説     教    申命記5章11節   ヨハネ福音書21章24節

「恩寵の証人」

2018・05・13(説教18191749)  長州・萩に松下村塾を設立して幾多の人材を育んだ吉田松陰は、国の将来を憂える思いからアメリカへ の渡航を企てます。しかし志は適わずして幕府に捕らえられ、安政の大獄で処刑されるわけです。この松 陰が密航を企てる数日前、鎌倉の瑞泉寺を訪ねています。当時、瑞泉寺の住職は松陰の伯父にあたる人物 で、松陰はこの住職のもとで「留魂録」という遺言書を書きました。「身はたとひ武蔵の野辺に朽つるとも 定めおかまし大和魂」という歌に始まり、鎖国政策を続ける日本の将来を憂い、国家の行くべき道を具体 的に示した、今日読んでも格調高い素晴らしい文章です。今でも瑞泉寺の境内には「留魂碑」という石碑 が残っていまして、松陰の志を今日に物語っているのです。  ところで松陰は、この遺言の書「留魂録」を「自分がもし志半ばにして倒れたら、これを後世の人に伝 えて欲しい」との願いをこめて2人の人物に託しました。一人は維新の志士、もう一人は極悪人でした。 ところが松陰の死後、維新の志士はこの留魂録をほどなく紛失してしまいます。この志士にとっては、松 陰の遺言よりも自分の思想のほうが大切であったのです。自分の名を上げることのほうが、留魂録を伝え るよりも大切だと考えた。それでぞんざいに扱っているうちに紛失してしまったのです。それでは、極悪 人のほうはどうであったかと申しますと、彼は、自分のような極悪人に吉田松陰先生のような立派なかた が、大切な遺言書を預けて下さった、そのことに感激しまして、松陰の言いつけを堅く守り、後生大事に 肌身離さず留魂録を大切にして、後世に伝えたのでした。そのおかげで、この極悪人の名も出自も伝えら れていませんけれども、私たちは今日、松陰の留魂録を読むことができるわけであります。  聖書のことを英語で“テスタメント”と申します。旧約なら“オールド・テスタメント”新約聖書なら “ニュー・テスタメント”です。そこで、この“テスタメント”という言葉は「契約」と訳されますが、 もともとは「遺言」という意味です。もちろん主なる神は、永遠なる「有りて有りたもう」かたですから、 その「遺言」は神の死が前提ではないことは申すまでもありません。むしろこの「遺言」という言葉は「聖 なる不変の救いの契約」という意味です。「遺言」はそれを書いた人以外は決して書き換え(変更)ができ ません。それと同じように、主なる神は御子イエス・キリストによって、絶対に変わることのない聖なる 救いの約束(契約)をこの世界に与えて下さった、その契約書こそが聖書なのです。それは言い換えるな ら、御子イエス・キリストご自身を私たちのこの世界に与えて下さった救いの出来事そのものです。  キリストご自身が「新しい契約」の内容であり、その保障なのです。それは神からの一方的な恵みです。 ふつう私たちが「契約」という場合、相互契約(コントラクト)を意味します。つまり「私はあなたとの 約束を守るから、あなたも私との約束を守りなさい」という相互対等の契約がコントラクトです。しかし 主なる神が私たちとの間にお立て下さった契約は、そのような対等関係に基づくものではありません。私 たちは主なる神と対等な立場などではありえません。神は永遠に聖にして義なるかた、私たちは滅ぶべき 罪人であります。私たちの側から契約の保証を出そうにも、何ひとつとして相応しい担保(義とされるに 足るもの)などないのが私たちです。だからこそ神は、そのような私たちのために、ご自身の最愛の御子 イエス・キリストを、私たちの罪の贖いとして(契約の保証として)与えて下さいました。何ひとつ義と されえない私たちのために、神ご自身がキリストによる永遠の義を「救いの保障」として与えて下さった。 だからこの契約はコントラクトではなくカベナントと呼ばれます。御子イエス・キリストによる「聖なる 不変の救いの契約」です。  この「聖なる不変の救いの契約」こそ、聖書が語る福音の本質です。私たちは主イエス・キリストから 救いの一方的な恵みを受けるばかりの存在なのです。信仰によって自分を主の御業のために献げるときに も、私たちは「主から受けたものをお返しする」にすぎません。そして自分の生活を献げることにより、 キリストの測り知れない恵みをより豊かに受けている私たちなのです。私たちの救いは少しも私たちの義 によらず、ただキリストの義、キリストの清さ、キリストの正しさ、キリストの恵みのみが、私たちの変 わらぬ唯一の救いであるということ。それが聖書が告げる福音の本質です。私たちの側の条件は何ひとつ 問われていないのですから、その救いのみが「聖なる不変の救いの契約」なのです。私たちの葉山教会は、 その救いの恵みを世に伝え、証し続ける群れです。  今朝の御言葉・ヨハネ伝21章24節にこうありました。「これらの事についてあかしをし、またこれら の事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている」。 ここに「これらの事」と言いますのは、ヨハネ伝において語られた全ての福音の真理のことです。それは 使徒ヨハネが勝手に考えて書いたものではない。ヨハネはただ「これらの事(福音)についてあかしを」 したのみであると言うのです。この「あかし」とは、心から信じアーメンと告白すること、そしてキリス トの教会に連なって礼拝者として生きることです。ギリシヤ語では“マルトゥリア”という言葉です。こ れは元々は「讃美礼拝」という意味でした。のちの時代は「殉教者」という意味にもなりました。  ですから今朝の24節には、このヨハネの「あかし」に対する私たちの側の「同意」があらわされてい ます。ホモロゲインですね。それが「そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている」 とあることです。神の御子イエス・キリストによって、そのご降誕とご生涯、そして十字架の死と葬りと 復活と昇天により、この世界に神の“テスタメント”(聖なる救いの契約)が現わされた。まさにその「聖 なる不変の救いの契約」福音をヨハネは心から信じ“アーメン”と同意告白して、主の教会に連なる者と なった。それはさらに彼の「あかし」すなわち、このヨハネ伝を読む私たち一人びとりにも、同じ「イエ スは主なり」との信仰を与え、キリストに対して“アーメン”と告白せしめ、教会に連なる礼拝者となす ものなのです。そのいわば「救いの連鎖反応」を、今朝の24節は明らかにしているわけです。  これと同じことを、使徒パウロも第一コリント書15章3節以下にこのように語っています。「わたしが 最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」。これはとても大切な ことです、私たちの救いの根拠は少しも私たちの中にあるのではない。それはただイエス・キリストの御 業にあるのだということです。「受けた」とはそういうことです。「内なる救い」ではなく「外なる救い」 です。キリストの御業、キリストによる「聖なる不変の救いの契約」という救いの中に、私ども一人びと りがあるがままに招き入れられた。それがパウロの言う「わたし自身も受けたことであった」という同意 の言葉です。だからパウロは15章3節以下に、キリストの御業のみを語っています。「すなわちキリスト が、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いて あるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである」。  さらに、パウロは7節以下にこのように語ります。「そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒た ちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、 神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちの ない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜 わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、 わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」。  パウロもまた、ここで「あかし」をしているのです。救いの連鎖反応が起こっているのです。自分が全 ての罪を赦され、キリストの僕とされたことも、使徒として誰よりも多くの働きをしてきたことも、全て は少しも自分のわざではなく、ただ「わたしと共にあった神の恵みである」と証をしているのです。です から私たちはパウロの手紙を読むときにも、ヨハネ伝を読むときにも、まさしくそこにおいて「わたしと 共にあった神の恵み」だけを見ます。救いの連鎖反応が私たちの中にも起こるのです。そしてヨハネやパ ウロと共に同じ信仰に立ち「イエスは主なり」と告白し、同じ主の教会に連なり、礼拝者として歩むので す。それが「証し」(マルトゥリア)です。  改革者カルヴァンは「道を伝えて己を伝えず」「ただ神にのみ栄光あれ」と申しました。このことこそ、 私たちの教会にいつも委ねられている福音宣教の使命、またその喜びの源泉です。松陰の留魂録を守り伝 えた極悪人は、自分を伝えず、ただ松陰の遺言のみを世に伝えました。それならばなおのこと、私たち一 人びとりは、主イエス・キリストに仕える僕として、それにまさる信仰の志と幸いを持って生きる僕たち とされているのではないでしょうか。そこにこそ、私たちの本当の喜びと自由があるのではないでしょう か。そのことをパウロは第二コリント4章7節に「この土の器にも」という言葉であらわしています。私 たちは「土の器」のような、弱く、脆く、卑しいものに過ぎない。しかし主なる神は、「この土の器」にす ぎない私たちに、溢れるばかりの福音の宝を与えて下さった。御子イエス・キリストを与えて下さった。 生命なき者に永遠の生命(真の神に立ち帰る幸い)を与えて下さった。その喜びと幸いに、私たちを、ま たこの世界を甦らせて下さったのです。  私たちは時に、世間の人々と比較して、日曜日ごとに礼拝を献げるキリスト者の生活が、なにか不自由 なもののように感じることはないでしょうか。もしそうなら、私たちは根本から信仰の志を改めなくては なりません。私たちのために、いっさいの罪を背負って十字架に死なれ、贖いとなりたもうた神の御子イ エス・キリストを「あかし」する礼拝者の生活にまさる、自由な、喜びに満ちた、健やかなものがどこに あるでしょうか。教会は陰府の門にさえ打ち勝つ神の家なのです。そこに連なって生きる私たちは、既に 主の復活の生命を戴いているのです。それゆえ、主の御身体に連なって生きる私たちは、ここにおいて、 自分が生きるべき本当の「からだ」(生命)を与えられているのです。罪と死によって滅びることのない、 永遠にキリストと共にある復活の身体を、私たちはいま主の教会において、主の御手から戴いているので す。そのために、主は私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった。そのキリストの極みなき愛に支えられ生 かされて、はじめて私たちは、生命と喜びと朗らかな自由に満ちた「土の器」とされてゆくのです。  いま、あるがままに、私たちの全存在が、私たちの全生涯が、私たちの日々の務めが、キリストの愛の 素晴らしさ、キリストの救いの尊さを物語り始める、それは何という幸いでありましょうか。ヨハネも、 パウロも、世々の聖徒たちも、その幸いに生きた人々です。そして、私たちもまた「これらの事について あかしを」する僕とされているのです。私たちもまた喜び勇んで「恩寵の証人」として生きて参りたいと 思います。祈りましょう。