説    教   エゼキエル書13章1〜5節 マタイ福音書26章10〜13節

「破れ口に立ちたもう神」
2018・03・04(説教18091739)

 今朝の説教の題を「破れ口に立ちたもう神」といたしました。いささか奇妙な題だと自分でも思いま
す。しかし、この「破れ口」とは旧約聖書にきちんと出てくる大切な言葉なのです。それは私たち人間
の罪の現実をあらわしています。特に先ほど拝読したエゼキエル書13章1節以下に注目したいのです。
ここで預言者エゼキエルは、主なる神によって、預言者の務めは「破れ口」を塞ぐことであると示され
ました。これは私たち人間の罪を主なる神の御前に執成し、人々を神へと立ち帰らせるわざです。すな
わち人々を「悔改め」へと導く務めです。

 ところが、エゼキエルと同じ紀元前6世紀のイスラエルに「偽預言者」と言われる者たちがいました。
これは神に仕えるのではなく宮廷に侍り、王や諸侯に仕えていたいわゆる「御用預言者」たちです。こ
の偽預言者らは「破れ口」を塞ぐどころか、それを放置して人々を滅びるに任せていた、自分たちもま
た滅びる者たちであった、そういう者たちでした。ですからエゼキエル書13章3節にはこうあります。
「主なる神はこう言われる。なにも見ないで、自分の霊に従う愚かな預言者たちはわざわいだ」。この「わ
ざわいだ」というのは「限りなく不幸である」という意味のヘブライ語です。いわば「不幸の最上級」
です。言い換えるなら、私たち人間の、そして世界と歴史の真の完成は、真の幸いは、ひとえに「破れ
口」の扱い如何にかかっているのだということです。

 私が小学生の頃、道徳という教科がありました。その教科書でこのような物語を読みました。昔オラ
ンダで、堤防の決壊を自分の身体をもって食い止め、村を洪水の危機から救った少年がいたというので
す。オランダはご存じのように、国土の大部分が堤防によって守られている国です。その少年はいつも
のように、学校からの帰りに堤防の上を歩いていると、堤防の一箇所に小さな穴があって、そこから水
が浸み出していることに気がついた。咄嗟に少年は自分の片手で穴を塞ごうとした。次には自分の足で
穴を塞ごうとした。ところが穴は次第に大きくなる。このままでは堤防が決壊して、村の人たちの生命
が危ない。そう判断した少年は、ついに自分の身体でその穴を塞ぐことにした。翌朝、村人たちが少年
を見つけた時には、既にこの少年は死んでいたという話です。

 この逸話について、私なりにいろいろと調べてみました。どうもこれは、本国のオランダには伝わっ
ていない話らしいのです。日本の道徳(昔で言えば修身)の教科書が、どこからこの物語を収録したの
か、よくわからないらしいです。そもそも子供が自分の身体で堤防の穴を塞ぐなんて、できるのかどう
かという疑問もあるようです。しかし私はこう思いました。オランダという国は改革長老教会の国なの
です。ダッチリフォームドと言いまして、アメリカの清教徒たちの信仰はオランダ改革派教会の信仰で
す。それがいま私たち葉山教会にも受け継がれているわけです。その私たちの信仰生活の大切な一点は
「主なる神の御前に誠実に生きること」です。それこそジョン・オーマンの言う“Honesty to God”で
す。それならば、オランダの長い歴史の中で、私はこのような出来事が実際にあったのだと思いました。

 いずれにしても、私たちはこの逸話を通して大きな感動を与えられます。そして同時に思うのです。
私たち人間の罪もそれと同じなのではないか。最初は小さな穴かもしれない。しかし放置していれば、
それは次第に大きくなり、ついには村全体が、国全体が、歴史全体が、恐ろしい濁流に呑みこまれてし
まうのです。滅びに呑みこまれてしまうのです。だからこそ大切なことは、その「破れ口」をいかにし
て塞ぐかということです。これは罪の執成しと贖いの問題なのです。

 そこで、旧約聖書の詩篇106篇23節を見ますと、そこには、まさに私たち人間の世界と歴史にある
「破れ口」(すなわち罪と死の支配)に対して、神は真の預言者であるモーセを通じて「執成し」のわざ
をなさせたもうた、ということが記されています。すなわち詩篇106篇23節にこうあるとおりです。
「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前
に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」。ただ、私たちはここで大切なことを改めて心に留
めねばなりません。この「執成し」のわざは、主なる神のなされる「神の御業」であるということです。
つまり、モーセという人間が執成しの主体なのではなく、主なる神が僕モーセを通して「執成しと贖い
の恵み」を世に現わして下さったのです。つまり「罪の執成しと贖い」とは私たち人間がなしうること
ではありません。私たちは罪に対しては無力で、なすすべなき存在にすぎません。ただ神のみが罪の唯
一の真の贖い主でいましたもうのです。

 この大切なことを念頭に置きつつ、改めて詩篇106篇23節、また今朝のエゼキエル書13章1節以下
をお読みしますとき、私たちはおのずから、新約聖書ヨハネ伝15章13節の御言葉へと導かれるのです。
すなわち「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」との御言葉です。
文語訳で申しますなら「人その友のために己の生命を棄つる、之より大いなる愛はなし」です。ここに
は、神みずから、ご自身の御子イエス・キリストによって、私たち人間の「罪」という「破れ口」にお
立ちになって、その「破れ口」から私たちをお救いになった恵みの(救いの)事実が告げられているので
す。だからこのヨハネ伝15章13節の「人」とは単数形なのです。ヘーゲルの言うところの「神聖なる
単数」です。それに対して「友」とは複数形です。私たちのことです。つまり、神は御子イエス・キリ
ストという唯一の救い主において、ただ御子イエスの十字架と復活の御業においてのみ、私たちを「友」
と呼んで下さり、私たちの「罪」という「破れ口」を塞いで、私たちに救いと生命を与えて下さったの
です。それが「人その友のために己の生命を棄つる、之より大いなる愛はなし」なのです。これはイエ
ス・キリストの十字架の出来事を現わしているのです。

 さて、先ほどの詩篇106篇23節について、改めて次のことを心に留めましょう。古代のイスラエル
においては、町は外敵からの侵略を防ぐために高い城壁で囲まれていました。その城壁のどこか一箇所
にでも「破れ口」が開くことは、その町全体の滅亡を意味したのです。同じ旧約聖書・列王記下25章4
節に「町の一角が破れた」とあるのは町全体の滅亡を意味したのです。そゆえ「破れ口に立つ」とは、
敵によって突き崩されてしまったその「破れ口」(突破口)に身を挺して立ち塞がり、敵の攻撃を一身に
引き受けることを意味します。

 このことは、以下の3つのことを私たちに教えます。第一に、「破れ口に立つ」とは“死ぬこと”で
あるということです。これについては、今朝のエゼキエル書13章5節に、愚かな偽預言者たちが「主
の日の戦いに立つため、破れ口にのぼらず、またイスラエルの家のために石がきを築こうともしない」
とあることがよくあらわしています。偽預言者らは自分がいちばん大事(自分ファースト)ですからエ
ルサレムの人々を見捨てて逃げ去るのです。しかしここに、ただ一人「破れ口」にお立ちになって、十
字架におかかりになり、生命を献げて私たちの罪の執成しと贖いを成遂げて下さったかたがおられる。
そのかたこそ主イエス・キリストであります。これが第一の大切な音信(おとずれ)です。

 第二に、「破れ口に立つ」とは、その者が世界のために“罪のための執成し”を献げることを意味しま
す。そしてこの「執成し」とは神に対する「贖い」ですから、それは「完き犠牲」であらねばなりませ
ん。すなわちそれは1890年(明治23年)「日本基督教会信仰の告白」に告白されている信仰に私たち
が堅く立つことを意味します。すなわち「我等が神と崇むる主イエス・キリストは神の独子にして、人
類のため、その罪の救ひのために人となりて苦を受け我等が罪のために完全き犠牲をささげ給へり」と
あることです。私たち葉山教会はこの信仰告白の上に建てられている群れなのです。

 第三に、「破れ口に立つ」とは、歴史における個人のありかたを私たちに示すものです。ヘーゲルは「お
よそ世界の歴史は人間の情熱(Leidenschaft)なしには動きえない」と語りました。ここでヘーゲルが
言う「人間」とは「神聖なる単数」であり、神の独子イエス・キリストのことです。またドイツ語の“ラ
イデンシャフト”という言葉もキリストの御受難のみをあらわします。つまり旧約聖書はここではっき
りと、私たち人間の「破れ口に立つ」主イエス・キリストの十字架の出来事(ライデンシャフト)のみ
を物語っているのです。まさにヨハネ伝15章13節にあるとおり「人その友のために己の生命を棄つる、
之より大いなる愛はなし」とは、十字架の主イエス・キリストにおいてのみ成就した「救い」(執成しと
贖い)の出来事なのです。

 今朝あわせて拝読したマタイ伝福音書26章11節に不思議な御言葉があります。ベタニヤの頼病人シ
モンの家で食事をなさっていた主イエスの背後から、罪の赦しの喜びを与えられた一人の女性がそっと
近づき、高価なナルドの香油を惜しげもなく主イエスの御頭に注ぎかけて感謝をあらわしました。居合
わせた人々はみな、主の弟子たちさえも「なんのためにこんなむだ使いをするのだ」と憤り、この女を
譴責したのでした。ところが主イエスは彼らにこう言われたのです。「なぜ、女を困らせるのか。わたし
によい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒に
いるわけではない」。

 私たち人間は、この大切な場面においてさえ、小賢しい自分の常識を振りかざして「破れ口」を放置
しようとするのです。すなわち「貧しい人たち」と「十字架の主イエス・キリスト」を比較して論じ、
人間の救いは、教会の本質は、キリスト者の生活は、要するに物質的な富が決定権を持つのだと、心の
どこかで思い始めるのです。そのとき、私たちの「主」は「十字架のキリスト」ではなく「貧しい人た
ち」になり替わっています。そうではなく、自分がまさに死なんとするとき、なおそこで自分を堅く支
えるもののみが人間の真の「救い」なのです。それは富でもなければ食物でもない、財産でも地位でも
名誉でもない、それは「罪の贖い」による「永遠の生命」です。更に言うなら、罪の唯一の贖い主なる
イエス・キリストの十字架のみが私たちの唯一永遠の「救い」なのです。まさに「破れ口に立ちたもう
神」が、そこにおられるのです。祈りましょう。



1

1