説     教    申命記10章12〜13節  ヨハネ福音書14章5〜6節

「道、真理、生命」

2018・04・08(説教18141744)  主イエス・キリストに「あなた(がた)はわたしの行くところに、今はついて来ることはできない」と 言われたとき、弟子たちは茫然自失したことでした。主イエスを信じ、主イエスを愛し、主イエスを“救 い主”と仰ぐ弟子たちにとって、主イエスが行こうとされる所に、一緒について行けないということほど、 悲しく、辛いことはありませんでした。もし私たちがこの時の弟子たちの一人であったなら、やはり同じ 思いを抱くのではないでしょうか。  “主イエスと共に歩む”それは昔も今も変わることのない、キリスト者にとって理想の歩みです。キリ スト者の歩みは、キリストに従う弟子の歩みです。詩篇84篇の詩人もこのように歌っています「われ悪 の幕屋に住むよりは、主なる神の家の門守とならんことを願ふなれ」。神の御心から離れて繁栄と富を享受 するより、自分はむしろ主なる神の家の門守となる(つまり神の家の門前に立つ)道を選ぶと言うのです。 それこそ、この時の弟子たち一同の切実な思いでした。  しかし主イエスは「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とのみ仰せになり ます。弟子たちは、それがわからないから訊ねているのですが、その弟子たちに対して主イエスは「それ は、あなたがたに、わかっているはずだ」と言われるのです。たまりかねたトマスが主イエスに質問しま した。今朝のヨハネ伝14章5節です。「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。 どうしてその道がわかるでしょう」。    この「どうしてその道がわかるでしょう」とは、逆に申すならば「どうしても私たちにはわかりません」 という意味です。「主よ、その道を私たちに教えて下さい」と願っているのです。「教えて下されば、どこ へなりとも私たちはお従いします」と訴えているのです。そのトマスの訴えに対して、主イエスは今朝の 6節にこう言われました。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれで もわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』」。  主の弟子たちは、否、私たちは、人生にとって最も大切な神との関係においてこそ、いかに迂闊で鈍い 存在でしょうか。弟子たちは、私たちは、主の御言葉を聴いているようでいて、実は少しも聴いていない。 だから「わかっている」はずのことを「知らない」と言い張るのです。私たちは主イエスのもとで、主が 臨在して下さるこの教会の「聖徒の交わり」の中で、すでに学び続け、聴き続けて来た“主の弟子たち” ではないでしょうか。そこで私たちが歩むべき「道」とは、それは主イエスをキリスト(救い主)と信ず る信仰の道です。どこかに隠れた「道」があって、それをあなたが自分の力で捜しなさい、と主は言われ るのではない。そうではなく、この「道」とは主イエスご自身のことなのです。こう言い換えても良いで しょう。私たちは“キリストと共に”歩もうと欲します。しかし誰が“キリストの内に”歩もうと願って いるでしょうか。私たちキリスト者にとって最も大切なことは“キリストと共に”歩むこと以上に“キリ ストの内に”歩むことです。“キリストと共に”歩むことはすなわち“キリストの内に”歩むことなのです。 それこそが大切な、私たちが本当に「わかって」いなければならないことなのです。  そもそも、私たちがキリスト者として歩むとは、具体的に何をさすのでしょうか?。それは私たちが、 キリストの「ように歩む」ことでしょうか?。キリストの「ように生きる」ことでしょうか?。キリスト の「ようになる」ことでしょうか?。そのいずれでもありません。私たちは自分を神格化することは許さ れません。つまり私たちは、キリストの「ようになる」ことはできないのです。キリストの代理人にはな れないのです。これは言われてみればすぐわかる単純なことです。  しかし、その単純なことを、私たちは忘れてしまうのです。自分がキリストのように歩むのでなければ、 キリストの代理人になれなければ、本当のキリスト者ではないと思いこんでしまうのです。そこから私た ちの、自分に対する絶望と共に、他人に対する失望と審きが生まれます。誰一人として、キリストのよう に生きることは不可能であるにもかかわらず、それが可能で「あらねばならない」と決めつけるところに、 私たちの人生の歪みが生ずるのです。信仰の歩みが不健全なものとなり、主の御前に健やかに立ちえなく なるのです。  あのパリサイ人たちがそうでした。誰一人として神のようになることはできないにもかかわらず、律法 によってそれが可能だとするところに、パリサイ人らの根本的な誤りがあったのです。律法によって義と されること、つまり、律法を守ることによって、神のようになることが「救い」であると考えたのです。 そこから、律法を守りえない一般の人々を「地の民」と呼んで蔑むことになりました。それは「人間のく ず」という意味です。神のようになれない人間は、人間のくずだと言うのです。救いの余地のない輩だと いうのです。  しかし、それならば、まさにその「救いの余地のない」「人間のくず」と呼ばれた「地の民」でしかない 私たちのもとにこそ、主イエス・キリストは来て下さったのではないでしょうか。律法によっては少しも 義とされえない私たちのために、主はご自身を無とせられ、人となられて世に来て下さいました。そこで 私たちの全ての罪を背負われ、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。主が言われる「わた しの行くところ」とは、十字架による罪の贖いを成しとげて、父なる神のみもとに帰られる「救いの御業」 をさしています。だからこそ、そこに「あなた(がた)は、今はついて来ることはできない。しかし、あ とになってから、ついて来ることになるであろう」と言われるのです。  それは、どういうことでしょうか。この「あとになってから、ついて来ることになる」とは、私たちが 主の十字架と復活の御身体である教会に連なり、主が賜わる「聖徒の交わり」に結ばれて、主の愛と恵み を現わす僕とされる幸いをあらわしています。それは「今」はできないけれども、私が父のみもとから聖 霊を遣わす「聖徒の交わり」において、あなたたち全ての者が「できるようになる」と約束して下さった のです。  言い換えるなら、自分の義を何ひとつとして持ちえない私たちのために、神の御子イエス・キリストみ ずから、ご自分の全てを献げて下さって、私たちの罪の完全な贖いを成しとげて下さったことが十字架の 出来事であり、それが「主イエスの御名」による救いなのです。この「主イエスの御名」とは「主が私た ちの救いのためになして下さった全ての御業」のことです。罪なき神の子みずから、十字架に死なれるこ とによって、私たちの罪の贖いとなり、私たちの「義」となって下さったことです。それが主イエスの御 生涯=主イエスの御名なのです。  それならば、私たちにいつも求められていることは、この十字架と復活の主イエスの御名に、いつも自 分を明け渡していることです。キリストの愛と恵みに、自分を投げかけていることです。それこそが“キ リストの内に”歩むことです。言い換えるなら、主の御名を信じることです。主の御名を信じるとは、主 の御身体なる教会に連なる者となることです。真実な礼拝者として、いつも御言葉を聴きつつ歩んでゆく ことです。  だからこそ、主は私たち全ての者に告げて言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。 だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と!。この「道」とは永遠の御国に 至る道です。かつて角脇晃さんが、エペソの遺跡に行かれた時のことを話して下さいました。(たくさんの 矢印の話)。私たちはこの世界の行くべき真の歴史の歩みを、救いと平和への唯一の「道」を、主イエスか ら戴いているのです。  次に「真理」とは、私たち人間が正しく、健やかに生きるために不可欠な福音の真理をさしています。 マルコ伝の最初に「主イエス・キリストの福音のはじめ」と記されています。これは直訳すると「福音は 主イエス・キリストにおいて始まった」という意味です。これは「福音とはキリスト御自身である」とい う救いの宣言です。キリストご自身が真理そのものとして私たちのもとに来て下さり、私たちを捕らえて 下さったのです。だからヨハネ伝8章32節には「真理はあなたがたを自由にするであろう」とあります。 この「真理」はキリストによる唯一の「救い」ですから、私たちに本当の自由を(神の子の自由を)与え るのです。  この「真理」は哲学者の真理ではありません。見出されることを待っている受け身の真理ではないので す。そうではなく、私たちのもとに来て、ご自身を献げて下さった真理です。だからヨハネ伝1章14節 にはこのように記されています「そして言は肉体となり、わたしたちの内に宿った。わたしたちはその栄 光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた」。この「恵みとまこ と」すなわち「肉体」となり「わたしたちの内に宿った」「言」こそ主イエス・キリストです。  最後に主は「われは生命なり」とお教え下さいました。この「生命」とは、死によって滅びてしまう生 命ではなく、罪に打ち勝ち、復活して死を滅ぼされた、主イエスの復活の生命そのものです。その主が下 さる「復活の生命」に、私たちは教会を通して連なる者たち(あずかる者たち)とされているのです。教 会はキリストの復活の生命に共にあずかる者たちの集いであり“キリストの生命の共同体”であり「聖徒 の交わり」です。私たちは教会を通して、現臨したもう主イエスによって、復活の生命に堅く結ばれてい るのです。  これら3つの「道、真理、生命」はいずれも、私たち人間にとって最も大切な「救い」そのものをあら わしています。そのどれひとつを欠いても、私たちは人間として、真の自由と幸いに歩むことはできませ ん。健やかな社会を造ることはできません。そこでこそ大切なことは、これらを得るために、私たちが「キ リストのようになること」を主は求めておられるのではない。そうではなく、主は明確にお教え下さいま す。「わたしは、道であり、真理であり、生命である」と!。  この「わたし」こそが「主イエスの御名」こそが、限りなく大切なのです。イエスの御名のみが、私た ちの「救い」なのです。この唯一の御名をほかにして、私たちに「道、真理、生命」はありえないからで す。たとえ私たちが、この世においてどんなに弱く、小さな、頼りなき存在でありましょうとも、私たち がこの唯一の救いの御名を信じるな、主イエスに自分を明け渡しているならば、私たちはあるがままに“キ リストの内に”歩む者とされるのです。主が賜わる「道、真理、生命」の恵みを、いま戴きつつ生きる者 とされているのです。  このことを覚え、感謝と讃美をもって「道、真理、生命」なる主イエスの御名を崇めつつ、勇気と平安 の内に、信仰の歩みを、キリスト者の生活を、全うしてゆく私たちでありたいと思います。祈りましょう。