説     教    詩篇119篇151節   ピリピ書4章4〜7節

「主は近し」

2018・04・15(説教18151745)  「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、 みんなの人に示しなさい。主は近い」。使徒パウロは愛するピリピの教会の人々に、このように呼びかけて います。今朝のピリピ書4章4節以下の御言葉をです。パウロは言うのです「いまこそあなたがたは、主 にありていつも喜んでいなさい。なぜなら、主は近きに在したもうのだ」と。  この「主は近い」(主は近し)という音信はピリピ書だけに特有のものではありません。すでに聖書は創 世記1章1節において「はじめに神は天と地とを創造された」との御言葉をもって、この世界万物が神の 御業であることを示し、そして最後のヨハネ黙示録22章20節においては「『しかり、わたしはすぐに来 る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」との祈りで締め括っています。神はこの世界万物を聖なる目的 をもって創造せられ、そしてその創造の御業の完成としての救いを全うされるために、主イエス・キリス トが再び世に来たりたもうという音信、これを“キリストの再臨”と申します。つまり聖書は「天地創造」 と「キリストの再臨」という大切な2つの音信をもって、歴史の初めと終わりとを語っているわけです。 それはすなわち、歴史の初めにも終わりにも、神が主イエス・キリストにおいて、私たちと絶えず共にい て下さるという、限りなき慰めと喜びの告知です。  私たちは毎週の礼拝のたびごとに使徒信条を歌い告白しています。その中に「かしこより来たりて、生 ける者と死ねる者とを審きたまはん」という告白があります。この告白を私たちは日ごろどれだけ正しく、 また真実に受け止めているでしょうか。私たちはこれが本当に、私たち人間の真の「救い」にかかわる告 白であることを、正しく理解しているでしょうか。惰性でお題目のように、口先で唱えているだけのこと はないでしようか?。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。初代教会のキリス ト者たちは、この告白を文字どおり生命をかけて言いあらわしたのです。たとえ迫害を受けようとも、こ の信仰を曲げることはなかったのです。宗教改革者カルヴァンは今から450年ほど前、ジュネーヴにおい て大胆な礼拝改革を実行しました。カルヴァンの礼拝改革は、新約聖書の御言葉を通して、初代教会の礼 拝(つまり教会のあるべき真の礼拝)を回復したものです。宗教改革はその意味で何よりも礼拝改革でし た。御言葉の宣教と聖礼典が、聖書に従って正しく行なわれる、キリストの御身体なる教会へと、礼拝を 通して成長していったことです。このカルヴァンが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き たまはん」これこそ「私たち人間にとって最大最高の慰めである」と語っています。なぜなら、ここにこ そ、キリストの使徒たちによって「主は近し」と宣言されているからだと言うのです。  ヨハネによる福音書の第4章に、サマリヤのスカルという町で一人の「罪人」のレッテルを貼られた女 性に主イエスが出会って下さり、そこの井戸端で「生命の水」を巡る対話が始まった様子が記されていま す。あの対話の中で自らも知らずして激しい魂の飢え渇きを抱いていた女性が、いつしか主イエスによっ て導かれていったのが“まことの礼拝とは何であるか”という問いでした。ヨハネ福音書4章19節以下 です。「女はイエスに言った、『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で 礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています』。イエスは女に 言われた、『女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない 所で、父を礼拝する時が来る。……まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時 が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊 であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』。女はイエスに言った、『わたし は、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、いっさいの ことを知らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなたと話をしている、このわたしが、それ である』」。  主イエスはこの女性に対して、人の手によるものではない「霊とまこととによる」真の礼拝の回復の道 をお示しになりました。それなくして人間は人間たりえないのです。それが「まことの礼拝」です。礼拝 は私たちを極みなく愛したもう真の神に対する私たちの感謝と讃美の応答です。赤ちゃんの成長は親の語 りかけがいちばん大切だと言われています。親との交わりを失えば、子供の成長は停止してしまうのです。 それならばなおのこと、造り主なる真の神との交わりを失ったなら、私たち人間は人生の目的と意味とを 見失ってしまうのです。魂が滅んでしまうのです。  それならば、まさにこの、神との交わりを失っていた女性、いや私たち一人びとりに対して、主イエス・ キリストは、神の御子を信じ、御子によって建てられたまことの教会に連なり、神の御臨在の「近さ」を、 神をわが主、わが父として告白する唯一の真の礼拝の道を、確かにお示し下さるのです。スカルの女性は すぐに答えて申します。ああ主よ、私はどんなにその時を慕い求めていることでしょう。ゲリジムの山で も、シオンの山でもない、ただ神が御言葉と御霊によって親しく臨在して下さる場所において、神の喜び たもう真の礼拝が献げられるとき、その時にこそ、私の魂の飢え渇きは満たされ、いっさいの罪が贖われ、 新たな者とされて、この私もまた、真実なる礼拝に喜びと勇気をもって生きる一人とされる。その日、そ の時は、いつ来るのでしょう?。そうだ、私はひとつの事実を知っています。メシヤと呼ばれるキリスト が、いつか必ずこの世界においでになる。その時こそ、私たちは正しい礼拝においていっさいを満たされ、 主なる神にみまえるでしょう。その時にこそ、私の魂のさすらいは終わりを告げ、真の平安が、私の存在 と全生涯とを満たすでしょう。  なんと幸いなことでありましょう!。まさにそこで(私たちの人生のただ中で)こそ、この女性に、否、 私たち一人びとりに、主イエスははっきりとお告げ下さるのです。「あなたと話をしている、このわたしが、 それである」と!。礼拝者として生きるとは、このように語ることのできる唯一のかたを「わが主・わが 神」と呼びつつ、そのかたの御前で、その恵みの内を歩むことなのです。そればかりではありません。私 たちが主を求めていた、そのはるか以前から、主みずから私たちを知りたまい、私たちを捕らえ、いま、 あなたのためにここに来たのだと、主ははっきりと告げていて下さるのです。  カルヴァンが真実なる礼拝を回復したのは、まさに「主は近し」との福音の宣言が鮮やかに鳴り響く、 私たちの慰めと希望となる、そのような、御霊と御言葉による(「霊とまこと」による)主キリストの臨在 のみが証しされる礼拝の回復を願ったのです。新約聖書を通して明確に示されることは、ピリピの教会も もちろんですけれども、そこに「主は近し」との確信と喜びが生活のただ中に満ち溢れていることです。 いま私たちはこの礼拝を通して、活ける贖い主なるキリストに出会っているのです。主は私たちの永遠の 贖い主として、いま私たちの近きにいまして下さるのです。この恵みの事実に潤され、慰めと希望を与え られ、新たにされる幸いにおいて、時間的にもいっそう主の来臨に近い私たちが、ピリピの人々よりも心 鈍いことがあってはなりません。  かつて冨士教会を牧された福田雅太郎先生が、常々「日本の教会に最も欠けているものは健全な終末論 である」と語っていらしたことを思い起こします。「健全な終末論」とは、今朝の御言葉で申しますところ の「主は近し」との確信に生きる信仰の姿勢、真の礼拝の姿勢です。主は私たちにいと近く在したもう。 それは礼拝において、説教と聖礼典において現れているのです。それを生活の中心としないとき、私たち の存在はいとも簡単に、キリスト中心から自己中心のものへと変質してしまいます。信仰生活における自 己中心主義が現れるのです。私たちが召されている本当の信仰生活とは、御臨在のキリストの御前に、自 分の全生活を整え、お従いすることです。もし私たちが「主は近し」との確信を失うなら、それは信仰生 活においても、自分をキリストに従わせるのではなく、逆に自分にキリストを従わせる、本末転倒した偽 りの信仰生活に陥ってしまうのではないでしょうか。  「終末論」のことを英語でエスカトロジーと申しますが、それはもともと「目的」という意味のギリシ ヤ語「エスカトン」から来ています。つまり「主は近し」との「健全な終末論」に生きるとき、はじめて 私たちは、人生の本当の目的を見失うことなく「口先で主よ、主よ、と唱えつつ、御父の御心を行なわな い」生活から自由な僕とされるのです。それゆえにこそ使徒パウロは、今朝の御言葉の4節以下に「あな たがたは、主にあって、いつも喜びなさい」と告げているのです。もはや私たちの生活は根無し草のよう な漂流者の生活ではなく、神が導いておられる救いの歴史において、かけがえのない神の恵みの器とされ ている僕の生活なのです。だからこそパウロは「繰り返して言うが、喜びなさい」と告げています。主な るキリストがあなたのすべての罪を贖い、あなたと永遠に共にいて下さる。だから、あなたはどのような 境遇にあっても、決してキリストの恵みの主権から離れることはないと、パウロははっきりと告げている のです。  そのとき私たちは「いつも喜びなさい」という命令形が、驚くべき自由の福音の音信として私たちに告 げられていることを知ります。つまり「主は近し」そして「主にありて」という恵みの事実が、私たちの 生活を「いつも喜んでいる」ものとなすのです。この「喜び」を私たちから奪い得る力は存在しません。 キリストの救いの恵みに勝る罪の力は存在しません。キリストが私たちのために十字架におかかりになっ た、そして墓に降られ、甦られた。この事実こそ「主は近し」という恵みの事実のいっさいの確かな根拠 なのです。私たちはいま「主に結ばれて」ここに存在しているのです。キリストの勝利の内に、共に生か されているのです。  だから、ローマ書5章1節が告げているように「信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イ エス・キリストにより、神に対して平和を得ている」のです。そして、同じローマ書の5章10節にある ように「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解 を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と告げられているのです。それば かりではなく、さらにパウロはこうも申します「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させ て下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。  古くからあるドイツの祈りに「キリストの香り」というものがあります。短い祈りです。「主よ、願わく はわれをして、キリストの香りを世に伝える僕とならしめたまえ。わが言葉も、わが思いも、わが行いも、 なんじの御赦しの恵みに輝かしめんことを」。この祈りが、私たち一人びとりのものとなるところ、それこ そこの礼拝であり、礼拝において始まる新たな一週間です。他の誰でもなく、私たち一人びとりを、主は ご自身の「香り」を世に伝える器として、招いていて下さる、そして、世に遣わして下さるのであります。 まさに「主は近し」との永遠の恵みの事実に生きる僕として、私たち一人びとりが、その祝福を伝え行く 僕とならせて頂きたいと思います。祈りましょう。