説     教   詩篇27篇1〜4節  ヨハネ第一の手紙1章1〜4節

「永遠の生命の顕現」  イースター主日礼拝

2018・04・01(説教18131743)  今日のこのイースター礼拝にあたり、私たちに与えられた御言葉は、ヨハネ第一の手紙1章1節以 下です。ここにヨハネは、このように記しています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、 よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現れたので、この永遠 のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである」。  ここに、聖書全体を貫いている一つの確かな福音があります。それは、主イエス・キリストの十字 架の出来事こそ、私たち全ての者のために、私たちの歴史と現実のただ中に、全ての人々の「いのち」 すなわち“救い”として現された「永遠の生命の顕現」(神による救いの御業)にほかならないという ことです。それは私たちが「耳で聞き、目で見、手で触れる」ほどに確かな、主イエス・キリストと いう活きたご人格として世に来た、あなたのために今来ている、そのような救いであると告げられて いるのです。だからヨハネはここに「わたしたちは……永遠のいのちを見た」という、驚くべき言い かたをします。これは「神を見た」というのと等しい言葉です。なぜならその「生命」は「父と共に いましたが、今やわたしたちに現れたものである」からだと言うのです。  そして問題は、この「今や」とは何時のことであるか、ということです。それは使徒ヨハネが活躍 していた西暦1世紀後半のことなのか、それともキリストがおられた時のことなのか、それとも初代 教会のいずれかの時代をさすのか。つまり過去のことなのであろうか?。そうではないのです。この 「今や」とは、まさしくこの私たちにとっての「今」をさすのです。現在のこの私たちの時こそ「救 いの時」とされているのです。それを自分への福音のメッセージとして受け取ることが、今日のイー スター礼拝の守りかたであります。  どうして、そのような大胆なことが言えるのでしょうか?。使徒ヨハネが「耳で聞き、目で見、手 で触った」ほど確かなキリストの「永遠のいのち」の恵みを、どうして私たちもまた「この耳で聞き、 この目で見、この手で触れる」ほど確かな“救いの出来事”として知ることを許されているのでしょ うか?。それは、十字架の主イエス・キリストは同時に、復活(よみがえり)の主イエス・キリスト でもあられるからです。つまり、御苦難を受けたもうた十字架の主イエス・キリストこそ、同時に、 全ての人を罪から贖うために墓から甦りたもうた復活の主イエス・キリストであられるのです。この ことを、使徒ヨハネははっきりと告げているのです。なによりも、今朝の3節以下を改めて読んでみ ましょう。「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、 あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父 ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。  今日のオリンピックのマラソン競技発祥の出来事として、史実というより伝説に近いエピソードで すが、紀元前490年にアテネ郊外のマラトンの野において起った、アテネ義勇軍対ペルシヤ正規軍と の戦いがあります。絶対不利だと思われていたアテネ義勇軍は激戦のすえ、ついに圧倒的多数のペル シヤ軍に勝利し、ここにアテネの平和は守られることになりました。この勝利の喜びを伝えるために、 伝令に走った一人の青年がいました。この青年はマラトンの野からアテネまで42.195キロ、42195 メートルを走りぬいて「わが軍勝利せり」と一声高く叫び、そのまま息絶えたと伝えられています。 この伝令、または彼が伝えた勝利と自由のおとずれそのものを「福音」(エウアンゲリオン)と呼びま した。  それならば、使徒ヨハネは「今や」伝令になりきって、私たちにキリストの復活による勝利と自由 の音信を告げているのです。自分が見たもの、聞いた事柄を、すなわちイエス・キリストの復活の事 実を、いま私は、あなたがた全ての人に伝えずにはおれない、それを聞いた者は、もはや自分が捕ら われ人ではないことを知るからだ。もはや自分が罪と死の支配のもとにはいないことを知るからだ。 そのように聖書は私たちに告げているのです。  キリストの復活において、マグダラのマリヤを始めとする女性たちが、まずそこで見た“復活の徴” は、墓の入口の大きな石が動かされていて、墓が空虚になっていたという出来事でした。つまり、何 びとの力によっても動かしえぬ死の力、死の支配が、キリストの復活の勝利の前に動かされ、死人が 納まっているはずの墓が、復活によって空虚なものとされ、墓が復活の記念碑となった出来事なので す。御子イエス・キリストは、その十字架の御苦しみと死によって、私たち全ての者の罪と死の贖い となられ、墓から復活されることによって、私たちに永遠の生命をお与えになったのです。罪と死に キリストが完全に勝利され、その勝利に私たちを、ご自身の御身体なる教会を通して、豊かにあずか らせて下さるのです。  だからこそ使徒ヨハネは、この「永遠のいのち」の本質のことを「交わり」と呼んでいます。この 「交わり」とは、御父・御子・聖霊なる三位一体なる神との永遠の愛の交わりの中に、私たちが、何 の価も資格もなくして招き入れられることです。ですから今朝の御言葉でも「わたしたちの交わりと は、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と語られているのです。そして、こ の「交わり」のことをギリシヤ語では“コイノーニア”と申します。これは「聖なるかたに共にあず かる」という意味です。私たちは「今や」みな、ともにキリストにあずかる者とされているのです。 この「あずかる」とは同時に「結ばれる」ことでもあります。キリストとの「交わり」とは、キリス トに「結ばれる」ことです。それは、罪によって死んでいた私たちの、その罪という名の動かぬ岩を、 主イエスが動かして下さったからです。そして、私たちが納まらねばならなかった死の世界(死の支 配権)を、主イエスが空虚なものにして下さったからです。この救いの出来事(永遠のいのち)が「今 やわたしたちにも現れた」のです。それがキリストに結ばれる幸いです。使徒信条に告白されている 「聖徒の交わり」の本質です。  それゆえに、今朝の御言葉は4節にこう語っています。「これを書きおくるのは、わたしたちの喜 びが満ちあふれるためである」と。もうここには、使徒ヨハネと御言葉を聴く私たちとの区別は何も ないのです。聖徒たちの群れである見えざる聖なる公同の教会と、この私たちの地上の葉山教会とは、 まさに復活の主イエス・キリストの現臨において一つの群れとされているからです。私たちはみな、 キリストの御身体なる教会に連なる者たちとして、キリストの復活の生命に共にあずかる者とされて いるからです。だからこそ教会は“コイノーニア”と呼ばれるのです。教会聖なるかた、すなわちキ リストに共にあずかる共同体、復活の生命の共同体です。  ある一人の優れた神学者が、今朝のヨハネ第一の手紙1章1から4節の御言葉について「ここにみ なぎり溢れているもの、それはイエス・キリストの御名を喜ぶ祝祭的な雰囲気である」と語っていま す。「祝祭的な雰囲気」とは、限りない喜びの現われということです。まさしく復活の喜びのゆえに、 ヨハネは何度でも「イエス・キリスト」の御名を繰返すのです。そしてそれは、満たされた豊穣の世 界の現実の中で祝われる祝祭ではないのです。世界を覆い尽くしているかに見える混沌の現実の中で、 人間が人間であることを失ってゆくかに見える破滅的な歴史の様相の中で、そして私たちがそこで呆 然と佇むほかはない廃墟のような社会の現実の中で、まさにその廃墟のような現実の世界を、極みま でも愛し、慈しんで、そこに永遠の生命を与えるために、ご自身の生命のありったけを惜しみなく与 えて下さった唯一のおかたがおられる。  そのおかたの実在のゆえに、そのおかたの復活のゆえに「今や」私たちは、この私たちがあるがま まに「生命の家」に、主の復活の御身体に結ばれていることを知る。この廃墟に等しい世界が、その あらゆる破滅的な様相にもかかわらず「今や」生命の家に、主の復活の御身体によって贖われ、希望 と完成へと導かれていることを確信することができる。そのような復活の主と共にある「今」を私た ちはここに新たに迎え、全世界の主の民と共に、また天にある贖われし聖徒らの群れと共に、心から なる讃美と感謝を、十字架と復活の主イエス・キリストにお献げするものであります。祈りましょう。