説    教    民数記21章4〜9節   エペソ書2章1〜7節

「十字架にかけられたる神」

2018・01・21(説教18031733)  私たちが山に登るとき、俗に言う「胸突き八丁」と呼ばれる場所にさしかかることがあります。文字 どおり「胸を突く」ような苦しく険しい急坂が、あと少しで頂上というところで、私たちを待ち受けて いたりするのです。それは人生の局面についても言えるでしょう。私たちの人生にも「胸突き八丁」が あるのではないでしょうか。まさに今朝、私たちに与えられているエペソ書2章1節から7節までの御 言葉は、3節までのところで、私たちの人生の苦しく険しい「胸突き八丁」を示しています。  「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中 で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に 従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日 を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生まれながらの怒りの子であっ た」。  私たちはこの急坂を、なんとしてでも登り切らねばなりません。途中で諦めることは霊の死を意味す るからです。人生の意味自体を失うからです。しかしどうでしょうか?。この「胸突き八丁」を私たち は自力で登ることができるでしょうか?。克服することができるでしょうか?。できないのです。それ は、ここに明確に告げられているように、私たちは「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」であり 「不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」者だからです。私たちには自分の「罪 過と罪」を克服しうる道は無いのです。私たちの中には私たちの救いは無いのです。人間には人間を救 いうる力は無いのです。  そのような無力な私たちに、今朝のエペソ書2章は続く4節以下に、驚くべき恵みをさし示していま す。「しかるに。あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によっ て死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのであ る――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。  ここに告げられている福音は、ひと言でいうなら「あなたはどんなに無力であっても、そのままで良 いのだ」という音信(おとずれ)です。あなたはどんなに無力であっても、そのままで良いのだ。あなた の救いは、あなた自身の中にあるのではなく「あわれみに富む神」にのみ、あなたの本当の救いがある のだと告げられているのです。それなら、この「あわれみに富む神」とはいかなる神であられるのか?。 それは御子イエス・キリストによって「わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によ って死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」て下さる神である。これがパウロの告げている 福音の中心です。この「キリストと共に生かし」とありますのは、もともとのギリシヤ語では「キリス トによって生命を与える」という意味です。キリストが私たちのために、ご自身の生命を与えて下さっ たという音信です。それはすなわち十字架の恵みをさしています。  そういたしますと、私たちにもわかるのではないでしょうか?。私たちの人生の「胸突き八丁」を既 に贖い取って下さったかたがここにおられる。このかたが、十字架の主イエス・キリストが、私たちを 抱き起こして下さり、私たちをかきいだいて下さり、私たちを背負って下さって、ご自身の足でこの「胸 突き八丁」を登って下さるのです。「あなたはもう、全てを私にまかせておれば宜しい」と言って下さる のです。この驚くべき救いの恵みを、使徒パウロは続くエペソ書2章7節以下に、このように語ってい ます。「それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の絶大な富を、きたるべ き世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。そ れは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。  ここにはっきりと「それは(私たちの救いは)あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」 と告げられています。「賜物」とはプレゼントという意味です。無償のプレゼントです。だから私たちは これを感謝して信仰をもって受ければよいのです。そうすべきなのです。それしかないのです。ここに は私たちの側の「ふさわしさ」は何ひとつ問われていないからです。問われているのはただ一つ、主イ エス・キリストの恵みに対する私たちの信仰です。主イエスが私たちのためになして下さった全ての救 いの御業を「アーメン」と感謝して受け取ることです。それ以外のなにものも問われていないのです。 なぜでしょうか?。それは十字架の主イエス・キリストが、私たちの完全な救いのために必要ないっさ いの「御業」を、今朝の御言葉でいうならば「神の絶大な富」を、私たちの救いのために献げ尽くして 下さったからです。  それゆえに使徒パウロは、続く9節以下においてこのように語っています。この9節以下の御言葉は もしかしたら、初代教会の讃美歌の歌詞であったかもしれないものです。「決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするよう に、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすよ うにと、あらかじめ備えて下さったのである」。  ここに「良い行い」という言葉が出てきます。私たちプロテスタント教会、特に改革長老教会は、こ の「良い行い」という言葉に素直になれない向きがあります。それは「良い行い」と言うと、まさに9 節に告げられている「決して行いによるのではない」という言葉と矛盾するではないかと考えるからで す。たしかにそうです。私たちの救いは私たちの「行い」によるのではありません。人間の行為、人間 の「わざ」に、私たちの救いがあるのではないのです。ではなぜパウロは、敢えてここに矛盾に見える ようなことを語っているのでしょうか?。その理由は、実はとても単純明瞭です。新約聖書が「良い行 い」と言うとき、その主体、その主語は、いつも主なる神なのです。私たちではないのです。  それは譬えるなら、月が自分では輝かず、太陽の光を受けて輝くのと同じです。私たちには自分で神 に喜ばれる「良い行い」をなしうる力はありません。私たちが主語である人生には私たちの救いはあり ません。しかし月が太陽の光を受けて輝くように、私たちもまた「わたしたちに賜わった慈愛による神 の恵みの絶大な富」を戴くとき、輝きえないはずの私たちの存在、私たちの人生が、恵みの光に輝き始 めるのです。それが新約聖書の語る「良い行い」なのです。私たちではなく、神の永遠の御子、十字架 の主イエス・キリストが主語でありたもうのです。  さて、この十字架の主イエス・キリストが「主語」でありたもう事実において、私たちは「神の恵み の絶大な富」を知るのですが、その「絶大な富」の内容をさらに訊ね求めて参りますと、その「胸突き 八丁」の果てに、私たちの誰もが、否、人類そのものが、いまだかつて想像だになしえなかった一つの 光景が繰りひろげられているのに出会うのです。それはなにかと申しますと、聖なる神が、創造主なる 神が、私たちの救いのために、呪いの十字架におかかりになって死なれるという出来事です。「神の死」 という驚くべき出来事です。神がもはや神でないものになられる「十字架にかけられたる神」の御姿で す。  そもそも神は、死ぬことがないからこそ「神」なのではないでしょうか?。死ぬものをもはや「神」 と呼ぶことはできないのではないでしょうか?。神は不死なる存在であり、あらゆる苦しみや矛盾から 自由な存在であると、古代ギリシヤの人々は考えていました。これをセオス・アパセース(Theos Apathees)と言います。アパセースとは「パトス」つまり「苦しみ」を持たないという意味です。しか し聖書はそのような「苦しみを持たない神」とは全く逆の神こそ、真の神であると私たちに告げている のです。それはまさに「十字架にかけられたる神」のお姿です。古代ギリシヤの神観念とは全く逆の、 神であられることを失ったと見えるほどに「神らしくない」神のお姿です。言い換えるならば「神の外 に出てしまわれた神」のお姿です。  そこで改めて心に留めたいのは、今朝のエペソ書2章3節に出てきた「生まれながらの怒りの子」と いう激烈な言葉です。これは誰あろう私たちのことを言っているのです。この「怒り」とはドイツ語で 言いますとツォルン(Zorn)であり「棄てる」「棄却する」という意味です。つまり「怒りの子」とは「神 に棄却されるほかない存在」という意味でして、それが「生まれながら」というのは、まさに絶体絶命 の危機を現わしています。どこにも救いの余地がないという意味です。「救い」について完全に破綻して いるという意味です。ですから聖書が語る私たちの「罪」は、単なる人間性の不完全さや、弱さや、欠 点のことではなく、私たちが神に背き、神から離れ、神の外に出てしまっているということです。「神な き者」になっているということです。  それならば、そのような「神の外に出てしまった」私たちを救い、永遠の生命を与えるために、主な る神ご自身が「神の外」に出て下さったのが、十字架の主イエス・キリストのお姿なのです。それは言 い換えるなら、主イエス・キリストが、本来は私たちが受けねばならなかった神のツォルンを、御怒り を、永遠の棄却を、ご自身のものとして担い取って下さったことです。それが十字架の出来事なのです。 そこに私たちの唯一永遠の完全な救いがあるのです。  カルヴァンは「たとえ世界をつぶさに観察しても、神が父であられることを私たちは決して知りえな い」と語りました。それは、この世界そのものが神から背き離れ、脱落した存在であるゆえに、世界の 内には神認識のいかなる手立てもないからです。その意味でキリスト教は自然宗教ではありません。自 然の中に私たちの救いは無く、世界の中に世界の救いは無く、歴史の中に歴史の救いは無いのです。私 たちの唯一真の「救い」はただ、自然と世界と歴史の主なる神にのみあります。その意味でキリスト教 は恩寵宗教です。ただ恵みによってのみ私たちは救われるのです。  現代社会は「癒し」がブームです。決して悪いことではありませんが、しかし「癒し」というのは「自 然の中にある救い」を前提としているかぎり、それは本当に人を救うことはできないのです。それは譬 えるなら、人が転んだ時にしてどのようにして起き上がるのかを教える立場です。もしも人が立ってい る足元の地面そのものが崩れるなら、それはなんの救いにもならないのです。聖書が語る人間の救いは、 人間の絶体絶命の罪からの救いを告げるものです。だからこそそれは「福音」と呼ばれるのです。  ご一緒に今朝のエペソ書2章7節の御言葉を、改めて心にとめて終わりたいと思います。「それは、 キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に 示すためであった」。私たちはまさに「十字架にかけられたる神」主イエス・キリストによって尊い真の 「救い」に入れられた者たちなのです。教会は「十字架にかけられたる神」を宣べ伝える群れであり「キ リスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示 す」ために立てられたキリストの御身体・復活の共同体です。このことを感謝と讃美をもって覚えつつ、 いよいよ十字架の主の御名を崇めつつ、「来たるべき世々に」真の救いの喜びと幸いを「示す」群れであ り続けたいと思います。祈りましょう。