説    教    列王記上19章9〜13節  ヨハネ福音書12章29〜30節

「新しき年への祝福」
2018・01・07(説教18011731)

 新しい主の年2018年を迎えました。昔から「一年の計は元旦にあり」と申します。この「計」とは「計
画=希望」という意味です。年頭にあたり、私たちがどのような希望を抱いて事に処するか。その如何に
よって一年の歩みが、ひいては人生全体が決まってくるのです。そこで、この大切な新年最初の礼拝にお
いて、私たちに与えられた神の言葉はヨハネ伝12章29節30節です。「すると、そこに立っていた群衆が
これを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った。イ
エスは答えて言われた、『この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである』」。

 これは主イエスが十字架を目前とされて献げたもうた祈り(他の福音書ではゲツセマネの祈りとして記
されている祈り)に続く御言葉です。この主イエスの祈りに応えて天から、父なる神の厳かな御声が響き
ました。それが直前の28節後半の言葉です。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあ
らわすであろう」。ところが、主イエスと共にいた群衆は、その御声をひとつの“音”としては聞いたもの
の、それが神の御言葉であるとはわからなかったというのです。つまり「音」は聞いたけれど「神の言葉」
を聴くことはなかったのです。それで人々はめいめい互いに、今の声は「雷が鳴ったのだ」とか「いや、
天使が主イエスに話しかけたのだ」とか、自分に都合の良い勝手な解釈をはじめたわけです。それが今朝
の御言葉の背景です。

 私たち人間には、聞いているようでいて実は聞いていない、ということが往々にしてあるのではないで
しょうか。「目あれども見ず」「耳あれども聞かず」ということが、私たちにもあるのではないでしょうか。
ましてやそれが主なる神の御言葉であるなら、なおさらだと言わねばなりません。

 そこで、神の御声を「雷が鳴ったのだ」と解釈した人々とは、いかなる人々だったのでしょうか?。そ
れは、神は自然現象において現われたもうものだと考えていた人たちです。そもそも日本語の“雷”とい
う言葉も“神が鳴る”という語源から来ています。バッハのカンタータにも「いかづち、そは神の御声」
という歌詞があります。雷にかぎらず、様々な自然現象の背後に神の啓示(神の現れ)を見ようとする立
場は古代からありました。山や海、太陽や月、大木や巨石などを「神」と名づけて崇め奉る立場です。そ
うした「人知を超えた自然現象に神を求めようとする立場」は世界中のいたる所にありますし、今日でも
なお大きな勢力を持っているのです。

 第二に、主なる神の御声を聞いて「天使が主イエスに話しかけたのだ」と解釈した人々はいかなる人々
だったのでしょうか。これは最初の人々とは若干違い、少なくとも自然現象と神を同一視する立場ではあ
りません。しかしよく考えるなら「御使」(天使)もやはり神のお造りになった被造物ですから、その意味
では両者はやはり同じ次元に立つものなのです。ただ、自然現象そのものを神と崇めるのか、それとも自
然現象を神を現わす代名詞として扱うのか、その違いがあるだけです。これはマックス・ウェーバーの言
う“合理化された自然観”が「御使」(天使)という超自然的な形をとったものだと理解することができる
でしょう。

 そこで、これら2つの御言葉の解釈には、実は私たち人間が、理解し難い出来事や大きな謎に直面した
ときに取る2つの代表的な立場(思想)が現れていると言えるでしょう。第一の立場は「自然に帰ること
が人間の救いである」とする立場。第二の立場は「自然を合理化することが人間の救いである」とする立
場です。

 まず、第一の立場ですが、これは日本の神道やアニミズム(自然崇拝教)に現れている思想です。最大
の罪は自然破壊であるという立場です。自然は神聖かつ清浄なものであって、これを破壊したり変えたり
することは「穢れ」であるとする立場です。日本の仏教や神道が提唱する人生観はほとんどこれです。環
境問題に熱心な人々が、往々にして環境を神格化する危険があるのは、それが原始的アニミズムと結びつ
いているからです。これを徹底すると、人間は単なる自然の一部であって、理想的世界とはすなわち原始
的世界であるという結論になります。極端な話、電気もガソリンもガスも水道も「穢れである」という立
場になる。病気の治療もできなくなる。樹を伐って家を建ててはならないということになる。これには非
常な無理があるのです。

 では、第二の立場はどうでしょうか。ある意味で現代文明とは自然を合理化することによって成り立っ
ています。空気より重い金属でできた飛行機が空を飛べるのは、航空力学の計算に基づいて自然を合理化
した結果です。通信衛星によって地球の裏側とも会話ができるようになる。わずか数百グラムのウラニウ
ムで何千万世帯もの電力をまかなうことができる。これらは全て自然を合理化し文明を発展させていった
結果であると言うことができるのです。

 そこで、この2つの立場はいっけん相反するように見えますが、実は自然の中に人間の「救い」を見る
という点においては同じなのです。自然がすなわち神であるのか、それとも、合理化された自然こそが神
であるのか、その少しの違いがあるだけです。その両者に共通しているものは、真の神を知らず、知ろう
ともせず、ただ神が与えて下さったものを「神」とすることです。例をあげるなら、私たちに素晴らしい
プレゼントを与えてくれた人がいるとします。もし私たちがその人に対してはなんのお礼も言わず、ただ
そのプレゼントに向かってお礼を言うとしたら、それこそ本末転倒ではないでしょうか。自然の中には私
たちの本当の「救い」はないのです。自然の内側には決して私たちの「救い」はありません。世界の中に
世界を保つ力はなく、歴史の中に歴史を救う力はなく、自然の中に自然を完成させる力はないのです。救
いはただ、主なる神と神の御言葉にのみあるのです。

 だからこそ主イエスは、これら2つの立場を堅持しようとする人々に対してはっきりと仰せになりまし
た。「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである」と。近代人は、私たちは、
神を見いだし、神に近づく道を、自然の中に、あるいは自然を合理化することの中に、訪ね求めようとし
ました。しかしそのどちらの道も、真の神へと私たちを導くものではありません。主イエスは言われまし
た「わたしは道であり、真理であり、生命である」。主イエスは「わたしは道である」と宣言して下さいま
す。「真理であるわたしに出会うために、まずあなた自身が道を探しなさい」と言いたもうたのではないの
です。私たちに「わたしは道である」と明確に告げて下さるのです。その上で「わたしは、真理であり、
生命である」と言われるのです。これはどういうことかと申しますと、私たちは、真の神に出会い、神の
救いを戴くために、その道を知らない世界(自然)の中に放置されているのではないということです。そ
うではなく、自然も含めてあらゆる被造物をお造りになり、永遠の愛とご計画(摂理)をもって導いてお
られる主なる神の御子イエス・キリストによって、いま私たちは真の救い主なる神に出会い、神を知り、
神に立ち帰り、神を信じ、礼拝する者とならせて戴いているのです。

 ですから宗教改革者カルヴァンは「真の神を知ることは、すなわちその神を愛し、礼拝することである」
と申しました。真の神を知ることは、その真の神が私たちのこの罪の世界を、ご自身の独子イエス・キリ
ストをお与えになったほどに愛して下さった、限りない愛の御心を知ることです。そして真の神の限りな
い愛を知るとは、いまその愛の中に私たち自らが生かされている幸いを知ることです。この神の愛を知る
とき、私たちはもはや神と神の御言葉に対して中立であることはできません。それこそカルヴァンが言う
ように、心からこの神を愛し、礼拝を献げる者とされるのです。それが、まことに神を知るということで
す。神に栄光を帰することです。

 大切なことは、神の御声、神の御言葉を、いまこの私への「救いの福音」として聴き続けることです。
だから私たちは主日礼拝を重んじ、日々御言葉に親しみ、祈りを熱くして信仰生活を歩むのです。今朝あ
わせて拝読した列王記上19章9節以下に、紀元前8世紀のイスラエルの預言者エリヤの生涯において、
最も大切な転機となった出来事が記されています。アハブ王の迫害を逃れ、40日40夜かけて神の山ホレ
ブに至った預言者エリヤは、ある洞窟の中で驚くべき恵みの経験をします。それは神の御声の本質を知っ
たことでした。主なる神は、洞窟の中で恐れおののくエリヤに「さあ、出て、山の上で主の前に立ちなさ
い」と命じたまいます。そのときエリヤの前を凄まじい風が吹き荒れ、その風によって山が倒れ岩が砕け
ますが、その風の中に主なる神はおられなかった。風の次に大きな地震が起こりますが、その地震の中に
も神はおられなかった。地震の後に灼熱の炎がエリヤを襲いますが、その炎の中にも神はおられなかった
のです。

 その全てが去ったあとで、聖書はこのように語っています。「静かな細い声が聞こえた」と!。「静かな
細い声」。触れるがごとく、優しき恵みの御声をもって、エリヤの心に直接に主なる神はお語りになった。
その御声を聴いたとき、エリヤは立ち上がり、ホレブの洞窟を出て、全ての人々に救いの福音を宣べ伝え
る預言者の道を歩んだのです。風によっても、大地震によっても、灼熱の炎によっても、エリヤは立つ者
とならなかった。ただ「静かな細い御声」だけが、神の御言葉だけが、エリヤを立ち上がらせ、御言葉の
喜びと自由、平和と幸いを担う栄光の務めへと駆り立てたのです。それは、私たちも同じなのです。主が
いま私たちに求められていることは、何にもまして「静かな細い御声」を聴く者となることです。主なる
神の御言葉を、みずからへの「救いの福音」として、生命の御言葉として、聴き、受けいれ、信ずる礼拝
者となることです。そのときはじめて、私たちは神に愛されたかけがえのない人格として、喜びと自由と
勇気と平安をもって、世の旅路に出てゆく者とされるのです。どのような戦いの中にあっても、主の平安
に支えられた神の僕とされてゆくのです。

 どうかこの年頭の礼拝にあたり、まず私たちはこの志において、ひとつの群れとされて参りたいと願い
ます。いつも、主なる神の御声を聴き、御言葉に養われ、導かれてゆく真の「聖徒の交わり」「聖なる公同
の使徒的教会」へと、共に成長して参りましょう。「この声があったのは、あなたがたのためである」と主
は言われました。この「ため」とは、私たちの救いと永遠の生命のためという意味です。私たちはいま、
キリストの永遠の恵みのご支配のもとに堅く立つ者とされています。永遠の生命とは、真の神との永遠の
交わりに生きることです。それならば、全ての人々が、この御声を聴く者として、主の教会に招かれてい
るのです。主なる神の御声によって、福音によって、死の身体から甦らされ、父・子・聖霊なる神との、
永遠の交わりの喜びと幸いへと、全ての人が招かれています。この幸いを主イエス・キリストにあって知
る者として、この新しい一年も、主の喜びたもう、まことの教会を建ててゆくために、あらゆる労苦を共
に担い、祈りを合わせて、励んでゆく、私たちでありたいと思います。祈りましょう。