説    教   列王紀上8章27〜28節  マタイ福音書22章1〜14節

「永遠なる祝祭」

2018・04・22(説教18161746)  「イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、『天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催す ようなものである…』」。主イエス・キリストは「天国」をしばしば「婚宴」に譬えてお教えになりまし た。ユダヤの国において「婚宴」は非常に大切な、そして厳粛なものでした。そこに招かれるというこ と、しかも「王子」の婚宴に招待されるということは、大変な名誉と喜びを意味したのです。そこで、 主イエスは、その名誉と喜びこそ「天国」を現わすのだとお教えになります。この「天国」とは「神の 永遠の御支配」という意味の言葉です。言い換えるなら、主なる神との永遠の交わりの内に、私たち一 人びとりが、何の値もなきままに、ただ恵みによって招き入れられることです。その恵み(救い)を、 主イエスは「天国」という言葉で現したもうのです。  ですから、マタイ伝が語る「天国」、マルコ伝やルカ伝が語る「神の国」、またヨハネ伝が語る「永遠 の命」は、ともに一つの同じ事柄を意味します。その本質は「神の永遠の御支配」です。そして使徒パ ウロは同じ恵みを「神の義」という言葉で現わしました。繰返して申しますが、「天国」「神の国」「永遠 の命」「神の義」これらはみな、同じ「神の永遠の御支配」を意味するものです。まさにこの名誉と喜び に満ちた救いの出来事、「天国」の到来の幸いを、主イエスは今朝の御言葉において「婚宴」に譬えてお られるのです。「婚宴」の中心には一つの食卓が置かれます。招かれた人々はみな共にその食卓を囲み「生 命の糧」に与る者とされるのです。私たちの教会の中心もまた聖餐の食卓(聖餐卓)です。そこから、 生命の御言葉が宣べ伝えられ、キリストの贖いを意味するパンとぶどう酒とが配られます。キリスト御 自身に私たちは与るのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。私たちが献げているこの礼拝、否、私たちが連なってい るこの教会そのものが、実は「ひとりの王の、独子である王子の婚宴」に私たちが連なることなのです。 その「ひとりの王」とはもちろん、父なる神のことであり、その「独子である王子」とは主イエス・キ リストのことです。そして婚姻の相手とされたのは私たちのこの教会であり、その婚姻の喜びに連なる 招待客こそ、私たち一人びとりなのです。ですから教会は昔から「キリストの花嫁」と呼ばれてきまし た。つまり、主の御身体とされた教会に連なる私たち一人びとりは、キリストと教会との「婚宴」とい う名誉と喜びに、ただ恵みによって招かれている者たちなのです。  私が読んだ本の中で、とても興味深いと感じたものに「もしも宮中晩餐会に招かれたら」という本が あります。長年、皇居の大膳科(厨房)で大膳科長を務めた人が書いたものです。天皇皇后両陛下が臨 席される宮中晩餐会に招かれた人は、そのあまりの名誉に恐懼感激して、まず服装を整えなければと、 だいたい一人数百万円もかけて服を新調するのだそうです。ただし「それは少しも陛下のお心ではない」 とその人は書いています。自分が持っている中で最上の服装で、普通のタクシーに乗って皇居に来てく れればそれで十分なのに、と言うのです。ともあれ、人間である天皇陛下の宮中晩餐会に招かれてさえ、 私たちはそれほど恐懼感激し、まさに一生に一度の晴れ舞台と心得るのです。それならばなおさらのこ と、天地万物の創造主にして、私たちの唯一の贖い主なる真の神の、真の独子の婚宴に、私たちは招待 されているのではないでしょうか。それこそがこの礼拝であり、聖餐の食卓なのではないでしょうか。 そう想えばなおのこと、よほどの理由なくして欠席することなど、決してできないはずではないでしょ うか。  そして、そこでこそ問われていることは、私たちが主の御招きに相応しい“装い”をしているか否か ということです。「ひとりの王」である主なる神が、その「王子」である御子キリストのために「教会」 という瑕なき花嫁を迎え、その「婚宴」に私たちを招待して下さる、それが今朝の御言葉の内容(マタ イ伝22章1節〜14節)です。ところが、そこに信じられないことが起るのです。もともと私たち人間 の罪は「信じられない」ほど大きく、根深いものです。そのことがはっきりと現れているのが5節以下 の御言葉です。王は使いの者を招待客の家一軒一軒に遣わして、婚宴の準備が整ったので「おいで下さ い」と言わせるのです。ところが、招かれていた人々はそれを一様に「断りはじめた」というのです。 5節をご覧ください。「しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出 て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった」。  このことから、私たちは、この王が使わした「僕たち」とは預言者たちのことをさしているのだとわ かります。言い換えるなら、ここには私たち人間の、主なる神に対する“罪の歴史”が凝縮されている のです。しかも王は忍耐と寛容をもって、3度までも僕たる預言者を招待者のもとに遣わしています。3 度目には、その僕たる預言者が殺されるという最悪の事態すら起りました。これはバプテスマのヨハネ がヘロデに殺されたことを意味しています。事そこに至りまして、この慈悲深い「王」はこれら「招か れていた人々」が「相応しくない人々」であったと知って嘆き悔いるのです。そして7節にあるように 「軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」というのです。  聖にして義なる神は、私たちを限りなく愛しておられるかたですから、私たちの罪を決して容赦され ません。これを見過ごしにはなさいません。親は愛するわが子が間違った道に進もうとするとき、これ を見過ごしにできるでしょうか?。主なる神は、たとえ非常手段を用いてでも私たちの罪を滅ぼし、私 たちを正しい生命の道に立ち帰らせようとなさるのです。だからこそ、神の恵みと慈しみはそこで終わ りとはならず、むしろそこから新たに始まるのです。すなわち8節以下の御言葉です。「それから僕た ちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、 町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』そこで、僕たちは道に出て行 って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった」。  私たちはここに「出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきた」とあることに注目せねばなりませ ん。キリストのもとに招かれている人々、「神の永遠の御支配」のもとに招待されている人々の「相応し さ」とは、悪人とか善人という、人間の側の価値基準を超えているのです。そうではなく、これは驚く べき恵みですが、そこではただ王である神の“招きの恵み”だけが大切なのです。つまり、その招きの 恵みに心から従った人々であるという事実だけ(つまり信仰だけ)が「相応しさ」の条件とされるので す。  使徒パウロは、この実に驚くべき恵みの出来事を、ローマ書3章21節以下にこう告げています。「し かし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現わされた。それ は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。 そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人々は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくな っており、彼らは値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるの である」。  すると、どういうことになるのでしようか?。さきほど私たちは「悪人でも善人でもみな集めてきた」 と、王である神の御業を読みました。私たちは主なる神の御前に、誰一人として例外なく「悪人」(罪人) なのではないでしょうか。まことに今のローマ書3章に「すべての人々は罪を犯したため、神の栄光を 受けられなくなっており…」とあるように、私たちは主なる神の御子の婚宴に招かれるに全く相応しく ない者たちなのです。その全く相応しくない私たちが、ただ主なる神の恵みによって、御子イエス・キ リストとの永遠の交わりの内へと招かれているのです。これほど大いなる慰め、またこれほど忝い恵み がどこにあるでしょうか。  私たちの側のいかなる良き行いも、神の招待を受ける条件とはならず、また逆に、私たちのいかなる 罪といえども、神の招待から遠ざける理由とはならないのです。ただキリストにおける神の恵みの招き だけが大切なのです。それだけが私たちの唯一絶対の救いなのです。そこにこそ、ただそこにのみ、私 たち全ての者のまことの救いと喜びがあるのです。だから、同じローマ書3章27節以下に、パウロは このようにも申しています。「すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によ ってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」。まさにこの「信仰の法則」 こそ、主なる神の招待を受けた私たちが装うべき唯一の晴れ着なのであります。だからこそ、続けてパ ウロはこのように語ります。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのでは なく、信仰によるのである」。  そうすると、次の11節以下の御言葉の意味が、よくわかって参ります。「王は客を迎えようとしては いってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼 服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた」。実は主イエスの時代のユ ダヤにおいては、王の婚宴に招かれた客は、控えの間で自分が着てきた服を脱ぎ、王が用意してくれた 礼服に着替える習慣になっていました。王が用意した礼服に着替えないで婚宴の席に入ることは、大変 な失礼とされていたのです。この人か理由を問われて「黙っていた」のは、王との交わりを拒絶してい たことを意味します。つまりこの人は、招きには応じたけれども、王との交わりは拒絶していたのです。  私たちにも、その罪があるのではないでしょうか。教会生活(信仰生活)が、キリスト中心ではなく、 自分本位のものになってしまう罪を、私たちも犯すのではないでしょうか。教会生活においてキリスト の栄光を(救いの恵み)を現わすのではなく、自分を実現することを求めてしまうのではないでしょう か。私たちは主の教会に謙虚に、招かれた喜びをもって仕える幸いを失ってはいないか、そのことを真 剣に思い省みなくてはなりません。  使徒パウロは信仰を「キリストを着る」ことに譬えました。「着る」という元々のギリシヤ語は「覆い 包む」という字です。罪あるがままの、滅びの子でしかない私たちを、神は御子イエス・キリストによ って、その十字架の贖いによって「覆い包んで」下さったのです。キリストを着る者として下さったの です。御前に恐れなく立つ者として下さったのです。ローマ書13章14節「あなたがたは、主イエス・ キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。またガラテヤ書3章27節「キリ ストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」。そしてまた第二コリント書 5章3節には、もし私たちが「キリストを着た」ならば、私たちはキリストの義によって覆われた、新 しい人になると告げられています。  私たちの教会は、私たちのいかなる資格や相応しさをも超えて、つまり律法を超えて、ただ贖い主な るキリストの主権において建てられた〔贖われた者たちの群れ〕です。ここにおいて私たちは、ただ「キ リストの義」のみを、罪と死に勝利する復活の生命を与える喜びの晴れ着として身にまとい、キリスト に覆い包まれたものとして御前に生き続けます。礼拝に招かれているということは、キリストを着る新 しい生命の生活へと招かれていることです。このことに共に感謝と讃美をもって応え、ともに主の御身 体なる教会に連なり、主をかしらとする新しい一週間を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。