説    教    ネヘミヤ記4章19〜20節   ローマ書16章10〜16節

「クレネ人シモン」
2018・02・25(説教18081738)

 私が30年ほど前にイスラエルに参りましたとき、エルサレムの、かつて主イエスがゴルゴタまで十
字架を担われたヴィア・ドロローサ(悲しみの道)で、十字架を担って歩む巡礼者たちの姿を見ました。
しかしその十字架は、実際に主イエスが担われたものよりはるかに小さくて軽いものです。実際には、
福音書を見ますと、主イエスは十字架の重さに耐えられず、途中からクレネ人シモンが代わって担わさ
れたのでした。そしてクレネ人シモンは、この強制的に担わされた十字架の経験がもとになって、主イ
エスをキリスト(救い主)と信じ告白する者となり、初代エルサレム教会最初の受洗者の一人となり、
やがて長老として忠実な信仰の生涯を送ったのでした。

 ローマ人への手紙16章13節に「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、
私の母でもある」と、使徒パウロが親しく挨拶を書き送っています。その「ルポス」とはマルコ伝15
章21節に記されているように、アレキサンデルの弟でクレネ人シモンの息子であり、「彼の母」という
のはシモンの妻のことです。このことから私たちは、クレネ人シモンのみならず、その妻や息子たちま
でもが、初代教会においてキリストの良き証し人となっていた事実を知ることができるのです。そして
さらに大切なことは、使徒パウロは「彼の母は、わたしの母でもある」と書いて、年老いたシモンの妻
がどんなに親身になってパウロの伝道を助けてくれたかを、感謝をもって述懐しているのです。

 ヘンゲルというドイツの聖書学者が語っていることですが、主イエスがおられたこの時代、たとえ冗
談にしても人が決して口にしてはならない言葉があった。それは「お前など十字架にかけられてしまえ」
という呪いの言葉でした。十字架の言葉はいかなる人間関係をも破壊する強烈な呪いの文句だったので
す。なぜなら十字架は当時のイスラエルにおいて、最も過酷かつ残虐な処刑の方法であったのみならず、
神に呪われ遺棄された罪人の徴であると考えられていたからです。つまり、十字架にかけられた者には
いかなる救いの可能性もないと堅く信じられていたのです。

 それならば、まさしく主イエスは、その救いなき、呪いの十字架を、私たちのために担って下さった
のです。神の前に「怒りの子」でしかありえない私たちを救うために、私たちの罪の赦しと執り成しの
ために、神の御子みずからが父なる神の御怒りを引き受けて下さった、それがキリストの十字架です。
罪人を審き、聖なる御怒りを下したもう父なる神が、私たち「怒りの子」である罪人を愛したもうゆえ
に、その御怒りを私たちにではなく、ご自身の最愛の御子の上にお下しになったのです。この想像を絶
する神の愛を宗教改革者ルターは「十字架においては、神が神でなくなっている」とさえ語りました。
またカルヴァンはキリスト教綱要において「神の本質から第3のもの(テルトリウム)が出現している」
と申しました。この「第3のもの」こそ「十字架にかけられたる神」であります。神は唯一ですから「神
が神と戦う」などとは、決してありえないことです。しかし罪によって「神なき者」となり、神から脱
落してしまった私たちを救うために、神はまさにあの十字架において、神とは異なる存在とおなりにな
った。「神なき者」を救うために、神みずから「神なき」在りかたをなさって下さったのです。それをル
ターは「十字架においては、神が神でなくなっている」と語ったのです。

 しかも、この父なる神と子なる神(イエス・キリスト)とは、他なるおかたでありつつ、しかも一つ
なる神でありたもうというところに、十字架の出来事の本質があるのです。言い換えるなら、神は罪人
を絶対に罰したもう聖なるかたです。しかしこの同じ神が私たち罪人を極みまでも愛したもうとき、そ
の愛は「神が神でなくなる」という絶対的な自己否定という愛の姿を取るのです。それが主イエスの十
字架です。つまり、神は簡単に(自然に)愛しうる存在を、その自然のままに愛したもうかたではなく、
決して愛しえぬ存在である「怒りの子」なる私たちを、それにもかかわらず極みまでも愛したもうかた
なのです。それゆえに神の愛は、神の御子が御怒りを(罪人の遺棄を)ご自身の上に引き受けたもうた
十字架の愛として私たちに現されたのです。神の御怒りを神の愛が負い、これに撃たれたという出来事
こそ、キリストの十字架の出来事です。

 父なる神は、愛する御子イエス・キリストを十字架につけたもうことによって、私たちの罪を根本的
に解決して下さったのです。それはローマ書3章21節以下に使徒パウロが語るとおりです。「しかし今
や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエ
ス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこには
なんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは
神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられた
が、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエ
スを信じる者を義とされるのである」。

 旧約聖書の民数記21章4節以下に、モーセによってエドムの荒野に導かれたイスラエルの民が、神
に向かって「つぶやき」の罪をおかしたとき、主はモーセにお命じになって、「火のへび」をさおの上に
上げ、それを仰いだ者が死をまぬがれて生きるようにされたと記されています。この「へび」とは「罪
とされたもの」の象徴であり、そして「さおの上」に上げられた「火のへび」とは、罪の贖い主なるイ
エス・キリストを示すものです。この「上げられた」「火のへび」を仰いだ者は、誰一人としてへびに狡
まれて死ぬことはありませんでした。それと同じ「上げる」という言葉が、ヨハネ伝8章28節では十
字架の意味で用いられています。すなわち「人の子を上げてしまった後はじめて」と主が語っておられ
ることです。

 いま私たちは受難節(レント)の日々を歩んでいます。十字架の主の恵みを仰いで生きる私たちに、
今朝この「クレネ人シモン」の御言葉が与えられたことは本当に大きな導きです。なぜでしょうか?。
実はクレネ人シモンこそ、十字架の主イエス・キリストを「わが主・救い主」として信じ告白して、最
初のキリスト者(クリスチャン)となった人だからです。クレネというのは今日のアルジェリアあたり
です。そこからはるばる旅をしてきたエルサレムで、シモンは思いがけずも主の十字架を強制的に担わ
される、という経験をしました。最初は「縁起でもない」と思ったことでしょう。嫌々ながらであった
でしょう。しかし「嫌々ながら」背負わざるをえなかったこの十字架の経験を通して、シモンは十字架
の主イエス・キリストに出会ったのです。十字架の主を信ずる者に変えられたのです。そしてその全生
涯を、初代エルサレム教会の長老として、忠実な信仰の歩みを完うしたのです。

 そればかりではない、その息子アレキサンデルとルポスもまた、敬虔な信仰の生涯を歩んだ人でした。
そしてシモンの妻は(つまりアレキサンデルとルポスの母は)使徒パウロの伝道活動を物心両面におい
て支え、その働きを助ける人として、パウロのために祈り続けた。この弛みなきクレネ人シモン一家の
献身的な支えによって、自分の伝道活動はどんなに多くの祝福を主なる神から賜わったことであろうか、
そのようにパウロは神に感謝を献げつつ、今朝のローマ書16章13節にこう語っているのです。「主に
あって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある」。パウロは感謝をも
って語るのです。私は主の御手から「わたしの母」とも呼ぶべき一人の献身的な婦人の働きを賜わった。
それこそどんなに大きな、そして永遠に変わることのない、真の祝福であることか。

 この祝福の確かさと尊さを思いつつ、パウロはローマにある主に在る兄弟姉妹たちに、どうか彼らに
「よろしく」伝えて欲しい。これは文語訳では「主に在りて安否を問う」です。昔も、今も、永遠まで
も、変わりたもうことなきキリストの恵みと祝福のもとに、全ての人々が救いの喜びを知って欲しい。
十字架の主キリストの測り知れぬ恵みを、いよいよ確かに知る者となってほしい。「安否を問う」とはそ
のような意味です。祝福の伝達者となることです。その恵みをいま、神は私たち一人びとりにも豊かに
与えていて下さいます。十字架の主を信じる者すべてに、神は罪の赦しと永遠の生命を与えて下さるの
です。私たちはみな「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ
る」のです。神から脱落し、神の外に出てしまった私たちを、神のもとに立ち帰らせて下さるために、
神みずからが神の外に出て下さった。それがキリストの十字架の出来事なのです。