説    教    ヨブ記33章18〜20節   ヨハネ福音書8章12節

「生命の光」
2017・12・31(説教17531730)

 主の年2017年最後の主日礼拝を迎えました。この礼拝で私たちに与えられた御言葉はヨハネ福音書8
章12節です。「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来
る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』」。ここに主イエスは「人々に語ってこう
言われた」とあります。これは少し“回りくどい言いかた”です。「語る」も「言う」も同じではないでし
ょうか。文語訳の聖書でも「かくてイエスまた人々に語りて言い給ふ」となっています。やはりいささか
日本語として不自然な印象を与えるのです。実はそれは翻訳の問題ではなく、元々のギリシヤ語がそうな
のです。原文を見ますと“ラレオー”と“レゴー”という、ともに「語る」という意味の言葉が続けて記
されています。

 そこで、この2つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか?。この疑問を解く大きな助けとなり
ますのは1545年にルターが訳したドイツ語の聖書です。それを見ますとルターはこの2つの言葉を「説
教する」という意味の“レーデン”redenと「普通に語る」という意味の“ゼーゲン”segenの2つに区
別して訳しています。つまりルターはこの2つの言葉を注意ぶかく使い分けることによって、今朝の御言
葉の場面を鮮やかに私たちに示しているのです。主イエスの御言葉はその全てが福音の説教(救いの音信)
です。主イエスは常に神の御言葉のみを人々に語られました。しかしそれは人々の日常会話や普通の生活
からかけ離れたものではなく、むしろ聴く人々の誰もが理解できる「普通の言葉」で福音をお語りになっ
たのです。それが「人々に語って言われた」と記されている意味です。ルターが語るところの「レーデン」
(普通に語る)であります。

 あるとき、主イエスと共に「非常に高い山」に上ったペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、そ
こで主イエスの御姿がまばゆく輝くのを目の当たりにしました。そこにモーセとエリヤが現れて主イエス
と会話をしたのを聞きました。ところが彼らはその会話を全く理解することができませんでした。地上の
事柄ではなく、いと高き神の国の奥義が語られていたからです。弟子たちは辛うじて、自分たちがどんな
に素晴らしい場面に居合わせているかを理解できたのみでした。使徒パウロも第二コリント書12章にお
いて「口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉」それが神の国の奥義(福音の本質)であると語っ
ています。神の御顔を仰ぐとはそういう経験をすることです。神の現臨に居合わせるとはそのような「言
い表し難き」言葉を聴くことです。それは名状しがたく語り得ない言葉(日常を超えた言葉)なのです。

 それでは、主イエスはどのように語られたのでしょうか?。「わたしは世の光である。わたしに従って来
る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。これこそ主イエスが説教の言葉として、
御自身の御身体なる教会を通して、いま全世界に告げておられる福音の御言葉です。イスラエルの「仮庵
の祭」の最終日には、かならず行われる重要な儀式がありました。それは日没と同時に、神殿の中庭に置
かれた大きな4本の松明に火がともされることでした。ヨセフスという当時のユダヤ人の歴史家は、その
炎は非常に明るく、エルサレムの街じゅうを照らしたと伝えています。それはかつて出エジプトに際して
イスラエルの民の荒野の旅を導いた「火の柱」を象徴するものでした。主イエスが今朝の12節の御言葉
を人々に語られたのは、まさしくその松明の炎がエルサレムを明るく照らし始めた時でした。どんなに明
るい松明の炎も、やがては消えてゆく一時的な光にすぎません。それが燃え尽きてしまえば、町も人々も
再び元の暗闇に閉ざされてしまうほかはないのです。

 しかし、主イエスが私たちに与えて下さる「光」は、決して消えることのない「永遠の光」です。私た
ちの歩みを照らし永遠の御国へと導く「不滅の光」を主イエスは与えて下さいます。そこでこそ主イエス
は、まもなく消えてゆく松明の炎をさして宣言して下さるのです「わたしは世の光である」と!。あの松
明の炎は、いま見えていてもすぐに消えてゆくほかはない。人々は来た道を暗闇の中を家路につくほかは
ないのです。人々の歩みを再び深い暗闇が覆うのです。それは私たちの人生を象徴しています。主なる神
から離れて、私たちの人生にはいかなる「真の光」もありえないからです。まさにその私たちの現実の中
でこそ主は宣言して下さるのです。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をも
つであろう」。

 そこで、ここで主が宣言して下さった「命の光」の「命」とは「永遠の生命」です。「肉体の生命が続く
間だけ私たちを照らす光」ではありません。主が私たちに与えて下さる「光」は死を超えてまでも私たち
の歩みを照らし続け支え続ける「真の光」なのです。この光は陰府の力さえ打ち滅ぼす“救いの権威”を
持つのです。そのような「まことの光」を私たちは主イエス・キリストによって戴いているのです。既に
クリスマスの説教において私たちは同じヨハネ伝1章9節を聴きました。「すべての人を照らすまことの
光があって、世に来た」。主イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光」として、ベツレヘムの
馬小屋に御降誕された神の御子なのです。「わたしは、何々である」という御言葉は、ヨハネ伝に数多く出
てくる独特な表現です。私たちが社会生活の中で様々な困難や苦しみや悩みに出遭うとき、「こうすれば問
題は解決する」とか「こうすれば立ち直れる」とかアドバイスをしてくれる人はあるかもしれません。し
かしいったい誰が「わたしはあなたの光である」と語ってくれるでしょうか?。これこそ使徒パウロの言
う「人間が語り得ない言葉」であり、名状しがたき御言葉なのです。

 主はまさに「わたしは世の光である」と語り告げて下さる唯一の“救い主”として私たちのもとを訪ね、
私たちと共におられ、私たちを「命の光」すなわち“永遠の生命”へと導いて下さる「救い主」(キリスト)
なのです。ヨハネが喜びと讃美をもって全世界に告げる福音のおとずれは、ただ単に「すべての人を照す
光」が存在するという哲学的な教えではありません。ヨハネはその「光」が「まことの神」として「世に
きた」というおとずれを告げているのです。それこそ同じヨハネ伝3章16節に呼応する福音の調べです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅び
ないで、永遠の命を得るためである」。永遠にして聖なる神ご自身が、有限にして相対的な、死すべき罪人
である私たち人間の姿になられ、徹底的に身を低くされて、私たちの罪と死のどん底に御降誕せられ、私
たちのために十字架を担われたのです。それが「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」とい
う福音の事実なのです。

 それでは、なぜ主イエスは「世の光」と呼ばれるのでしょうか?。それは主イエスのみが、罪と死に勝
利された「十字架の主」であられるからです。主イエスのみが、十字架によって私たちの罪を決定的に担
い取り、贖い、解決して下さった唯一の「救い主」だからです。主イエスのみが、墓に葬られ、陰府にま
で降りたもうて、永遠の滅びから私たちを解放し、神の民として下さった唯一の「主」であられるからで
す。それゆえ今朝の御言葉には主イエスが私たちのために背負って下さった十字架の重みがかかっている
のです。この十字架の恵みによってこそ主は「わたしは、世の光である」と語り告げていて下さるのです。

 今朝の主イエスの説教を聴いていた人々の中に、律法学者たちに審かれ殺されそうになった、あの名も
なき女性も含まれていたことでした。彼女は十字架のキリストによって自分の罪が贖われ、真の赦しと生
命を与えられた喜びと感謝の内にこの御言葉を聴き、主イエスを信じたのです。あの女性にとって、主イ
エスと出会うまでは人生の歩みは罪の暗闇に閉ざされていました。虚しい慰めに一時的に縋っても、それ
は「仮庵の祭」の松明の炎と同じで、それは儚くすぐに消え、以前よりも更に深い暗闇が彼女の存在を覆
ったのです。 その彼女が、罪の淵から主イエスによって贖われ、まことの“救い”を戴きました。まさ
しく「世の光」そのものである主イエスによって「命の光をもつ」人生へと生まれ変わらせて戴いたので
す。彼女を審こうとしたパリサイ人らが主の御声によって悔改め、手にしていた石を投げ捨てたように、
彼女もまた自分を「正しい」とする「罪」からキリストの贖いによって立ち上がらせて戴きました。どの
ような光も決して照らしえなかった彼女の魂を「世の光」「すべての人を照らすまことの光」である主イエ
スのみが照らし、主イエスのみが彼女の存在を、罪の重みもろともに受け止めて下さり、死の淵から立ち
上がらせて下さったのです。

 私たちも、同じではないでしょうか?。私たちのもとにも、私たちのもとにこそ、主イエスは訪ねて下
さったのです。それこそクリスマスの恵みです。ドストエフスキーが「永遠の暗闇」と呼んだ魂の暗闇(罪)
を誰もが持っています。それを私たちは自分ではどうすることもできません。その無力な私たちのもとに
「救い主」キリストが訪れて下さったのです。そして無力な私たちに対して、主は一方的な恵みを宣言し
て下さいました。「あなたは生命の光を持つ者とされている」と!。キリストが訪れて下さった私一人びと
りが、いま「生命の光」を持つ者とされているのです。

 使徒行伝の19章に、使徒パウロが小アジアのルステラという町で受けた迫害の様子が記されています。
パウロはそこで暴徒化した群衆によって「石打ちの刑」に遭いました。人々はパウロが「死んでしまった
と思って」パウロの身体を町の外に引きずり出して捨てました。ところが20節を見ますと「しかし弟子
たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った」と記されているのです。さ
らに14章20節にはこうあります。「そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。そ
の町で福音を伝えて、大勢の人を弟子としたのち、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行
き、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多く
の苦難を経なければならない』と語った。また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈
り、彼らをその信じている主にゆだねた」。

 ここで注目すべきことは、使徒パウロは「石打ちの刑」を受け「死んでしまった」と思われるほどの傷
を受けたのですが、そこで歩みが終わったのではなく、立ち上がったパウロはすぐに、迫害を受けたルス
テラに「入って行き」、そこで福音を宣べ伝えたと記されていることです。これこそ神のなせる御業ではな
いでしょうか。たったいま自分が瀕死の重傷を負わされたその町に、起き上がると同時に再び入って行く
のです。キリストの福音をたずさえ、平和と祝福を人々に与えるために…。それこそ今朝の御言葉である
ヨハネ伝8章12節の生き生きとした実例です。「わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、やみ
のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 パウロは「世の光」としてパウロを照らし、罪を贖って下さったイエス・キリストに従う者とされ、そ
の福音を携えつつ生きる者となった時、石打ちの刑もものともせず、なおそこで立ち上がり、迫害した町
に福音を宣べ伝える者として、主の御業のために用いられたのです。そこに多くの人々がキリストを信じ
て洗礼を受け、真の教会が力強く建てられてゆきました。それこそ「やみのうちを歩くことがなく、命の
光をもつであろう」と主が言われたキリスト者の歩みです。そして大切なことは、ここに集う私たちもま
た、一人びとりが同じ主を信じ、同じ主に贖われ、従う者とされている。その私たちこそ「世の光」であ
られるキリストに出逢っているのです。キリストが十字架をもって贖い取って下さった僕たちなのです。
その私たちに主は「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と
約束して下さるのです。これは私たち一人びとりへの福音の宣言、恵みの祝福なのです。

 どうか共に心を高く上げて、主に従うキリスト者の歩み、礼拝者としての生活を、平安の内に勇気をも
って歩んで参りましょう。新しい2018年の歩みをも、いっそう祈りを深めつつ、神の栄光のみを現わす
群れであり続け、福音を宣べ伝える器として強められて参りましょう。主はその「まことの光」「世の光」
「命の光」をもって、日々新しく私たちを照らし、生命の道を歩ませて下さるのです。祈りましょう。