説    教     イザヤ書65章1節   使徒行伝16章13〜15節

「ヨーロッパ伝道事始」

2018・03・18(説教18111741)  使徒パウロによる第二回目の伝道旅行が行なわれたのは西暦48年から52年にかけて約4年間のことで した。西暦48年エルサレムにおいて行なわれた「エルサレム使徒会議」の結果、キリストの救いは異邦 人をも含めて全世界に宣べ伝えられるべきものであるとして、伝道の新たな幻を与えられたアンテオケの 教会は、パウロとバルナバの2人を開拓伝道へと送り出すにあたり、彼らの伝道活動を支えるために率先 して物心両面にわたる援助をする決議をしたのです。  経済的には決して豊かではなかったアンテオケの教会でした。しかしその貧しいアンテオケ教会の人々 が祈りにおいて伝道の志を共有したとき、パウロの伝道を生涯にわたって支え続ける母体となったのです。 伝道は教会を生み出し、生み出された教会は伝道を支えてゆきます。そしてアンテオケの教会は、福音が 最初にヨーロッパ大陸(ギリシヤのマケドニヤ)にもたらされるきっかけを生み出したのでした。その消 息を生き生きと伝えているのが、今朝お読みしました使徒行伝16章11節以下の御言葉です。  パウロはかねがね、今日のトルコ北部・黒海沿岸のビテニヤという地方に伝道したいと願っていました。 それでパウロはアンテオケを出発したのち、ただちに第一回伝道旅行のおりに開拓伝道をした諸教会を訪 問しつつ、小アジヤと呼ばれた今日のトルコ中東部を北上して、ビテニヤへ旅をする予定でいたのです。 しかしそのパウロの歩みは、パウロ自身の思いではなく聖霊なる神の奇しき導きにより、予定とは正反対 の南西の方角に導かれてゆきました。そこにはエーゲ海が広がっており、その向こうにはマケドニヤ、つ まり今日のギリシヤ北部があります。福音はアンテオケからヨーロッパ大陸へと宣べ伝えられてゆくこと になったのです。  このあたりの消息を使徒行伝16章7節は「イエスの御霊がこれを(ビテニヤに行くことを)許さなか った」と伝えています。普通、私たちは自分が立てた計画が頓挫し、思惑どおりに事が運ばなかったとき、 それを「失敗」「挫折」だと思いがちです。しかしパウロはそこに「イエスの御霊」(聖霊なる神)の導き を見ました。自分の思いとは逆の方向に、主なる神の御心があると確信したのです。計画していた旅路と は180度違う道を示されたパウロにとって、まさにその道を行くことこそが主に従う正しい道を行くこと でした。  このことと併せて使徒行伝16章9節以下には、パウロがトロアス滞在中に観たひとつの夢が記されて います。それは一人のマケドニヤ人がパウロの夢に現れて「わたしたちを助けて下さい」と願った、そう いう「伝道への願い」をパウロは見たわけです。これはパウロをヨーロッパ伝道へと遣わしたもう聖霊な る神の御意志の現われでした。ですから10節には「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝え るために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡っ て行くことにした」とあります。神が求めたもうとき、寸時も躊躇うことなく導きに従った、これはパウ ロの全生涯を貫く、伝道者としての基本姿勢でした。  ところで、当時の船旅は多くの危険に満ちたものでした。11節以下にはパウロの一行は「トロアスから 船出して、サモトラケに直行し、翌日ネアポリスに着いた」とありますが、その海域は季節風の影響を受 け、幾多の海難事故を起こすことで有名な「海の難所」でした。サモトラケというのは島の名前ですが、 そこにいったん寄航したのも嵐を避けるためでした。こうした困難の末にパウロは「ネアポリス」という マケドニヤの港町に到着します。ネアポリスとはギリシヤ語で「新しい街」という意味です。そこからパ ウロとバルナバはさらに「マケドニヤのこの地方第一の町で殖民都市であった」ピリピへと向かいました。 このピリピもネアポリスと同じように、いかにも新開地という雰囲気の街でした。いかにも雑然とした、 秩序のない街という雰囲気であった。つまり人々の“心の拠り所”がどこにも無い、精神的に無秩序(ア ナーキー)な街、それがピリピの第一印象でした。  さて、パウロは新しい町に福音を宣べ伝えるとき、いつでもユダヤ教の会堂(シナゴーグ)の安息日礼 拝で説教することから始めるのを常としていました。しかしピリピは新開地であったため、まだシナゴー グさえ無かったのです。そこでパウロは「祈りの場所」を探して、安息日にそこに集まる人々にキリスト の福音を宣べ伝えることにしたのです。13節に「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があ ると思って、川のほとりに行った」とあることがそれです。この「川」は今日「ルデヤ川」と呼ばれてい ます。その理由は、「祈りのため」に集まってきた大勢のユダヤ人の婦人たちの中に「ルデヤ」という女性 がいて、パウロの語る福音を聴いてキリストを信じ、その家族もみな洗礼を受けて、そのルデヤの家がヨ ーロッパ大陸におけるキリスト教会第一号となったからです。  この「ルデヤ」という婦人は14節によれば「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う」女性であったと 記されています。そして何より印象ぶかいのは「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさ せた」と記されていることです。この「耳を傾ける」とは「注意ぶかく祈りをもって聴くこと」です。そ の日、同じようにパウロの話を聞いた女性はたくさんいたはずですが、ルデヤただ一人が主を信ずる者と なったのです。伝道は決して数の問題ではありません。本当に主を信ずる者が一人でも与えられるなら、 そこからどれほど多くの祝福が世に現わされるかしれないのです。そして大切なことは、その人が生涯忠 実に教会に連なる真のキリストの僕となることです。そうした本当のキリスト者の育つ教会へと、私たち もまた共に成長してゆかねばなりません。  ところで、いま伝道ということをお話ししましたが、私たちは時々このように思うのではないでしょう か。誰もが感心するような素晴らしい雄弁の持主がいて福音の説教を語る。そうすればたちまち何百、い や何千人もの人々を教会に集めることができるのではないだろうか。どこかにそのようなカリスマの持主 がいないものだろうか。たとえば特別伝道礼拝の説教者などを選ぶ場合、私たちは意図せずしてそのよう なカリスマの持主を探していることはないでしょうか。逆に、教勢が伸びないのは説教に力がないからだ。 始めて教会に来た人にわかりづらい説教だからだ。わかりやすい雄弁な説教をすれば、教勢は必ず伸びる はずだ。そこにやはり私たちが陥るひとつの危険があると思うのです。いつの間にか私たちが説教(神の 言葉)の判定人(番人)になってしまう危険です。自分を教会のご意見番にしてしまう危険です。そして すぐに他の教会と比較を始める。自分たちの教会に無いものを論いはじめるのです。  使徒パウロの伝道、また教会形成は、そのようなものではなかった。私たちが御言葉の判定人(教会の ご意見番)になるところには、真の教会は決して建たないのです。第二コリント書10章10節によれば、 パウロは「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」と評され ていたことが記されています。パウロの説教は「つまらない」と評されていたのです。福音のみを正しく 語る説教は、決して「わかりやすい」とか「わかりにくい」とかいう、人間を基準にした秤で測れるもの ではないのです。大切なことは、そこに主(キリスト)を信ずる本当の信仰が起されてゆくことです。そ れを今朝の御言葉は「主が彼女の心を開いて」下さったゆえであると告げているのです。  私たち一人びとりに求められていること、それは福音のみを正しく語る教会、福音の輝きと喜びを全て の者が共有し、それを世に向けて語りだす教会へと成長することです。人間の能力や雄弁ではなく、神の 語りたもう福音を、大胆に真実に恐れることなく宣べ伝える主の器に徹することです。自分自身がまず御 言葉によって打ち砕かれ、甦らせられ、作りかえられた者として生きることです。私たちが福音の是非を 判定するのではなく、福音が私たちを打ち砕くのです。そのように御言葉を聴く耳は、神ご自身が開いて 下さるのです。そのような経験がルデヤという一人の婦人の上に起こったのです。  人間の目から見るなら、本当に小さなことです。少なくとも数の上で見るなら、教勢という視点で言う なら、パウロの伝道は失敗です。たった一人の受洗者しか得られなかったからです。しかし彼女は救われ た喜びと感謝を、パウロに自宅を伝道の拠点として戴くことで現わし、そこがヨーロッパにおける最初の 教会となったのです。カーライルというイギリスの思想家が「使徒と英雄との相違は、福音によるか、そ れとも雄弁によるかの違いである」と述べています。そして「福音は神から出で、雄弁は人から出る。そ して人を救うものは、ただ神から出たものだけである」と語っています。ルデヤは雄弁ではなく、神から 出た福音の大いなる力(御言葉の豊かさ)によって救われたのです。キリストをまことの主、救い主と信 ずる女性になったのです。  15節には、彼女をはじめ家族みなが洗礼を受け、そしてパウロに対して「もし、わたしを主を信じる者 とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と「懇望した」と記されています。この 「わたしを主を信じる者とお思いでしたら」というのは、十字架のキリストによる救いの確かさに生かさ れた者として、という意味です。十字架のキリストによる救いの確かさに生かされた者として、どうか私 をも“御言葉の御用に仕える者にして下さい”と願ったのです。そして、そのルデヤの願いは、主が限り なく祝福し、多くの人々の救いのために豊かに用いて下さったのです。  この後、このピリピにおいてパウロとバルナバは、ある騒動に巻きこまれて投獄されるのですが、そこ でも、説教の言葉に耳を傾けた獄吏に対して、パウロは「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも、 あなたの家族も救われます」と語っています。その獄吏はそこで、家族もろともにパウロとバルナバから 洗礼を受け、同じ16章の34節を見ますと「さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、 神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」と告げられているのです。  パウロは後にこのピリピの教会のために、エペソの牢獄から「ピリピ人への手紙」を書き送ります。そ れは、ピリピの教会からパウロの伝道を助けるために遣わされた「エパフロデト」という青年がいたので す。ピリピ教会はそのような忠実な主の仕え人を輩出する教会へと成長したわけです。しかしこのエパフ ロデトはエペソに着いてまもなく病気になってしまいます。パウロの伝道を助けるために遣わされたのに、 かえってパウロに看病される身になってしまった。重荷になってしまった。このことをエパフロデトは、 遣わしてくれたピリピの教会に申しわけが立たないと、非常に気に病むのです。このエパフロデトが健康 を回復したとき、パウロは彼に「ピリピ人への手紙」を持たせて愛するピリピ教会の人々に送り返しまし た。  ピリピ書2章26節以下です。「彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、 自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。彼は実に、ひん死の病気にかか ったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたし は悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは 彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜ん で、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあ なたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになっ たのである」。  パウロが愛するピリピの教会のために書いたピリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれます。その「喜び」は、 まさにここに告げられていたように「主にあって(キリストの恵みによって)兄弟姉妹を迎える」私たち の喜びです。神が御子イエス・キリストによって、私たちの底知れぬ罪を贖い、義となしたもうて、新し い生命に生きる者として下さった。主の復活の生命に結ばれて生きる者として下さった。その救いの恵み を喜び、それを全ての人々と共有せんとする者の喜びなのです。そのような主の救いの「家」を、主の教 会を、主はここに建てて下さった。そしてそこに、私たちをただ恵みによって招きいれて下さった。その 救いの喜びを世に証しし、全ての人々と共にキリストの祝福を頒ちあう群れ、それが私たちのこの教会な のです。  どうか私たち一人びとりが、真実に主を、十字架のキリストを信ずる者として、ここに主のまことなる 教会を形成し、諸共に御業に仕え、全ての人々に祝福を宣べ伝えて参りたいと思います。祈りましょう。