説     教     詩篇23篇1〜6節    ローマ書8章32節

「乏しきことあらじ」
2018・02・18(説教18071737)

 17世紀イギリスの宗教作家であり伝道者でもあったジョン・バニャンの「天路歴程」(The Pilgrims 
Progress)は、天国への巡礼者である主人公クリスチャンが、さまざまな苦難を経て目的地「天の永遠
の都」をめざして苦難の旅をする物語です。その中に次のようなくだりがあります。「謙遜の谷」の果て
にもうひとつの深い谷があって、そこは「死の陰の谷」と唱えられている。そして主人公であるクリス
チャンはどうしてもそこを通らねばならなかった。その理由は「天の永遠の都」へ通じる道がその真中
を通っていたからです。そこで、この「死の陰の谷」における最大の危機は、そこに「滅びへの落とし
穴」が潜んでいたことです。しかもそこを通らなければ、私たちは「天の永遠の都」に入ることはでき
ないのです。まさにその危険で陰鬱な「死の陰の谷」においてこそ、主人公クリスチャンは詩篇23篇
の御言葉をはっきりと聴くのです。「たとい死の陰の谷を歩むとも、禍いを恐れじ。なんじ、われと共に
いませばなり」。それは「讃美と希望の歌声であった」とバニャンは記しています。そして勇気百倍、限
りない慰めと希望をもって、クリスチャンは「死の陰の谷」を歩んでゆくのです。

 さて、私たち現代人は今この時代、私たち自身の人生の中でこそ、実はこの「天路歴程」をみずから
の信仰の歩みとして経験するのではないでしょうか。私たちは現代においてこそ「死の陰の谷」を歩む
者たちなのです。ケネス・ボールディングという経済学者が「二十世紀の意味」という著書の中で、二
十世紀を「人類文明史における最大転換期」であったと規定しています。彼によれば人類の歴史は約一
万年前に「文明以前の社会」から「文明の社会」へと大きな転換をとげました。そしていま私たちは20
世紀から21世紀へと歩みを進めています。ではこの現代はどのような時代かと言いますと、それは「文
明の社会」から「文明後の社会」への大転換期であるとボールディングは言うのです。そこで最大の問
題は、この「文明後の社会」である21世紀には「4つの落とし穴」が潜んでいるとボールディングは語
ります。文字どおり「死の陰の谷」に「滅びへの落とし穴」が仕組まれているというのです。

 注目すべきことは、その4つの「滅びへの落とし穴」に共通する項目は「貪欲」であるとボールディ
ングが語っていることです。近代のあらゆる戦争は「エネルギー資源の獲得闘争」であったと規定され
ますが、その史観は概ね正しく、今日もなお同じ価値観が世界を動かしているとボールディングは申し
ます。事実、東シナ海で中国が石油を掘れば、その油田は日本の領海にも繋がっているのだから中止せ
よと(まるでわが家の筍が隣家の庭に出たとき、その筍はいったいどちらの所有なのかというような)
複雑な問題がおこる時代です。北朝鮮からアメリカに核ミサイルが届くとすれば、従来のアウトレンジ
戦略が通用しない時代になっているのです。人間の「貪欲」が無意味な戦争をも引き起こし、政治的支
配を目論む闘争が「滅びへの落とし穴」となって「死の陰の谷」を行く世界を混乱に陥れるのです。こ
の21世紀が前世紀を上回る“エゴイズムと闘争の世紀”にならないという保障はどこにもありません。

 まさに、そのような私たちの今日の危機的な歩みの中でこそ、主なる神の御言葉は「全ての人を照ら
すまことの光」として与えられています。「主はわたしの牧者、わたしには乏しいことがない」と詩篇
23篇の詩人は歌うのです。しかもこの信頼の歌(主への讃美告白)は「乏しさ」の苦しみを知らない者
の戯言などではありません。実際、古代イスラエルの民ほどあらゆる意味における「乏しさ」を経験し
た民族は稀です。詩人はここで4節に「たとい死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と歌っ
ていますが、それは「主われと共にいませばなり」という絶対の恩寵に支えられ贖われた者の信頼の歌
声であって、経済的・政治的・地勢的に見るならば、この詩人の周囲は文字どおり「死の影の谷」その
ものであり「乏しさ」だけがそこにはあったのです。

 ある旧約学者が、古代イスラエルの経済的な乏しさを研究して、その想像を絶する「乏しさ」に驚き
ました。国土面積はわが国の四国ほどしかありません。国土の大部分は不毛の砂漠地帯であり、あらゆ
る農産物の中で自給できたものはオリーブ油とナツメヤシだけでした。政治的には常に周辺諸国からの
侵略を受け続けていました。バビロン捕囚などはその最たるものです。平時においてさえ外国に傭兵(雇
われの兵隊)になった青年は夥しい数でした。飢饉や旱魃などで国外に移住すること(難民となること)
も日常の光景でした。主イエスの時代にはイスラエル在住のユダヤ人よりも国外に居住する“ディアス
ポラ”と呼ばれるユダヤ人のほうがずっと多かったのです。聖書の民は決して「乳と蜜の流れる地」の
住民ではなく、むしろ預言者イザヤが語っているように「暗闇の中に歩んでいた民」「暗黒の地に住んで
いた人々」でした。最低生活を維持する衣食にも事欠き、社会の至るところに「乏しさ」が支配してい
た、それがイスラエルの現実でした。

 そればかりではありません。聖書の民の歴史をひもとく時、私たちは出エジプトの出来事に心を向か
わしめられます。定住すべき土地さえなく、荒野を旅し続ける民の姿がイスラエルの原風景です。しか
もようやくの思いでカナンにたどり着いた彼らを、エジプト、ペリシテ、シリア、アッスリヤ、バビロ
ニア、ペルシア、ギリシア、ローマ帝国などが次々と支配し苦しめました。聖書は「乏しさ」だけでは
なく、自由を得られなかった民族の血の出るような「苦しみ」をも知り尽くしているのです。まさにそ
の只中において「主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」と歌われているのです。

 この詩篇23篇は「静かな信頼の歌である」とよく言われます。しかしこの詩篇全体に漂う静けさと
安らぎは「乏しさ」と「苦しみ」を知らない者の純一無垢な歌声などではなく、むしろそれらを知り尽
くした者のみが、その「乏しさ」と「苦しみ」のただ中においてこそ唯一の「牧者」なる主を仰ぎつつ「死
の陰の谷」をも歩んでゆこうとする、信仰による平安と確信の讃美の歌声なのです。詩人はここに「わ
たしには乏しいことがない」と歌います。それは何という驚くべき告白でしょうか!。乏しいことばか
りの人生なのです。乏しさを満たそうとすれば、そこにたちまち殺戮の歴史が展開される世界なのです。
そのような世界のただ中にあって、詩人は「主がわが牧者であられるゆえ、われ乏しきことあらじ」と
断言するのです。痩せ我慢や幻想ではありません。「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに
伴われる」のです。そして「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれ
る」のです。そこには幻想や思い込みの入りこむ余地は全くありません。

 なぜでしょうか?。それは、ここに「乏しいことがない」平安をもって詩人を覆い囲んで下さるため
に、身を削り、自分の生命を与え尽くして、救いの御業をなしたもうかたが、いま私たちと共におられ
るからです。私たちに揺るがぬ真の平安を与えて下さるために、ご自身からはいっさいの平安を奪い去
られたもうたかたが、いま私たちと共におられるからです。そのかたこそが「死の陰の谷」を行く私た
ちのこの歴史の現実の中にあって、私たちの変わらぬ唯一の「牧者」であられることに、私たちの真の豊
かさがあるのです。本当の救いがあるのです。このかたは、主イエス・キリストは、十字架上で祈られ
ました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、何ぞわれを見捨てたまいし)。本来この叫
びを上げて滅びの(呪いの)十字架にかからねばならなかったのは私たちであったはずです。私たちこ
そ神に遺棄せられるべき罪人のかしらであったはずです。その私たちを救うために、私たちの罪の贖い
となられ、神の御子イエス・キリストが十字架の呪いを引き受けて下さいました。私たちに朽ちぬ生命
を与えるために、ご自分の全てを献げ尽くして下さったのです。

 まさしく、この主イエス・キリストの十字架の恵みに相対する旧約の御言葉こそ今朝の詩篇23篇3
節なのです。「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。この「み
名のために」の「御名」こそ主イエス・キリストの御名です。御前に立ちえざる私たちのために、主イ
エス・キリストがいっさいの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。それが「み名のために」というこ
とです。キリストの十字架の贖いのゆえに、ということです。その贖いの恵みが私たちの死せる魂をも
甦らせて下さる。そして私たちを「正しい道に導いて」下さるのです。その「正しい道」こそバニャン
の語る「天の永遠の都」への道です。まことの神に立ち帰り、神と共に、神の愛の内を歩む、新しい生
命の道であります。

 実に、起こりえぬこと、ありえないことが、私たちのこの時代に現実に起こっているのです。それは、
あらゆる「乏しさ」と「苦しみ」のただ中において、なお私たちが主イエス・キリストにありて(結ば
れて)いっさいを満たされているという現実です。そのことを使徒パウロは、ローマ書の8章32節に
このように語りました。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡され
たかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。ここでごく単純なことを考
えてみましょう。わが子に引き換えてと言うならば、親はいなるものも犠牲にするのではないでしょう
か。パウロはいまたしかにそういうことを申しています。主なる神は私たちに、その最愛の独子なるイ
エス・キリストをさえ賜わった。その主なる神がどうして「御子のみならず万物をも(私たちに)賜わ
らないことがあろうか」。だから主イエスご自身もマタイ伝6章33節において「まず神の国と神の義と
を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と言われました。私
たちは愚かにも逆の生きかをしています。まずどうでもよいものを求め、自分が少しでも富む者になろ
うと欲し、そして最も大切な「神の国と神の義」は求めようとしないとすれば、それこそ私たちのこの
時代を「滅びに誘う落とし穴」なのです。本当の「乏しさ」とは、そのような私たちの生活そのものに
あるのではないでしょうか。

紀元前8世紀の預言者アモスは、このような主の御言葉を聴きました。「主なる神は言われる、『見よ、
わたしがききんをこの国に送る日が来る。それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の
言葉を聞くことのききんである』」。私たち人間にとって本当の「乏しさ」とは、物に不足することなど
ではない。私たちが真の神から離れたまま生きている現実にこそ、本質的な、そしていかなるものも満
たしえない、最も深刻な「乏しさ」(飢饉)があるのです。それを預言者アモスは見抜いたのです。主イ
エスはそこに「飼い主を失った羊の群れのような」人々の(私たちの)真の姿をご覧になったのです。
ですから「主のみがわが牧者」でありたもうという事実にこそ、私たち人間の本当の救いがあるのです。

 ただその事実に立って生き始めるとき、たとえ「死の陰の谷を行く」とも「わざわいを」恐れる必要
はなくなるのです。「主がわれらと共にいましたもう」ゆえに、私たちはもはやいっさいの「乏しさ」と
「恐れ」から自由な者とされているのです。それと同時に、いかなる「苦しみ」の現実の中にありまし
ょうとも、私たちは今朝の詩篇23篇6節が語る確信と平安に満たされつつ生かされているのです。「わ
たしの生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住
むでしょう」。ここに「必ず恵みといつくしみとが(私に)伴うでしょう」とあるのは、直訳するなら「必
ず恵みと慈しみとは、私を追い続ける」という言葉です。私たちがどんな境遇にあろうとも、私たちの
罪の真実なる贖い主、私たちのために十字架におかかり下さった主の恵みと慈しみは、私たちを追い続
けてやまないのです。

 そこに、私たちの変わらぬ平安があり、いっさいの「乏しさ」から自由にされた、真に満たされた者
の祝福の生活が、そして新しい事由と希望の時代が開かれてゆくのです。祈りましょう。