説    教    イザヤ書55章6〜9節   マルコ福音書8章27〜30節

「教会の信仰」

2018・05・06(説教18181748)  あるとき主イエスは、ピリポ・カイザリヤという村里の近くで「人々は、わたしをだれだと言っている か」と、弟子たちにお訊ねになりました。そして対話の中で、さらに「それでは、あなたがたはわたしを だれと言うか」とお訊ねになったのです。これに対して、シモン・ペテロが弟子たち全員を代表して答え ました。「あなたこそキリストです」。ここに、私たちはマルコによる福音書の中心を見ます。さらには、 ここにこそ福音そのものの本質がある、と申しても過言ではないのです。  ピリポ・カイザリヤという地方は、都エルサレムからは数百キロも離れた、いわば“辺境の地”でした。 まさに主イエスはこの辺境の地で、旅の途上で、弟子たちに大切な信仰告白を求められたのです。このこ とには深い意味があるのではないでしょうか。私たちは「信仰告白」と申しますと、それは文字どおり信 仰の受け入れられる世界、たとえばエルサレムの神殿のような“目抜きの場所”で、つまり“神の臨在を 実感できる場所”でなされるものだと考えています。  それは何よりも、主の弟子たちがそうでした。主イエスが事もあろうに“異邦人の土地”と呼ばれるガ リラヤの、さらに北にある、ピリポ・カイザリヤという、外国の地名が付いた辺境の地で、信仰告白を求 められたことに、彼らは非常に驚いたことでした。いわば不意打ちを食らったのです。私たちの人生の旅 の途上においてこそ、主イエスは「あなたがたはわたしをだれと言うか」と、弟子たちに、否、私たち一 人びとりに訊ねたもうのです。  私たちが信仰を告白する場所は、教会の礼拝堂とか、礼拝の中で、というのはもちろんですけれども、 実は主イエスは、私たちの日常生活のただ中で、むしろ神とかキリストが全く問題にされず、信仰の言葉 が通用しないような、世俗的な場所(魂の辺境地帯)においてこそ「あなたがたはわたしをだれと言うか」 とお訊ねになっておられるのです。言い換えるなら、毎日の生活という「旅」の途上においてこそ(信仰 とは無関係に思われる場所においてこそ)私たちは真実に「あなたこそキリストです」と告白しているか どうかが問われているのです。  さて、そこで、主イエスは私たちに「人々は、わたしをだれだと言っているか」と、まずお訊ねになり、 その後に「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と、改めて訊ねておられます。このことは、 とても大切なことです。私たちは他の人々のことは安易に語ります。自分以外のこと、世間のことは簡単 に批判します。あの人は信仰が有るとか無いとか、あるいは世間の人たちは(時に家族でさえも)自分の 信仰を少しも理解してくれないとか、そういうことは言いやすいのです。つまり「人々が主イエスをどう 思っているか」については、私たちは簡単に語ることができるのです。しかし大切なことは「私たちが主 イエスをいかに告白しているか」です。人々(世間)がキリストをどう見ているかではなく、私たち一人 びとりが、今キリストをどのように信じ、告白しているか、そのことが大切な唯一のことなのです。  そこで私たちは、改めて今朝の御言葉から、主イエスのご質問の意味をしっかりと理解したいと思いま す。言い換えるなら、最初のお訊ねと、二度目のお訊ねの違いを、明確に理解することが大切です。最初 のお訊ねに対しては、様々な答えが出ました。今朝の28節で申しますと、弟子たちは主イエスに「バプ テスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者も あります」とお答えしたのです。これは相対的な事柄です。つまり「人々は主イエスについて何を語って いるか」ということです。同じものを見ても、解釈は人によって千差万別ですから、百人の人間がいれば、 百通りのキリスト解釈があるのは当然なのです。  しかし、主イエスは、それでよしとはなさいません。大切なことは、人々の解釈ではありません。そう ではなく、ここが大切ですが、訊ねておられるかたは主イエスなのです。ということは、求められている のは、人間の勝手な解釈などではなく、唯一の信仰告白なのです。それは2000年の昔も今も少しも変わ りはありません。いま私たち一人びとりが、御言葉と聖霊によって現臨しておられる主イエス・キリスト に対して「あなたこそキリストです」とお答えすること、それをいま、主イエスは私たちにも求めておら れるのです。  それは、たとえば「祈り」ということを考えても、私たちはともすると「祈り」というものは、自分の 願いや要求を神に投げかけるのだ(つまり人間のわざなのだ)と考えやすいのです。しかし、そうではあ りません。「祈り」とはなによりも、神が私たちに求めておられる「神の御業」なのです。神の側の願いが (救いの御心が)先行して、私たちを捕らえて、はじめてそこに、私たちの“祈りの生活”が成り立つの です。  たとえばそれは、私たちが神をいかにして知るか(いかにして神を認識するか)という、大切な問題に も繋がってきます。私たちはえてして、神を知るための根拠となるのは私たちの理性だと考えます。それ も大切でしょう。人間の学名“ホモ・サピエンス”のサピエンスとは「理性」という意味です。しかし、 人間の理性を極限まで研ぎ澄ましても、それで神がわかるわけではないのです。そうではなく、神を知る ための唯一の根拠は、実は神ご自身なのです。神の御言葉、神の御子イエス・キリストのみが、真の神を 私たちに示したもうかたなのです。だから、キリストを抜きにしては、いかなる方法においても、私たち は神を知りえないのです。逆に言うなら、私たちが正しい神認識へと導かれるのは、私たちの理性によっ てではなく、神の御子イエス・キリストの恵みによるのです。  洗礼を受ける前に、私たちの教会では、洗礼志願者に対して「試問会」をいたします。そこでも志願者 に対して求められることは、知識などではありません。よく「私はまだ聖書を十分に読んでいません」と か「まだキリスト教について十分な知識がありません」とか、自分の「理性」の不十分さを根拠に洗礼を ためらう人がいます。私はそのようなとき、いつも「洗礼を受けるために必要なものは、理性や知識では なく、信仰のみです」と申します。だから洗礼志願者に求められるのは「キリスト告白」のみなのです。 言い換えるなら、自分が如何に「神について思うか」が問題なのではなく、使徒以来の(今朝の御言葉の ペテロの信仰告白以来の)教会の信仰告白に、私たちが連なっているか否かが、いつも問われているので す。「私の信仰」ではなく「教会の信仰」が大切なのです。  このことを、いま少し詳しく顧み、私たちの信仰生活にあてはめますと、私たちは長く信仰生活を続け ているうちに、いつの間にか「信仰の言葉」に悪い意味で慣れてしまって、なにかにつけて、信仰が瑞々 しさを失い、他人事のようになってしまうことがあるのではないでしょうか。信仰が生きたもの(主の御 身体の共同体の信仰)とはならず、個人的・主観的・体験的なものになってしまう危険が、いつも私たち にはあるのです。そういたしますと、私たちの語る「信仰の言葉」は、力のない空虚な言葉になってしま います。キリストの祝福と導きを喜ぶ生活から離れるとき、私たちの信仰はいつでも偽善に陥ってしまう のです。  そのようにならないために、私たちはいつも、今朝のキリスト告白に正しく立ち続ける者であらねばな りません。「あなたこそキリストです」との、生ける主の教会の信仰告白に、いつも正しく連なり続けてい ることが大切なのです。主は「わたしはまことのぶどうの樹、あなたがたはその枝である」と言われまし た。どのような枝も、幹から離れたら枯れてしまうだけです。それと同じように、私たちもまた、世々の 聖徒たちが告白してきたキリスト告白に正しく立ち続けなければ、その信仰はやがては枯渇してしまうの です。私たちの真の生命(永遠の生命)は、私たちにあるのではなく、ただ贖い主なるイエス・キリスト にあるのです。  私たちの葉山教会は、全世界の主にある聖なる公同の使徒的なる教会とともに、西暦381年に制定され たニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白します。また、わが国におけるニカイア信条のもっとも 厳密な解釈であり、私たちが直接に連なる旧日本基督教会の信仰告白として、私たちが実存をかけて採択 し告白した「1890年日本基督教会信仰の告白」を告白します。この2つの信仰告白の上に建つのが連合 長老会です。それもみな、全ては今朝の御言葉に根拠を持つのです。「あなたこそキリストです」この信仰 を明白に掲げんがためです。そしてこの告白に、いまここに連なる私たちが正しく真実に生きる群れとな るためです。  さて、今朝の御言葉は、実は不思議な終わりかたをしています。それは30節に、主イエスの御言葉と して「するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた」とあることです。 私たちは、それは逆ではないかと思うのです。イエスはキリストであること(イエスは十字架の贖いによ って、全世界の人々の罪を贖いたもう、唯一の救い主であること)は、一人でも多くの人にすぐにでも伝 えられるべきではないのか?。それなのに「自分のことをだれにも言ってはいけない」と主が言われたこ とに、私たちは戸惑うのではないでしょうか。これは、どのような意味なのでしょうか?。  これはもちろん、キリストについて宣べ伝えてはならない、などという意味ではないのです。もともと、 ここで「戒められた」と訳された元々の言葉は、悪霊を戒める、嵐の海を鎮める、そうした場合の「戒め る」「鎮める」というのと同じギリシヤ語です。ですから、ここで主イエスが「戒められた」ことの意味は 「間違って用いないように気をつけなさい」という意味なのです。当時のユダヤ人たちも、パリサイ人で すら、ある意味ではキリストを信じていました。しかしそれは、自分たちに都合の良い政治的解放者、ダ ビデ時代の再来を実現してくれる「王」としてのキリストです。そういうキリスト理解と、あなたの信仰 告白は違うものだ。そのことに「気をつけなさい」と、主イエスはペテロを「戒められた」のです。  私たちにも、そのことは大切ではないでしょうか。私たちの信仰も、生けるキリストの教会から離れて 独り歩きをするとき(独走するとき)それはキリストの証し人の生活とはならないのです。かえって、キ リストの御栄を損なうことになるのです。事実マタイ伝によれば、この直後に、主がご自分の十字架につ いて予告をなさったとき、ペテロは主イエスの袖を引いて主を戒め「さようなことがあってはなりませぬ」 と申しました。主イエスはそのとき「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、ただ人のこと を思っている」と言われました。私たちも、同じ罪をおかすことがないでしょうか。神を畏れているよう でいて、実は人を恐れ、神に仕えているようでいて、実は人にだけ仕えていることがないでしょうか。  もし私たちが、正しい信仰告白(真のキリスト告白)に生きるなら、その信仰は私たちを本当に自由に し、軽やかな、喜びと感謝に満ちた、主の証し人とするのです。使徒パウロの語る「生きているのは、も はやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのである」という、主に贖われたる者の幸 いと自由の生活が、そこに始まってゆくのです。ここに連なる私たち一人びとりが、いまそのような生活 へと、主の僕たる「キリスト告白者」の生活へと、招かれ、生かされているのです。祈りましょう。