説    教    創世記3章8〜10節  ヨハネ福音書3章17〜19節

「救いを与える審き」
2018・01・14(説教18021732)

 「人間とはいったい何者なのか」。これは最も単純な、しかし最も答えに難しい問いです。ギリシヤ哲
学の始祖ソクラテスは、哲学の最高の命題は「汝自身を知れ」ということだと申しました。しかし自分
のことがいちばん「わかっていない」のが人間なのです。「汝自身を知る」こと以上に難しいことはない
のです。私たちもそのとおりではないでしょうか。人間ほど矛盾に満ちた存在はありません。自分の心
を持て余す時があるのです。おのれの心の持つ不思議な暗闇にふと気がつき、慄然とすることがあるの
ではないでしょうか。自分はいったい何者なのかと、真剣に問わずにおれなくなるのです。そのような
経験を私たちの誰もが持っているのではないでしょうか。

 聖書は、人間を美化し、理想の世界(ユートピア)を描く書物ではありません。かえって聖書は、人
間のありのままの姿を明らかにし、徹底的に人間の本質を物語るものです。その聖書が示す人間理解の
最も深いところに、罪によって神から離れた人間の姿があります。罪とは、神から離れたまま生きるこ
とです。よく「聖書は、罪、罪と言うけれど、自分は悪いことをした覚えなどない」という人がいます。
しかし考えてみれば、私たちが自然にわかる罪など、たいした罪ではないのです。最も恐ろしく根深い
罪は、私たちの意識にさえ上らない罪です。

 譬えるなら病気と同じで、自覚症状のない罪こそ恐ろしいのです。それを教理の言葉で「原罪」と言
います。自覚できない原罪の恐ろしさは、それがいつの間にか人を死に(滅びに)至らしめることです。
まさに、そのような私たち人間の原罪を、今朝のヨハネ伝3章17節以下は、特に19節において明らか
にしています。福音の光によって見えない病巣を指し示すのです。それが19節の「そのさばきという
のは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみのほうを愛したことで
ある」という御言葉です。ここで聖書は私たちの罪の結果を「さばき」という言葉であらわします。

 私たちは普通「さばき」と言うと、それは自分の外にあり、外から来るものだと思っています。しか
し今朝の御言葉はそうではないのです。むしろ私たち自身の隠れた罪が私たちを「さばく」のです。私
たちが「光よりもやみのほうを愛したこと」が「さばき」そのものなのです。主イエスは「外から来て、
あなたがたを汚すものはない。かえって、あなたがたの中から出るものが、人を汚すのである」と言わ
れました。そのとおりではないでしょうか。何びとも、自分を棚に上げて罪を論ずることはできません。
もし人が「自分には罪はない」と言うなら、その人は「自分を偽り者としている」のです。だからこそ、
今朝の御言葉が私たちに告げているのは、神からの大いなる救いの音信です。それは「光」すなわち神
の御子イエス・キリストが、今すでにあなたのために「来ておられる」という救いの出来事です。キリ
ストは十字架と復活の主として、御父と聖霊と共に永遠に世を統べたもう「救い主」なのです。罪と死
の支配に、このかただけが絶大な勝利をおさめておられるのです。それにもかかわらず、いま私たちが
ここで、この「世」で、自分の人生で、あたかも「光」が「救い主」が来なかった者のように生きてい
るとするなら、それこそ私たちは「偽り者」だと申さねばなりません。

 そこで私たちは、今朝あわせて拝読した創世記3章8節以下の御言葉に心を留めたいと思います。そ
こには人類の原型で、私たち自身の姿であるアダムとエバの物語が記されています。神の御意志に背い
て罪をおかしたアダムとエバは、神の御顔を避けて逃げる者になってしまいます。そこで主なる神は彼
らに呼びかけて言われます。「あなたはどこにいるのか」と。これは犯人を追及する刑事の言葉ではなく、
失われたわが子を尋ね求める父親の愛の叫びです。まさしく主なる神は私たち一人びとりに限りない愛
をもって呼びかけておられる。「あなたはどこにいるのか」と!。あるべき所にいない私たちの現実があ
るからです。あるべき所にいないからこそ、私たち人間にはあるべからざること(あってはならないこ
と)が起こるのです。その「あるべからざること」の際たるものこそ人間の「死のさま」です。使徒パ
ウロがローマ書6章23で「罪の支払う報酬は死である」と語るとき、それは神から離れた「さばき」
としての永遠の死をあらわしているのです。

 讃美歌の141番に「つれなき世びとよ、汝がつみとがは、かくもかなしき、果をむすびぬ」という歌
詞があります。「あるべき所にいない」私たちの罪そのものが、私たちを審いて「あるべからざる」永遠
の滅びへと導くのです。しかしまさにその同じところで、使徒パウロはこのように語っているのです。
「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。
まさにこれこそが、全世界に宣べ伝えられている福音の内容です。「救い主イエス・キリストの福音」で
す。

 主なる神は、私たちがただの一人も、罪の「さばき」によって滅びることをお許しになりません。罪
によってあるべき所(神のみもと)から離れてしまった私たちに、「あなたはどこにいるのか」と、限り
ない愛をもって呼びかけて下さるかたがここにおられるのです。そして私たちをご自身のみもとに回復
して下さるために、その愛する独子イエス・キリストを世にお与えになりました。それこそ今朝の17
節に告げられている福音です。すなわち「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、
御子によって、この世が救われるためである」とあり、そして18節に「彼を信じる者は、さばかれな
い。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」とあ
ることです。

 もし私たちが「神のひとり子の名を信じる」なら、そのとき私たちは「さばき」に打ち勝つ「めぐみ」
のもとに、主イエス・キリストの救いのもとに生きるのです。イエス・キリストを「わが主・救い主」
と告白し、洗礼を受けて、主の御身体なる教会に連なることです。キリストを着ることです。もし私た
ちがそのあるがままにキリストの義を身に纏うなら、もはやいかなる「さばき」も私たちを支配するこ
とはできないのです。なぜなら、主イエス・キリストが私たちを限りなく愛して下さり、私たちのため
に十字架におかかりになり、罪の「さばき」をさえ引き受けて下さったからです。

 キリストの十字架は、神の御子みずから、私たち全ての者のために永遠の「さばき」を引き受けて下
さったことです。ガラテヤ書3章13節はこのことを「キリストは、わたしたちのためにのろいとなっ
て、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」と告げています。罪の「のろい」また罪
の「さばき」を、キリストは私たちの身代わりになって徹底的に担って下さった。それが十字架の死で
す。実に主は私たちのために、永遠の滅びとしての「あるべからざる」死を死んで下さったのです。そ
のようにして信ずる全ての者を「さばき」より救い出し、永遠の生命(復活の生命)を与えて下さった
のです。そのようにして「あるべからざる所」(罪の支配の下)にいる私たちを「あるべき所」(恵みの
支配の下)に移して下さったのです。それが私たちに与えられている「救い」の出来事です。

 石川啄木の歌に「剽軽の性なりし友の死顔の青き疲れが今も目にあり」というものがあります。剽軽
な性格でよく冗談を言っては人を笑わせていた友人が若くして病気で死ぬのです。その友人の通夜の席
上、啄木はいま初めて人の死に出会ったかのように驚くのです。かつては愉快で剽軽だった友人が、い
ま目の前に「青き死顔」となって横たわっている。そこに言い知れぬ死のリアリティーを見て慄然とす
るのです。パスカルはこの「剽軽」を「遊戯」という言葉であらわしました。私たちはあたかも死が存
在しない者であるかのごとくに振舞っている。それが「遊戯」です。しかしどんな遊戯もそれによって
死の現実を打ち消すことはできません。「死顔の青き疲れ」の現実を変えることはできません。それは一
時的な逃避にすぎないのです。

 まさしく、そのような罪の雄叫びが鳴り響くこの世の現実のただ中で、主イエス・キリストは、主イ
エス・キリストのみが、十字架の主として、私たちの全存在をかき抱くごとくに御自身のもとに守って
下さり、死に向かう私たちの魂の重みを、罪の結果を、ことごとく御自身の身に引き受けて下さいまし。
罪の「のろい」と「さばき」から私たちを救い、永遠の生命を与えるために、十字架において「さばき」
を引き受けて下さったのです。罪と死の支配を徹底的に打ち砕き、恵みと祝福の支配のもとに私たちの
全存在を移して下さったのです。このキリストの御支配のもとにあってこそ、もはや私たちの人生は「遊
戯」ではありえなくなるのです。死のリアリティーを打ち砕く、キリストのリアリティーが、キリスト
の愛と恵みが、私たちの人生を根本的に新しくするのです。

 このことを使徒パウロは、第一コリント書15章55節以下にこのように語っています。「死は勝利に
のまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・
キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動
かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになる
ことはないと、あなたがたは知っているからである」。私たちを人生において、言い知れぬ孤独に陥れる
思いは、もしかしたら自分の「労苦」はすべて「むだ」なのではないだろうかという思いではないでし
ょうか。徒労に終わる労苦ほど空しいものはありません。しかし聖書はここに明確に告げています。「主
にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と!。

 この「主にあっては」とは「キリストに結ばれているならば」という意味です。否、主があなたを捕
らえていて下さっているのだから、という意味です。あなたの人生が、教会において、キリストに堅く
結ばれているならば、主があなたを捕らえていて下さる恵みを、あなたがいま信じるならば、あなたが
この人生において担うどのような「労苦」も何ひとつとして「むだ」になるものはない。あなたが他者
のために担う、どんなに小さな労苦さえ、主が御手の内にしっかりと受け止めていて下さる。そして御
業のために豊かに用いて下さる。だから安心しなさい。「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主
のわざにはげみなさい」。そのように聖書ははっきりと告げているのであります。

 十字架の主が「救いを与える審き」となって下さった。私たちに完全な救いを与えて下さった。この
ことを感謝し、救い主なる神の御名を讃美しつつ、ともに心を高く上げて、信仰の道を歩んで参りたい
と思います。祈りましょう。