分は生涯を賭けてと誓った共産党の仲間を、肉体に加えられた苦しみから裏切ってしまっ た人間である。弱く脆く醜い人間である。そのような自分は、きっと死ぬ時にも、恥ずかしく醜態を晒 して死ぬにちがいない、ずっとそのように思っていたというのです。だから死ぬことがとても怖かった。 それは死への備えが全くできていない自分に対する怖れでした。そのような中で椎名鱗三はキリスト教 に出会い洗礼を受けるのですが、洗礼を受けた瞬間、その怖れから解放されたと言うのです。  どういうことかと申しますと、それまでは「死に行く自分の存在」を、自分の責任において「なんと かしなければ」と思っていた。ところが、自分の人生の「主」は自分ではなく、この自分のために十字 架にかかって下さった主イエス・キリストである。洗礼を受けるということは、この喜びの事実を根源 とした新しい人生を生きることです。その「喜びの事実」がわかったとき、たとえどんなに恥ずかしく 醜態を晒して死のうとも、その自分をも主が愛の御手にしっかりと受け止めていて下さることがわかっ た。だから、自分はたとえどんなに恥ずかしく醜い死にかたをしようとも、怖れることなく生きかつ死 んでゆくことができる。そのように椎名鱗三は語っているのです。  私はこれこそ、近代日本の文学において現れた、最も深いキリスト告白であると思っています。この 意味において椎名鱗三という人は、遠藤周作や加賀乙彦や小川国夫などの他のキリスト教作家とは一線 を画した存在です。信仰告白的・プロテスタント的作家であると言っても良いでしょう。なによりも椎 名鱗三は、自分のこの経験を総括して「それは決して起こるはずのないこと、死人の復活が私の上に起 こった出来事であった」と語っています。自分は復活を聖書が語るそのままに信じる。信じるほかはな い。なぜなら、最も復活から遠かったこの私の身に復活が起こったからだ。  そして、ここが大切なことなのですが、椎名はこの復活の喜びが、聖霊によって自分に与えられた「ペ ンテコステの喜び」であると語っています。私たちが復活の福音を自分の「救い」として喜びうるのは、 それは私たちに「ペンテコステの喜び」が与えられているからである。では、その「ペンテコステの喜 び」とは何であるかと言いますと、いま、この「罪の暗黒」にのたうちまわる、死んだ私たちの存在に、 聖霊によって新しい生命が注がれたこと、聖霊によって「死人の甦り」が、私たちの救いとしていまこ こに実現していることなのです。  今朝、私たちにペンテコステの喜びの告知として、旧約聖書エゼキエル書37章の御言葉が与えられ ました。ここで、主なる神はエゼキエルに問いたもうのです。「人の子よ、これらの骨は、生き返ること ができるのか」。そこは、戦争が行なわれ、おびただしい戦死者の遺体が野晒しになっていた、文字どお りの“死の陰の谷”でした。2節によれば、それらの骨は「みないたく枯れていた」と記されています。 この鬼哭啾々たる光景の前に佇むエゼキエルが、神から受けた問いは、まさにその枯れた骨(枯骨)復 活の可能性でした。この問いの前に、エゼキエルは底知れぬ畏れを抱きます。そして申します。3節で す「主なる神よ、あなたはご存じです」。  もともと預言者エゼキエルは、紀元前6世紀半ば、バビロン捕囚の時代に召命を受けた預言者です。 ですからこれらの死者たちは、実はバビロニアとの戦いに敗れた同胞イスラエル人の戦死者でした。ひ とつの国家が地球上から消滅し、ひとつの民族が滅ぼされるという、恐ろしい「終わり」と同時に、遠 くバビロンまでの「死の行進」をエゼキエルは経験した人です。こうしたまことに深刻な「終わり」の 経験の中でこそ、エゼキエルは主なる神によって「これらの骨に預言せよ」(これらの骨に福音を宣べ伝 えよ)と命ぜられるのです。  いま婦人会の例会でエゼキエル書を学んでいますが、エゼキエル書の中に何百回も出てくる大切な御 言葉があります。それは「主なる神はこう言われる」という言葉です。私たちが神を如何にして知るか が大切なのではない、大切なことは、主なる神が何を私たちに語っておられるかです。バルトの言う「神 語りたもう」のみが大切なのです。だからエゼキエルは主なる神が命ぜられるままに、福音の御言葉を 枯れた骨たちに宣べ伝えるのです。人間的に言うなら意味の無いことを敢えてしたのです。すると、驚 くべきことが起こりました。福音の言葉を宣べ伝えられた骨たちは、喜びの声を上げ、集まり、肉と筋 を生じ、やがて生きた人々の姿形となり「はなはだ大いなる群衆となった」のでした。10節を見ますと 「彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群集となった」と記されています。  私たちの救いは、99パーセント救いの可能性がなかった者が、残りの1パーセントの可能性によって 救われる、というものではないのです。そうではなく、この枯骨の群れのように、私たちの救いの可能 性は百パーセントなかった。人間が“罪人である”とはそういうことです。谷川徹三という思想家が「今 日の政治や経済の現実をも含めて、世相に見られる精神の荒廃は、われわれが『神』を忘れたところに 生まれている」と語っています。これを聖書は徹底して、ローマ書3章10節以下に「義人はいない、 ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく 無益なものになっている。義を行なう者はいない。ひとりもいない」と語っています。これは言い換え るなら「人間が自力で救われる可能性は皆無である」という宣言なのです。  この私たちの「枯骨」のような現実に対して、更に11節の言葉が告げられているのです。「人の子よ、 これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽 き、われわれは絶え果てる』と。それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、 見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わ たしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あ なたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったこと を悟ると、主は言われる」。  ここに「悟り」とあるのは、元々のヘブライ語では「信仰」という言葉です。神の霊によって「死者 の甦り」にあずかる者になることです。私たちは自分を救いうるいかなる義も持ちえない者です。世界 の中には世界を救う可能性はゼロです。しかし主なる神はこの世界をその“滅びのさま”にもかかわら ず、あるがままに限りなく愛したまい、御子イエスを与えて下さったかたなのです。それこそ「神はそ の独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。私たちはその神の愛によってこそ、は じめて真に「生きた者」とされるのです。  聖霊は十字架と復活の主イエス・キリストの現在形です。聖霊によって私たちはキリストの救いにあ ずかる者とされます。椎名麟三が「人間存在の破れの事実」から出発して、キリストの福音、キリスト の十字架の出来事の中に、永遠の希望を見出したように、私たちもまた、徹底的に「破れた存在」でし かない者ですが、神は聖霊によって私たちの底知れぬ「虚無と破れ」のただ中に救いを現わしたまい、 聖霊によって私たちに復活の生命を与えて下さるのです。聖霊はキリストの現在形、ということは、聖 霊によって神ご自身が私たちに与えられているということです。  それゆえにこそ、初代教会以来、聖霊は「造り主なる御霊」と呼ばれてきました。この世界は聖霊に よってこそ、キリストの現在形にあずかり、新たらに造られたものになるのです。死者の甦りの喜びと 幸いが、私たち自身の「救い」の出来事となるのです。決して変わることのないキリストの永遠の愛の 中に、私たちはいま生きる者とされているのです。人間のあらゆる破れを貫いて、神ご自身が働きたも うのです。そこに私たちの変わらぬ希望があり、生命があり、慰めがあるのです。祈りましょう。