説     教   列王記上11章38節  使徒行伝20章28節

「教会の唯一の礎」

2018・03・25(18121742)  エペソ人への手紙の著者である使徒パウロには、一瞬たりとも心を離れない切なる祈りがありました。 与えられた全生涯をただキリストの証し人として献げ、主の御身体なる真の教会を建てるために、委ね られた福音宣教と牧会の使命を忠実に果たすことです。使徒行伝の20章に、エーゲ海に面した港町ミ レトにおけるパウロの決別の説教が記されています。エルサレムに向かう最後の伝道旅行への船出にあ たり、パウロはミレトから50キロほど離れたエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、そこで最後の説教を 彼らに語ったのです。  パウロはこの説教の中で「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神の恵みの福音 をあかしする任務を果たし得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」と 述べています。そして愛するエペソの教会の長老たちに勧めを行ない「どうか、あなたがた自身に気を つけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神 の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」と教えているの です。  この「すべての群れに気をくばる」という言葉は、大牧者であられるキリストのもとに、委ねられた 群れの全体を“正しく導く”という意味です。エペソに限らず初代教会の時代は、一つの街に幾つもの 小さな「群れ」があり、その全体を「教会」と呼んでいました。今日で言う中会(プレスビテリー)の 起源を見ることができるのです。その「すべての群れに気をくばる」ことが長老に求められています。 そしてこれが「牧会」という言葉の語源にもなりました。つまり牧会とは、中会を含めた全教会に対す る牧会のわざであり、その務めが長老会に委ねられているのです。  そこで明らかになることは、牧会とは、全ての人々に主イエス・キリストにある真の救いと慰めを宣 べ伝えることです。キリストの御身体なる真の教会を形成することです。言い換えるなら、教会に連な る一人びとりが教会の唯一の「かしら」なるキリストに贖われ、結ばれたキリスト者の生活を、喜びを もって生きることができるように、御言葉を正しく宣べ伝えることです。一人びとりが御言葉に豊かに 養われ、キリストに結ばれた生活を送るために、キリストの福音のみが鮮明に輝く教会を形成すること です。  パウロは教会を語るとき、それは何よりも「神が御子の血であがない取られた神の教会」であると語 りました。ここに、パウロがエペソにおいて語り続けた福音の核心があります。主なる神は私たちを、 ただ恵みによって招きたまい、御子イエスの血によって「あがない取られた神の教会」に連なる幸いを 与えて下さいました。そこで私たちに何が起こっているのでしょうか?。それをパウロはエペソ書2章 1節以下にこう語っています。「(私たちは)かつては自分の罪過と罪とによって(神の前に)死んでい た者」であった。そのような私たちを、神は4節にあるように「しかるに、あわれみに富む神は、わた したちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共 に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によ みがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。  ここでパウロが明らかにしていることは、私たちのこの教会は「神が御子の血によってあがない取ら れた神の教会」であるゆえに、そこに連なる私たち一人びとりに“罪の全き赦し”と“永遠の生命”と が与えられているという事実です。なによりも主イエスみずから、教会と私たちとの関係、すなわち御 自身と私たちとの繋がりを“葡萄の樹の喩え”でお語りになりました。私たちが教会に連なることは、 キリストが御自身の血によって「あがない取って」下さった永遠の生命に結ばれることです。ですから 教会に結ばれることはキリストに結ばれることであり、教会から離れることはキリストの賜わる生命か ら離れることです。  しかしこの大切なことが、なかなかエペソの人々には理解されませんでした。本当の信仰が、信仰生 活が、なかなか育たなかったのです。文化的・経済的には、非常に豊かなものを持っていた都会でした。 それだけに教会もまた、エペソにおいては文化的な施設、また活動の一環として理解されていた面があ りました。いわゆる“福音の世俗化”の問題にエペソの教会は直面していたのです。教会に集まる人の 数は非常に多かったのですが、信仰の内実が伴わなかったのです。文化としてのキリスト教は歓迎され ていたのですが、大切なキリスト告白はなおざりにされていたのです。  このことは、今日の私たちの教会を取巻く、日本の社会的事情と酷似しているのではないでしょうか。 ある宗教学者が「仏教とキリスト教、どちらが役に立つか」という題名の本を書きました。宗教学的に はかなり粗雑な本ですが、そのタイトルの面白さゆえに、ずいぶん多くの人に読まれたようです。この 場合「どちらが役に立つか」を決定するのは人間の(社会の)価値判断です。いわゆる“功利的価値判断” をそのまま絶対的価値観にも当てはめようとする姿勢は、あんがい多くの現代人が持っているものです。 エペソの人々にも似たような傾向がありました。自分の実生活の上で、たとえば社会における地位の向 上、商売繁盛、安心立命、そうした眼に見える実利的価値において、キリスト教がどれだけ「役に立つ か」という視点で教会を観ていたのです。幸か不幸か、教会(キリスト教)はエペソの人々に「役に立つ 宗教」だと見られました。それで、エペソにおいては、教会に集まる人の数は非常にふえていったので す。  しかしパウロは、そのことを“教勢の増加”とは判断しませんでした。なぜなら、逆にいえばエペソ の人々は、キリスト教が実生活に「役に立たない宗教」だと判断すれば、いつでも教会から去ってゆく ことは明らかだったからです。事実、しばらく後に、ローマ帝国による組織的なキリスト教迫害が起っ て、キリスト者であることが実生活の不利益となったとき、エペソの教会は数の上では、崩壊寸前かと 思われるところまで教勢が落ちたのでした。しかしエペソの教会の真骨頂はそこからでした。残った信 徒たちが長老会のもと堅く結束し、どんなに少数になっても、生き生きとしたキリストの福音の生命を 宿し続けました。やがて時代が進み西暦4世紀を迎えますと、エペソの教会は“カパドキアの3神学者” (バシリウス、ニュッサのグレゴリウス、ナジアンゾスのグレゴリウス、なおバシリウスとナジアンゾ スのグレゴリウスは少年時代からの友人、ニュッサのグレゴリウスはバシリウスの弟にあたる)と呼ば れる卓越した神学者を輩出し、カルケドン信条の制定に大きく寄与し、特に聖霊論において世界の神学 をリードする拠点となるのです。そのような成長がどうして起こったかと申しますと、それはこの教会 の礎を据えたパウロが、決してこの世の価値観に迎合する伝道をしなかったからです。  パウロには確信がありました。教会は、この世の成長と共に成長し、この世の衰退と共に衰退するも のであってはならない。だからミレトでの決別の説教においても、長老たちに対して「今わたしは、主 とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての 人々と共に、御国をつがせる力がある」と語ったのです。「教会に集まる人の数が大変多くて結構だ、こ の勢いで大いに頑張りなさい」そういう説教をしたのではなかったのです。そうではなく「今わたしは、 主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる」と言いきることができたのです。ただ活ける神の御言 葉のみ、イエス・キリストのみに、私たちに「徳をたて(まことの教会を建て)、聖別されたすべての人々 と共に、御国をつがせる力がある」のです。  だからパウロは、第一コリント書の2章においてもこのように語っています。「兄弟たちよ、わたし もまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなか った。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あな たがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱く かつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらな いで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力 によるものとなるためであった」。  私たちは、エペソ書2章1節以下にありましたように、かつては(主イエス・キリストに結ばれて生き る以前には)「自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のなら わしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いてい た」者たちでした。まさに3節にある「生まれながらの怒りの子」でした。しかし、まさにそのような 私たちを、主なるキリストは十字架において贖いたまい、復活の永遠の生命(まことの神との永遠の交わ り)を与えて下さいました。すなわち2章4節以下にこうあることです。「しかるに、あわれみに富む神 は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリ ストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、 共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。  そしてどうか8節の御言葉を心に留めましょう。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、 信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いに よるものではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、 良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いを して日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。  私たちは、主なるキリストが、私たちの底知れぬ罪のために十字架に死んで下さった恵みの事実を、 そのあるがままに受け入れることによって、すなわち、私たちのための唯一永遠の救いの出来事として 信じ告白することによって、キリストが下さる新しい復活の生命に生きる者とされるのです。その眼に 見える“しるし”が洗礼です。洗礼を受け、キリストと共に、その十字架の死にあやかる者とされて、 私たちは同時に、キリストの御復活の生命にも結び合わせて戴いたのです。だから6節に「共に天上で 座につかせて下さった」とまで言われています。主が私たちのために天に永遠の住処を備えていて下さ るのです。礼拝者として生きることは、この地上の旅路を、すでにキリストの絶大な勝利の御手に支え られ、贖われた者として、天に国籍を持つ者として生きることです。  たとえのような激しいこの世の試練の中にあっても、キリストは私たち一人びとりを、すでに御自身 の永遠の勝利の内にある者として、平安のうちに世の旅路へと遣わして下さいます。だから「座につく」 とは、座りこむことではないのです。自分の中に蹲ってしまうことではない。逆です。教会によりキリ ストに永遠に結ばれた者として、どのような時にも、悲しみや戦いのさ中にも、慰められつつ、力を受 けつつ、安心して立ち上がり、勇気をもって主と共に歩む者とされているのです。そのような“キリス トの平安”を、私たちは戴いているのです。このことを感謝しつつ、私たちもまた真の教会へと、たゆ まず成長して参りたいと思います。ただ神にのみ栄光がありますように。祈りましょう。