説    教   イザヤ書53篇11〜12節  マルコ福音書10章32〜34節

「キリストに従う生活」
2018・03・11(説教18101740)

 私たちキリスト者の生活は「キリストに従う生活」です。このことに異論がある人はおそらく一人も
いないでしょう。それは当然のことだと、誰もが思うのではないでしょうか。しかし私たちにとって、
ときにこの「当然のこと」が難しいのも事実です。「キリストに従う生活」は私たちにとって、まさに「言
うは易く、行うは難し」なのです。

 そこで、私たちは視点を変えてみる必要があります。私たち自身ではなく、私たちの主イエス・キリ
ストは、どのようなお考えで、また、どのような御心をもって、私たちをご自身に従う者とならせて下
さるのか、そのことを改めて今朝の御言葉から深く学び取りたいと思うのです。ひと口に「キリストに
従う」と言っても、その従いかたが私たちの独断と偏見であっては、それは本当の信仰生活とはならな
いでありましょう。たとえ私たちが「自分はキリストに従っている」と百万遍唱えてみても、その従い
かたが主の御心に適っていなければ、それはキリストに従う歩みとは言えないからです。

 そこで、今朝与えられた御言葉・マルコ伝10章32節を改めて見てみますと、そこに「一同はエルサ
レムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐
れた」とあります。非常に強い弟子たちの驚きの様子が描かれているわけです。当時のユダヤにおいて
は、ユダヤ教の教師(ラビ)が弟子たちと共に道を歩むときには、弟子たちが先頭になって歩む習慣が
ありました。ラビは弟子たちに守られながら、また見守りながら、列の殿(しんがり)を歩いたものな
のです。ですから、このとき主イエスが弟子たちの先頭にお立ちになったことは、弟子たちにとっては
意外な、驚くべきことでした。しかも、驚きの原因はそれだけではありませんでした。弟子たちはみな、
家をも職をも家族をも捨てて、主イエスに従ってきた人々です。その彼らが、先頭を歩まれる主イエス
を見て驚き恐れたのは、それがエルサレムを目指しての歩みであったからです。

 弟子たちの誰もが思ったことでした。「先生、そっちに行っては危ないです」と。なぜか?。エルサレ
ムにはたくさんの敵対者がいるからです。先生の命が危険にさらされる。事実主イエスは、同じマルコ
伝の10章の32節以下で「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者
たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また
彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう(であろう)」と予告されたばかりでした。
弟子たちの誰もが言い知れぬ不安と恐れを感じていた、その大きな危険の待ち受けるエルサレムに、い
まや主イエスは先頭に立って進んで行こうとされている。このことに弟子たちは「驚き怪しみ…(そし
て)恐れた」のです。

 それと同時に、実はこれこそが主な原因であったのですが、弟子たちの心の中には「先生、私たちの
願いは、そういうことではないのです」という必死の思いが去来したことでした。「私たちは先生がユダ
ヤの新しい王になるかただと信じたからこそ従ってきたのです。それなのに、先生は十字架にかかって
死ぬためにエルサレムに行かれるのですか?」そのように弟子たちは言いたかったわけです。「主よその
道にあらず」と、主イエスの袖を引いて止めたかったのです。弟子たちの願いは、主イエスが「ユダヤ
の王」として栄光の即位をとげることでした。しかし主イエスの歩みは罪の贖いのための十字架へと向
かっている。かたや栄光の王、かたや重罪人としての十字架の死、それはあまりにも対照的でした。弟
子たちはみな、主イエスが王になることを望んだのです。犯罪人として死刑になれば、自分たちもまた
犯罪人の弟子(死刑囚の門人)に過ぎなくなる、そのことが弟子たちには耐えられなかったのです。

 このことは、神の御子イエス・キリストの御心と、私たち人間の(罪人の)思いとが如何に違うかを
現わしていないでしょうか。結局のところ私たちは、自分の栄誉栄達のみを求め、キリストを利用しよ
うとしているに過ぎないとすれば、キリストが「主」なのではなく、実は私たち自身が「主」になって
しまっているのです。キリストが“十字架の主”であられるということは、立身出世を願う弟子たちに
とって、もはやキリストには利用価値がなくなるということです。それでは困る、先生約束が違うでは
ないかと、弟子たちは言いたかったのです。キリストではなく、自分たちの願いが、弟子たちの「主」
になっていたのです。

 今朝あわせて拝読した旧約聖書・イザヤ書53章は、はっきりと主イエスの歩みが、全世界の人々の
罪の贖い主(メシヤ=キリスト)としての歩みであったことを物語っています。「だれがわれわれの聞い
たことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出
る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも
ない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる
者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわ
れの悲しみをになった」。

 主イエスは、これこそご自分の使命であられることを自覚せられ、全世界の人々の罪の贖いのために、
十字架への道をまっしぐらに歩んでゆかれるのです。逃げようと思えば幾らでも逃げることができまし
た。避けようと思えば幾らでも避けられたのです。しかし主イエスは、毅然として御顔をエルサレムに
向けられ、弟子たちの先頭に立って歩んでゆかれるのです。全ての人の罪の贖いを成遂げられるために。
それが主イエスの願い、父なる神の御心であられたからです。

 ジョン・リースというアメリカ改革派教会の優れた神学者が、素晴らしいことを語っています。それ
は「福音とは神の御意思である」という言葉です。マルコ伝はその1章1節において、すでに「神の子
イエス・キリストの福音のはじめ」と語りました。これは直訳すれば「福音はイエス・キリストにおい
て、私たちのただ中に始まった(実現した)」という福音の宣言です。言い換えるなら、私たちの歴史の
中に神の御意思が「いま」始められているのです。それは私たちの罪が十字架によって贖われ、私たち
が教会に連なる者となり、キリストの復活の生命にあずかる者となることです。実は私たちは、本当の
救いを願いながら、実は自分が何を求め、何を願っているかさえ、わかっていない存在なのです。しか
し主イエスは、主イエスのみが、私たちの本当の願いが、私たちの「救い」が何であるかをご存じであ
られます。そのような救い主(キリスト)として、主は決然として十字架への道を、私たちのために歩
みたもうのです。それが主の御意思なのです。十字架にかかりたもうたキリスト御自身が「神の御意思」
としての福音そのものなのです。

 さて、今朝の御言葉の35節以下には続きがあります。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」の兄弟が、夜
ひそかに、他の弟子たちには内緒で、主イエスのもとに来て申しますには「先生、わたしたちがお頼み
することは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。その願いとは、主が栄光をお受けになる
とき(つまりユダヤの王に即位なさるとき)「ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてく
ださい」ということでした。要するに、主イエスが旗揚げされた暁には、自分たちを右大臣、左大臣に
任命して下さいと願い出たわけです。これをお聴きになって主は彼らに「あなたがたは自分たちが何を
求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマ
を受けることができるか」と問われましたら、彼らはいとも簡単に「できます」と答えたのでした。

 私たち人間は、どこまで愚かな存在なのでしょうか。この時だけではなく、同じマルコ伝9章33節
以下にも、同じように弟子たちは「誰がいちばん偉いか」を言い争っていたと記されています。十字架
の主のみを仰ぎ、信ずべきところで、なお自分自身の功名のみを求め、主イエスを自己実現の手段とし
て利用する私たちの罪が、ここにはっきりと現われています。要するに自分が「主」であって、キリス
トは自己実現の手段に過ぎない。そこに私たち人間の罪の本質があるのです。「信仰」と言いながら、実
は自分を中心とし、「主に従い行く」と言いながら、実は自分の願いに従うにすぎない私たちの姿が、あ
るのではないでしょうか。そればかりか「(ほかの)十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのこと
で憤慨し出した」のでした。抜け駆けをするとは狡いぞと詰ったのです。自分たちにも旨い汁を吸わせ
ろと要求したのです。つまり、キリストの弟子とされた全ての者が同じ罪をおかしたのです。まして私
たちは、なおさらではないでしょうか。

 そこでこそ大切なのは、続く42節以下の主イエスの御声です。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて
言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、ま
た偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはな
らない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でか
しらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるため
ではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである』」。

 ここで主が私たちに語っておられることは、道徳的な“謙遜の勧め”などではありません。そうでは
なく、この御言葉の中心は45節にあります。つまり、主イエスが世に遣わされた理由は「仕えられる
ためではなく、仕えるため」であり「多くの人」(全ての人)の贖いとして、自分の生命を献げるためで
ある、と言われるのです。この事実を(福音の核心を)凝視しなさい(心に留めなさい)と主は言われ
るのです。たとえこの世の価値観において、権力者たち、上に立つ者たちが、どんなに人々に権力を振
るおうとも、私たちは、そのような価値観と同列に立つキリストの弟子ではないのです。主イエスがこ
れを語られたこの時点で、この「あなたがた」とは十二人です、全世界の中のたったの十二人です。し
かしその十二人が贖い主なるキリストの御業に仕える者(使徒)となったとき、そこにどんなに大きな
神の御業が現れたことでしょうか。

 日曜学校の礼拝において、よく歌う「こども讃美歌」に「主に従いゆくは、いかに喜ばしき」という
ものがあります。軽快で力強いメロディの讃美歌です。私たち大人はどうでしょうか?。いつも「主に
従い行くは、いかに喜ばしき」との思いを抱いて、喜び勇んで主の御後に従い行く日々の歩みを、本当
の信仰生活を、キリスト者の人生を、私たち一人びとりが送って参りたいものです。それは、あのガリ
ラヤの岸辺において、五つのパンと二匹の魚とで養われた群集の食べ残りを集めたら「十二のかごに一
杯になった」のと同じです。私たち一人びとりの手に、いまその「かご」が主の御手から渡されている
のです。キリストの十字架の恵みを知る私たちは、主の恵みが満たされたその「かご」を手にして、喜
び勇んで世の旅路へと出て行く者たちなのではないでしょうか。

 私たちが「主に従い行く」ことは、私たちが、道徳的に完全な人間になる、あるいは、人間として恥
ずかしくない歩みをする、ということ以上に、それと比較できないほどに、遥かに大きな恵みが、私た
ちの手にする「かご」に(つまり主の御身体なる教会に結ばれた生活に)盛られているという事実です。
それは何かと言うと、主が私たち全ての者の罪の永遠の贖いを成遂げて下さったという事実です。主は
いつも「十字架の主」として、私たちと共にいて下さるのです。十字架の主としてのみ、私たちの人生
に関わって下さるのです。それは、そこに全ての人間の真の「救い」があるということです。だからこ
そ主は言われました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を
招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と。いま、私たち一人びとりが「主に従い
行く」僕たちとして、ここに招かれ、新たにされ、世の旅路へと遣わされてゆく幸いを、感謝しつつ、
主の御名を讃美したいと思います。実に「主に従い行くは、いかに喜ばしき」なのです。祈りましょう。