説    教     詩篇126篇1〜6節   第二コリント書7章8〜10節

「祝福された悲しみ」

2018・02・04(説教18051735)  今朝わたしたちに与えられた第二コリント書7章10節に「神のみこころに添うた悲しみは、悔いの ない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」とありました。今朝はこの御言 葉を中心に据えて、使徒ペテロの召命の出来事から「祝福された悲しみ」について御言葉を聴いて参り ましょう。  同じ新約聖書のヨハネ伝21章15節以下に、主イエスによる使徒ペテロへの厳かな召命の場面が記さ れています。「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、 あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたし があなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に、『わたしの小羊を養いなさい』と言わ れた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、 『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わ たしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテ ロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あな たはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼 に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。  ペテロが三度も主イエスの御名を拒んだのは、つい10日ほど前の出来事でした。もしも人生に“取 り返しのつかぬこと”があるとしたら、ペテロが犯した罪こそまさにそれでした。ペテロは主イエスに 対して「あなたと一緒に死ぬことになっても、あなたを知らぬなどとは決して申しません」と堅く誓っ たのです。それにもかかわらず主の十字架を目前にして、ペテロは恐ろしさのあまり3度も主イエスの 御名を拒んでしまった。「あの人と自分は何の関係もない」と口にしてしまった。主を3度も裏切って しまったのです。ペテロは自分のおかした取り返しのつかない罪におののき、外の暗闇に飛び出して「激 しく泣き」続けたと記されています。  まさにそのペテロの前に、いま復活の主イエスはお立ちになり、ペテロを使徒として召して下さるの です。主はペテロの全ての罪を贖い、新たな御業へとお召しになるのです。すなわち、主イエスはペテ ロに対して「ヨハネの子シモンよ」と彼の本名をお呼びになり、そして「われを愛するか」と3たび問 いたまいます。そのつどペテロは主イエスに対して「主よ、そうです、わたしがあなたを愛することは、 あなたがご存じです」と答えています。そのペテロに主は「わたしの羊を養いなさい」(わが羊を牧せよ) とお命じになる。同じようなこの遣り取りが3度繰り返されているのです。  そこで、この3度の繰り返しがペテロの3度の否認と深く関わっていることは申すまでもありません。 事実ペテロは3度目には「心をいため」たと記されています。この「心をいため」たと訳された元々の ギリシヤ語は「深い悲しみをもって悔い改めた」という意味です。つまりペテロは主イエスに対して不 快な気分になったというのではなく、自分が3度も主イエスを否認したことを思い出して、大きな悲し みと共に、改めて主イエスに従い、主イエスに固着する使徒として、生まれ変わったのです。主イエス に贖われた者として、新しい人生を主と共に歩み始めたのです。それが「心をいため」たということで す。  そもそも、どうして主イエスは3度も同じ問いをペテロに投げかけられたのでしょうか?。それこそ まさしく、ペテロの魂の傷口に3度も手を置かれて、彼を完全に癒して下さるためでした。取り返しの つかぬ罪を3度も犯したペテロを、主は3度の召命によって完全に癒され、ペテロをして立ち上がって 主と共に歩む者(使徒)へと生まれ変わらせて下さいました。この主の極みなき愛に触れたればこそペ テロは「心をいため」たのです。悲しみによって悔改めへと導かれたのです。彼はこのとき、本当に生 涯主イエスに固着する使徒となり、その生命の限り繰返し主に立ち帰って歩む僕とされたのです。  私たちにとっていちばん大切なことは、自分がどんなに神の前に強く確かな存在かということではあ りません。それは幻想にすぎません。大切なことはただ一つ、主がどんなに大きな愛をもって、この罪 人のかしらなる私をも愛していて下さるかです。私たちもペテロと共に「わたしがあなたを愛すること は、あなたがご存じです」としか答えられない者です。しかしそれは何と幸いな答えでしょうか。パウ ロの言う「もはやわれ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり」とは、実にこのキリス トの愛に打たれ、生かされた僕の喜びと幸いを語ったものです。ですから子供讃美歌(皆さんの讃美歌 集では461番)にも「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と歌われています。 それが大切な唯一のことなのです。その主の御力のみが罪と死に対する永遠の勝利なのです。それのみ が人生を導く唯一のまことの力であり慰めなのです。  この出来事を念頭に置きつつ、改めて今朝の第二コリント書7章8節以下の御言葉を心にとめましょ う。この手紙の背景には、当時のコリント教会に起こったひとつの忌まわしい出来事がありました。ど うもその出来事の首謀者はコリント教会の教会員であったらしいのです。それで使徒パウロはこの第二 コリント書を書き送る前に、今はその手紙は失われてしまったのですが、第一の手紙と第二の手紙との 間に、もうひとつの手紙を書き送って、その人と教会全体に対して「悔改め」を迫ったのです。それは パウロ自身「悲しみの手紙」と書いているほどに激烈な文面でした。そしてその手紙を受け取ったコリ ント教会の人々は、その激烈なパウロの手紙によって真の悔改めへと導かれ、忌まわしい問題は解決さ れ、首謀者となった教会員は「神の御心に添うた悲しみ」をもって主なる神に立ち帰り、そのことでコ リントの全教会員が大きな慰めと喜びを得るに至ったのです。それが、この7章8節から10節が書か れた背景にあった出来事です。  さて、ここでパウロは明確に感謝をもって宣べ伝えています。「そこで、たとい、あの手紙であなたが たを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなた がたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからでは なく、悲しんで悔改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに 添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである」。  パウロは自分が先に書いた手紙の内容があまりに激烈であったために、それを送った後しばらく悩ん でいたらしいのです。私たちにも経験があることです。つい悲しみと怒りのあまり、あのようなきつい ことを言ってしまったけれど、もっと別の言いかたができなかったのだろうかと自分を責める気持ちで す。しかしその激烈な手紙を受け取ったコリント教会の人たちは、その手紙を通して「神の御心に添う た悲しみ」そして「悔改め」へと導かれたのでした。  その理由の一つは、パウロの手紙がコリント教会において(コリント教会だけではありませんが)礼 拝において説教として読み上げられたからです。つまりコリントの人たちはその激烈な手紙を通して「パ ウロ先生からの厳しい叱責の言葉」を聞いたのではないのです。そうではなく、コリントの人たちは「真 の悔改めへと導く神の言葉」を聴いたのです。先ほどのペテロの出来事で申しますなら、ペテロはあそ こで主イエスからの叱責を聞いたのではなかった。そうではなく、ペテロは主イエスが語りたもうた「真 の悔改めへと導く神の言葉」を聴いたのです。  それで、ペテロも、コリント教会の人々も「悔いのない救いを得させる悔改め」へと導かれたのでし た。それが礼拝において、説教を正しく聴くことにおいて起こる私たちの幸いであり喜びです。私たち の人生にもいろいろな「悲しみ」が起こるのです。それは青天白日のもと大きな声で言える悲しみもあ りますが、時として大きな声ではとても言えない「恥ずかしい悲しみ」というものもあるのではないで しょうか。ペテロやコリントの人たちが経験した悲しみはまさしくその「恥ずかしい悲しみ」でした。 それはそのまま放置していれば「死をきたらせるこの世の悲しみ」でしかなかったはずのものです。私 たちも、大きな悲しみを経験するとき、その悲しみが人に言えないような内容のものであったとき、実 は生きながらにして「死」を経験しているのではないでしょうか。まさに10節が語る「この世の悲し みは死をきたらせる」ことを、この御言葉が事実であることを、私たちは自分の人生の中で幾度も経験 するのではないでしょうか。  まさにその私たちの「この世の悲しみ」のただ中にこそ、主イエス・キリストの御声が私たちのただ 中に響き渡るのです。それは「ヨハネの子シモンよ、われを愛するか?」とい主の御声です。この「ヨ ハネの子シモン」という御言葉の中に、私たち自身の名を置き換えるように招かれています。「あなたは、 私を愛するか?」と主は私たち一人びとりに問うておられるのです。それは言い換えればこういうこと です。主が罪人なる私たちを極みまでも愛して下さった、その愛に応えて生きる信仰の人生を、キリス ト者の生涯を、主に従う者の幸いな歩みを、あなたはいま心から願う人になっているか?ということで す。もしそうならば、あなたが誰にも言えなかった「この世の悲しみ」は、もはやあなたに「死をきた らせる」ものではない。そうではなく、そのあなたの悲しみの全てを私が担い取った。あなたの絶望の 全てを私が受け止めた。あなたの死に向かう存在を私が十字架において贖った。そのようにはっきりと 主は語っていて下さるのです。  この十字架の主が共にいます幸いと自由の歩みにおいて、私たちに10節の御言葉が告げられている のです。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは 死をきたらせる」と。あなたはもはや「死を来たらせるこの世の悲しみ」に囚われている人ではない。 なぜなら、私があなたの悲しみの全てを担っているからだ。私があなたと共にいて、あなたの全存在を 贖い、あなたを幾度でも立ち上がらせ、あなたと共にどこまでも歩むからだ。だから勇気を出しなさい。 涙をぬぐって立ち上がりなさい。そのように主は私たち一人びとりに語り告げていて下さるのです。  終わりに第二コリント書の1章3節から5節を拝読いたしましょう。ここに「患難」と訳された言葉 は今朝の御言葉の「悲しみ」と同じギリシヤ語です。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリスト の父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを 慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中に ある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満 ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからであ る」。この救いと慰めと生命を賜る神こそ、私たちの変わらぬ救い主なのです。祈りましょう。