説    教    詩篇121篇4節   ルカ福音書6章12〜16節

「微睡みたまわぬ神」
2018・02・11(説教18061736)

 古代イスラエルの歴史にとって最も大きな、そして危機的な出来事は、なんと申しましても出エジプ
トの出来事でした。紀元前14世紀、今からおよそ3300年前、イスラエルの民が「神の僕モーセ」の導
きのもと「奴隷の家」であったエジプトを脱出して「約束の地」カナンへと旅をした出来事です。エジ
プトを脱出したイスラエルの民は約60万人でした。みな着たきりの状態で食物すらありません。大人
も老人も幼子もいました。病気の人も身体の不自由な人もいました。背後からは十万人のエジプト正規
軍が地響きを上げて迫り、前には果てしなく続く紅海の大海原が行く手を塞いでいました。この絶体絶
命の危機に際して人々は大声で嘆き悲しみました。ああ、自分たちはここで皆殺しになるのか。ここで
殺されるより奴隷であったほうがまだましであった。そう言って嘆き悲しむイスラエル人の声が、出エ
ジプト記14章10節には、あたかも雷のように鳴り響いたと記されています。事実600台もの戦車をし
たがえ、弓と槍と刀を手にしたエジプト正規軍にとって、イスラエルの民を砂漠で皆殺しにすることな
ど、赤子の手をひねるようなものでした。

 出エジプト記12章38節によれば、エジプトを脱出したイスラエルの民は「多くの入り混じった群集」
にすぎなかったと記されています。最近の新しい研究によれば、民数記11章4節の「多くの寄り集ま
りびと」という言葉と併せて、出エジプトを敢行したイスラエルの民は民族的に単一民族などではなく、
むしろ雑多な民族の寄せ集まりであったと考えられています。いわばそうした“寄り合い所帯”にすぎ
なかったイスラエルの民は、出エジプトという「叫び」で地を揺るがすような経験を通して、はじめて
祈りにおいて一つとされたのです。つまり出エジプトという苦難の出来事を通して“寄り合い所帯”の
民がはじめてイスラエル(神の家)とされたのです。

 そこで、出エジプト記14章19節以下には、この「神の家」としてのイスラエルに与えられた大きな
救いの出来事を私たちは見るのです。それはひとつの言葉に象徴された救いの出来事でした。それはな
にかと申しますと「微睡みたまわぬ神」との出会いです。もちろんイスラエルの人々はそれ以前から神
を信じていました。しかしその信仰はまだ本物ではなく、神を「微睡む神」としてしか見ていなかった
のです。つまり、神よ、私たちがこんなに大きな死の危険に晒されているのに、あなたは微睡んでおら
れるのですか?忘れておられるのですか?と、神の救いを疑ったのです。このイスラエルの民の「疑い」
(というより不信仰)に対して、主なる神がモーセに示したもうたご自身の御姿は「微睡みたまわぬ神」
のお姿でした。それは出エジプト記12章42節に「これは(出エジプトの出来事は)彼らをエジプトの
国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった」とあることです。まさに「微睡みたまわぬ神」
こそが私たちの唯一の真の救い主なのです。

 私は神学校時代の6年間、ほとんど毎日3時間ぐらいしか寝ていませんでした。寝る暇がなかったの
です。それに加えて教会での奉仕があり、アルバイトもありました。肉体的には本当に過酷な歳月でし
たが、悲壮感はありませんでした。ボンヘッファーという人は「神学ほど楽しい学問はない」と語って
いますが、私もその「楽しさ」を経験しました。今でも同じです。「あなたどうしてそんなに楽しそうな
の?」と妻によく言われますが、新しいドイツ語の神学書をひもとく時など無上の楽しさを感じます。
しかし当時の私は本当に困りました。夜ほとんど寝ていないものですから、肝心かなめの講義の時間に
微睡んでしまう、居眠りをしてしまうのです。神学校の教室というのは10人前後の神学生しかいない
のです。だから居眠りをするととても目立ちました。居眠りというのは不思議なもので、眠るまい眠る
まいと力めば力むほど微睡んでしまうのです。私はそこに主イエスが言われた「心は燃ゆれども肉体は
弱し」という御言葉の真実であることを教えられました。私は説教中の居眠りには寛大な牧師ですが、
その理由は私が神学校時代に寛大な教授たちによって許されていたことによります。

 主なる神は永遠なる全能者であられますから、私たちのように、疲れたから睡眠を必要とされるなど
ということはありません。では「微睡みたまわぬ神」とは何を意味するかと申しますと、取るに足らぬ
雑多な烏合の衆にすぎないイスラエルの民を限りなく愛し、これを救って下さった「救いの出来事」が
そこに現されているのです。いまは高松の教会の牧師をしております私の友人かいます。この友人本人
もいまガンと戦いながら牧会しているのですが、彼の子供たちがまだ幼かった頃、小児喘息のためにし
ばしば、友人夫妻は文字どおり「徹夜の寝ずの番」をしてその子たちに寄り添いました。その経験の中
で、ある日私の友人は私にこう語ったことがあります。「親というものは実に無力な情けないものだ。わ
が子が病気で苦しんでいるのに、ほんの一瞬、微睡んでしまうことがある。そうすると、その一瞬の間
はわが子の存在を忘れているわけだ。ここに人間の根源的な弱さ、限界、罪がある」そのように彼は私
に語りました。苦しむわが子のかたわらで、たとえ一瞬でも「微睡んで」しまう自分が許せなかったと
言うのです。

 そのようなこと考えますとき、私たちはイスラエルの雑多な民が、絶体絶命の砂漠の危機の中で「微
睡みたまわぬ神」を自らの「救い」の出来事として告白したということ、そのような神のお姿を「われ
らの救い」として“信じた”ということが、どんなに凄いことか、真の神が「微睡みたまわぬ神」であ
ることがどんなに尊いことであるか、わかるのではないでしょうか。それこそ詩篇121篇3,4節のとお
りであります。「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者は、まどろむこともなく、眠ることもない」。この真の神の「救い」の出来事
は新約聖書においても、主イエス・キリストが“徹夜して祈られた”という2つの場面において私たち
に示されています。その一度目は十二弟子をお選びになる前の晩のことです。主はひとり山に入られて
夜を徹して祈りたまい、その祈りによって十二名を弟子としてお選びになったのでした。それは今朝の
御言葉・ルカ伝6章12節以下に「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。
夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えにな
った」とあるとおりです。そして第二の場面はあの有名な「ゲツセマネの祈り」です。十字架の御苦難
を目前にせられ、主は全世界の救いのためにゲツセマネにおいて血の汗を流しつつ祈りたまい、十字架
の御苦難という杯を御父なる神からお受けになったのです。弟子たちは疲れ果てて眠っていましたが、
主は最後まで「世にあるすべての者を愛され、彼らを最後まで愛し通された」のであります。

 さて、聖書が語る真の神はまことに「微睡みたまわぬ神」ですが、その真の神は微睡みたまわぬゆえ
に、いかなる救いの御業を私たちに現して下さるのでしょうか?。その大切な御言葉を私たちは、出エ
ジプト記14章13節と14節において示されるのです。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、
主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい」そして14節に「主があなたがたのために
戦われるから、あなたがたは黙していなさい」とあることです。これは言い換えるなら「微睡んで」し
まうほかにない私たちに代わって、私たちの救いのために、主なる神ご自身が「わたしたちのために」
戦って下さるという事実です。だからモーセはイスラエルの民に「主があなたがたのために戦われるか
ら、あなたがたは黙していなさい」と告げています。この「黙していなさい」とは「傍観していなさい」
という意味ではありません。そうではなく「ただ神のみを信頼して堅く立ちなさい」という意味です。
神に信頼していないとき、私たちは喧(かまびす)しくなるのです。人の言葉のみが空回りするのです。
目標のない戦いを、めいめいが勝手にすることになるのです。そうではなく、主があなたがたのために
戦われるゆえに「あなたがたは黙していなさい」と聖書は私たちに告げるのです。

 それでは、主が私たちのために「戦われる」とはどういうことでしょうか?。それこそ、神が独子な
るイエス・キリストを世にお与えになったことです。そして御子イエス・キリストが私たち全ての者の
ために十字架におかかりになり、罪と死に永遠に勝利され、この全世界を、神の愛と祝福のご支配のも
とに回復して下さったことです。それこそ私たちはパウロの言う「勝ち得て余りある」キリストの勝利
を「いま賜わっている」者たちなのです。このことを忘れるとき、十字架の主を信ずる信仰告白から離
れるとき、私たちはすぐに「黙することのできない」喧しく憐れな存在になってしまうのです。現代社
会を支配している言葉(価値観)の殆どが、実はこうした空しいおしゃべりに過ぎないのではないでし
ょうか。このことは同時に、私たちが歴史というもの(時というもの)をどう捉えるかという、人生そ
のものに関わる大きな問題に繋がっています。実は日本語の「とき」という言葉は自然的な時間の流れ
をあらわすものであり、それ以上の意味はないのです。ギリシヤ語で言うなら“クロノス”が日本語の
「とき」と同じです。それは時計で測れる「時」以上の意味はありません。しかし聖書が私たちに告げ
ている「時」はそのようなものではないのです。それは「微睡みたまわぬ神」そして「私たちのために
戦われる神」が導いて下さる「とき」であり、ギリシヤ語で言うなら“カイロス”という言葉であらわ
される「救いの時=恵みの時」です。真の神は哲学的な観念の神ではありません。真の神は歴史の主で
あられ、天地の創造主であられます。まさに私たちの時間のなかに働きたまい、私たちのために救いの
御業をなされ、私たちのために新しい「時」を切り開いて下さる「救い主」なのです。その歴史の全体
を通して、私たちを救いへと導いておられるのです。

 主イエス・キリストご自身「微睡みたまわぬ神」の無限の愛と真実をもって、私たちを御国の民とし
てお選びになり、私たちの測り知れぬ罪を十字架において贖い、完全な救いの喜びのもとに迎え入れて
下さいました。いま「微睡みたまわぬ神」の祈りが、私たち一人びとりに豊かに注がれているのです。
だからこそ使徒パウロは第二コリント書6章2節にこう語っているのです。「見よ,、今は恵みの時、見
よ、今は救いの日である」。そして最後にご一緒に、エペソ書1章3節から5節を拝読したいと思いま
す。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊の
もろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造
られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子
たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったの
である」。まさにこの救いと祝福と選びの恵みを与えて下さる「微睡みたまわぬ神」こそ、私たちの永遠
に変わらぬ「救い主」であられるのです。祈りましょう。