説    教    創世記3章20〜21節   マルコ福音書12章41〜44節

「主の義を纏いて」

2018・04・29(説教18171747)  主イエスは弟子たちをお連れになって、ユダヤ各地を巡回伝道なさり、数多くの奇跡や御教えを人々に 示したまいました。いよいよ都エルサレムに入城なさったのは、主が十字架におかかりになる約一週間前 のことです。イスラエルの三大祭のひとつ「過越祭」が近づいた折でもあり、エルサレム神殿の境内は、 ユダヤ国内はもちろん、世界各地から訪れた大勢の参詣客で賑わっていました。主イエスはこの神殿の境 内で、当時の宗教的指導者であった祭司長・律法学者たちを厳しく叱責批判された、その様子が今朝の御 言葉の直前、マルコ伝12章40節までのところに詳しく記されています。  主イエスは民衆にお教えになって「律法学者らに気をつけなさい」と言われました。それは何よりも、 律法学者らが「長い衣を着て歩くこと」「広場であいさつされること」「会堂の上席、宴会の上座を好んで いること」。この3つをさして、主は「(同じようにならないように)気をつけなさい」と言われたのです。 「長い衣」とは、律法学者にのみ着用が許された法衣であり、権威の象徴でした。「あいさつ」というのも、 形式的な簡単なものではなく、時間をかけて行う儀式的な大袈裟なものでした。「会堂の上席」とは、自分 たちが社会的序列の第一位であることを求めたのです。そこで、本来ならば、このような権威の象徴を身 に纏うことは、大きな責任を伴うことでした。例えば、かつてイギリスにおいて、第一次世界大戦で最も 多くの犠牲者を出したのは貴族・中産階級の青年たちでした。つまり「高貴なゆえの責任」(ノーヴレス・ オブリッジ)が求められるのです。  しかし律法学者らは逆に40節にあるように「やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りを」 していたのです。もともとイスラエルでは「寄留者やみなしごの権利をゆがめてはならない。寡婦の着物 を質に取ってはならない」(申命記24:17)という社会的な弱者保護の規定がありました。それを実施する ために裁判官の役目を委ねられたのがパリサイ人などの律法学者たちであったはずでした。しかし彼らは こうした弱者を保護するどころか、むしろ裁判を求める寡婦に高額な賄賂を要求して私腹を肥やし、まさ に40節に主イエスが言われるように「やもめたちの家を食い倒す」ような非道なことをしていました。 しかも外見だけはいかにも敬虔なふうを装って「長い祈り」をするというに至っては「神と人を欺く」と いう大きな罪を犯しているわけですから、「もっともきびしいさばきを受けるであろう」と主が言われたこ とは当然のことなのです。  このような、律法学者らが虎視眈々と悪意をもって主イエスを監視する中で、主イエスは神殿の境内で 「賽銭箱」に向かってお座りになり「群集がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられ」たのです。今朝 お読みした41節以下の御言葉です。当時のエルサレム神殿の「異邦人の中庭」と呼ばれる境内には、13 個の「さいせん箱」が並べられていました。なぜ13個だったかと申しますと、イスラエルの十二部族、 そして残りの一つは異邦人のための「賽銭箱」でした。それはラッパの形をした金属製でしたから、むし ろ「賽銭筒」と訳したほうが良いのです。ともあれ、その側に一人ずつ(合計13人の)神殿の係員が立 っていました。そして「誰それが幾らの献金をした」ということを、大声で人々に知らせたらしいのです。 当然のことながら、多額の金を投げ入れた人は、名前を呼ばれて得意満面であったことでした。金貨や銀 貨が金属製の賽銭筒を通るとき、カランカラーンと華やかな音を立てたことも、金持ちの自尊心を擽るの に十分な演出であったわけです。  そうした中で、群衆の列の最後尾にひっそりと、貧しい一人の「寡婦」が並んでいたのです。この女性 がなぜ「貧しい」と分かったのか。2つの理由がありました。第一に、彼女は見すぼらしい服装をしてい たに違いないからです。第二に、彼女が賽銭筒に投げ入れたお金は「レプタ二枚」という僅かな金額だっ たからです。しかし彼女は心をこめて、神への感謝と讃美をもって、その「レプタ二枚」を献げたのでし た。すぐに「レプタ二枚」という係員の、嘲笑うような声がしました。周囲の人々からも軽蔑の失笑が漏 れたことでした。なぜなら、当時のユダヤの貨幣の中で、レプタ銅貨は最も価値の低いものだったからで す。たぶん今日の金額に直すなら50円ほどです。それが二枚ですから、この寡婦はようやくの思いで100 円の献金をしたわけです。  ところが、主イエスはこの貧しい寡婦の献げものを見ておられた。見ておられただけではなく、主イエ スはすぐに弟子たちをお呼びになって言われました。今朝の43節以下です。よく聞きなさい。あの貧し いやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者は ありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れ たからである」。  ときどき「レプタ二つの献げもの」という表現を「少ない額の献金」という意味で使う人がいます。む しろそれは逆だということは、この主イエスの御言葉から明らかでしょう。このレプタ二枚の献金は、こ の貧しい寡婦にとって「生活費全部」であったからです。つまり、彼女は自分の持てる全財産を余すとこ ろなく神に献げたのです。「少ない献金」どころではないのです。むしろ、それが「自分の持ち物すべて」 であったゆえに、彼女は「だれよりも多く献げた」のだと、主イエスははっきりと弟子たちにお教えにな ったのです。その彼女の真実の献げものを、ただ主イエスだけが見ていて下さった。あとの人々は「あり 余る中から」一部を献げたにすぎませんが、彼女は生活費の全部を献げたからです。神に自分の生活の全 部を委ねきった彼女は「誰よりも多くを献げた」のです。  さて、この寡婦の献げものは、この世の価値観・経済観念から見るなら、考えられないほど「愚かなこ と」かもしれません。たとえば、私たちは「十分の一献金」という言葉を聴いてどのように思うでしょう か?。昔のキリスト者たちは「十一献金」(什一献金)と言いまして、自分の全収入の十分の一の献金を、 当然のこととして献げたのです。自分の全収入の十分の一を、主の御用のためにお献げすることが当然と 考えていたのです。いまの私たちはどうでしょうか?。「十一献金」という言葉を、単なる昔話のように聞 いていることはないでしょうか?。  私は高校生2年生(16歳)のときに洗礼を受けましたが、私に洗礼を授けて下さった森下徹造という牧 師先生は、「献金というものは、神への献げものです。だから自分が『痛み』を感じるほどの額を献げるも のです。君はキリスト者としての生涯において、いつも自分が『傷み』を感じる額の献金を献げる人にな りなさい」と、きちんと指導して下さいました。神学校に入ってから、寮で同じ部屋になった神学生から も、教会での献金の心構えを教えられました。私は今に至るまで、それらの人たちの教え導きを感謝して います。(神戸神愛教会元牧師・諱田将雄先生の話)。何よりも献金は「神への感謝の献げもの」です。こ れを重んじることはとても大切なことなのです。  私たちは、自分にとって『痛み』と思えるほどの献金を、主なる神に献げているでしょうか。むしろ私 たちは、今朝の御言葉の群集のように「ありあまる中から」少しだけ献げて、それで良しとしていること はないでしょうか。時に「信仰と献金は別ものだ」という理窟を捏ねる人がいます。しかしそれは、今朝 の寡婦の献げものを群衆と同じ目でしか見ていない人の理屈でしょう。今日の寡婦も、レブタ銅貨を二枚 持っていたのですから、一枚は自分の生活のために、明日のパンのために取っておくことができたのです。 しかし彼女はその全てを神に献げた。自分の持てる全てを、主の御用のためにお献げしたのです。だから 「レブタ二枚の献げもの」ほど大きな献げものはなかったのです。  言い換えるなら、彼女はその「持ち物」を全て献げることによって、明日の生活についても、自分自身 を神に委ねきったのです。彼女の手の内には、何ひとつ自分を支える手段を残さなかったのです。自分の 力には全く頼らず、救いはただ神にのみあると告白したのです。ある神学者は「これこそまさに終末論的 な生きかたである」と語りました。終末論的な生きかたとは、古き罪のおのれに死に、キリストの内に自 分を見出す者の生きかたです。言い換えるなら、キリストに贖われた者の、新しい喜びの人生を生きるこ とです。キリストを待ち望む生活です。  考えてみれば、私たちは愚かにも無意識の内に、明日も自分の生命が続くことが当然のことのように考 えています。実際には、私たちはある日突然に死を迎える存在であるにもかかわらず、自分だけは死なな い存在であるかのごとく、思い違いをしているのです。それだけでも、どんなに大きな傲慢でありましょ うか。よくテレビCMなどで「老後の人生設計が云々」というキャッチフレーズを耳にします。だから何々 保険に入ろう、という勧誘ですね。私たちはそういうことには人並み以上に関心を示しても、神に仕える 人生、神への献げものについては、二の次三の次になっているとすれば、それこそ「おのれに対して富ん でも、神に対して富まない人」になっているのではないでしょうか。  さて、この貧しい寡婦が自分の全財産である「レプタ二枚」を神に献げたことは、主イエスがエルサレ ムに入城なさったのは、十字架におかかりになるためであったということと深い関わりがあります。事実、 この出来事から一週間後には、主イエスは十字架にかかっておられるのです。主イエスの十字架、それは 永遠にして聖なる真の神であられる主が、私たち罪人を極みまでも愛して下さり、私たちを罪と死の支配 から贖うために、ご自分の全てを余すところなく献げて下さった出来事です。生活費全部どころか、主イ エスはご自分の全てを、人々のために神に献げ尽くして下さったのです。  それならば、この貧しい寡婦の献金は、まさに貧しさの極み、つまり十字架の死にまで降りて来て下さ った、主イエスの贖いの恵みを指し示すものでした。ですから今朝のこの物語は、今から2000年前にこ ういう立派な献げものをした婦人がいたという美談物語ではない。そうではなくて、彼女の献げものは、 私たちのための主イエスの十字架の無限の恵みを表し、それを証しているものなのです。これとよく似た ことが、翌日にも起こります。一人の女性、しかも町で「罪の女」とレッテルを貼られた女性が、高価で 純粋なナルドの香油を携えてパリサイ人の家に入り(そのこと自体が、死を覚悟した行為でした)そこで 香油を全て主イエスの「葬りの準備」として献げたことです。この時も弟子たちは、高価な香油を無駄に したと言ってこの女性を非難しています。しかし主イエスは彼女を責めてはならない、なぜなら「彼女は わたしに良いこと(最も美しいこと)をしてくれたのだ」と言われました。この「良いこと」(最も美しい こと)とは、私たちの人生そのものが、贖い主なるキリストに結ばれたものになる、その全てにまさる幸 いを現わしています。  主イエス・キリストは私たちのために、その持てるもの全てどころではない、ご自分の存在と生命のい っさいを、私たちの救いのために、呪いの十字架において贖いとして献げ尽くして下さった。罪の中にし かありえない私たちのため、しかも「十字架につけよ」と絶叫する私たちのために、御自分の全てを献げ て下さり、限りない赦しと贖い、そして永遠の生命と義とを、私たちに溢れるばかりに与えて下さり、私 たちを御教会において復活の生命に連ならしめ、ご自身の永遠の祝福の内を歩む僕として下さったのです。  たとえ律法学者であれ、敬虔な信仰者であれ、主イエスの十字架なしに救われる人間はいません。同じ ように、私たちがただ十字架の主に結ばれて生きるとき、私たちはもまたそこで、今朝の寡婦のように、 本当の献げものに生きることができるのです。私たちの生涯を通して「最も美しいこと」が「レプタ二枚」 の献げものが、キリストの愛と祝福が、輝き現れる幸いに生かされるのです。私たちもまた、主の恵みに 応えて、みずからを感謝の供えものとなす、そのような新しい一週間を歩んで参りたいと思います。祈り ましょう。