説    教    イザヤ書9章6〜7節  ヨハネ福音書16章25〜28節

「救い主の御降誕」
2017・12・17(説教17511727)

 「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。これは、
われらの主イエス・キリストが、今朝のヨハネ伝16章28節において、私たち一人びとりにお語りにな
ったことです。永遠の昔から父なる神と共にあられた御子キリストは、御父の限りない愛の御心のまま
に、今や全世界の救いの御業を十字架の死において成しとげられ、そして再び天の父のみもとにお帰り
になろうとしておられる。その厳かなご自身の使命を、ここに明らかにしておられるのです。

 私たちはここに、同じヨハネ伝14章1節以下の御言葉を思い起します。主イエスは私たちに「あな
たがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。そして更に「わ
たしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、ま
たきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」
と告げて下さったのです。

 私たち人間にとって、最も大切な問題は、私たちがどこから来てどこに向かう存在なのか、というこ
とではないでしょうか。それは同時に、人生または存在そのものの意味と根拠を問うことです。私たち
の人生は偶然によって支配された風船玉のようなものにすぎないのか、それとも、神が統べ治めておら
れる意味と目的を持った人生なのか、その両者の選択の如何によって、私たちの存在と人生そのものの
意味が大きく違ってくるのです。私たちの生活それ自体が大きく違ってくるのです。

 そこで、聖書は哲学・思想の書物ではなく、救いと生命の福音を宣べ伝える神の言葉ですから、そこ
にはいつも確かな答えが私たちに告げられているのです。それが今朝の主イエスの御言葉です。聖書は
いつも私たちに、ある“問い”ではなく一つの“答え”のみを告げます。それは「主イエス・キリスト
が、あなたの救いのためになされた全ての御業を信じなさい」という信仰への招きの言葉です。キリス
ト教とは何かと言えば、それは突き詰めるなら、イエス・キリストという唯一の救いの御名に尽きるの
です。イエス・キリストの御名を信ずることは、イエス・キリストが私の救いの為になして下さった御
業を信ずることです。それがキリスト教信仰の本質なのです。

 繰返し申します。キリスト教信仰の本質はイエス・キリストという唯一の御名にあります。「この御名
のほかに救いなし。天上天下、この御名のほかにいかなる救いの御名もなければなり」。これこそ、私た
ちにいつも与えられている唯一の“答え”であり信仰への“招き”です。神が私たちのために最愛の独
子をお与えになった事実こそ福音の真髄です。その神の独子なるイエスは、私たちのために「場所を用
意しに行く」と言われるのです。それが十字架の死と葬り、そして復活と昇天によって成しとげられた
救いの出来事なのです。そこに、私たちは何よりも確かな人生と存在に対する唯一の“答え”を見いだ
します。それは「あなたの人生と存在の全ては、神から出て神に帰って行くべきものだ」という答えで
す。私たちの人生と存在の根拠は偶然性などではなく、唯一の主にして父なる神にあるのです。

 主イエスははっきりと「わたしのおる所に、あなたがたもおらせるためである」と言われました。こ
れは何と驚くべき御言葉でしょうか。今朝の16章27節では「父ご自身があなたがたを愛しておいでに
なるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたこと
を信じたためである」と仰っておられます。私たちには何ひとつとして勲(いさおし)が無くて良いので
す。私たちの功績や正しさというものは、何ひとつとして問われてはいないのです。あるのはただ信仰
への招きのみです。

 大切なのは、十字架のキリストを信ずる信仰のみなのです。それこそ「キリストを愛し、キリストが
御父のみもとから来たことを信じること」です。それはどういうことでしょうか。それは「キリストが
御父と等しきかたであると告白すること」です。ニカイア信条の言葉で言うなら「御父と御子とが同質
である」ことを信じることです。キリストにおいて神を信じることです。漠然とした神のような存在を
思うことではない。人生の理想を掲げることでもない。ただベツレヘムの馬小屋にお生まれになり、十
字架におかかりになった御子イエス・キリストにおいてのみ、私たちは真の神に出会っているのです。
そこに、私たちのために神がなして下さった全ての救いの御業があります。その御業に対して“アーメ
ン”と告白し、教会に連なって生きることが、私たちの信仰生活です。私たちは主の教会に連なること
によって、何の価もなきままに“義”とされるのです。キリストの復活の生命を賜わり、御国の民とな
らせて戴けるのです。

 そこでこそ主は言われます「その信仰があなたがたの内にあるならば」そのとき「わたしはこれらの
ことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してき
かせる時が来るであろう」と。それが今朝の16章25節の御言葉です。前後しますが、主イエスはこの
御言葉を語られた時点では、まだ父なる神の御許に帰っておられませんので「その時が来るであろう」
とのみ仰っておられます。しかし私たちはまさに、主イエスが御父の御許にお帰りになったことを知っ
ていますから、その約束の「時」は既に来ているのです。実現しているのです。主イエスが「比喩では
なく」「あからさまに、御父のことを」私たちに話される時が、いま来ているのです。それがこの礼拝の
時です。

 この礼拝において、活ける復活の主みずから、聖霊において御言葉と共に、私たちのただ中に現臨し
ておられるのです。十字架と復活の主みずから、今ここで「あからさまに、御父のことを」私たちに語
っておられるのです。礼拝を献げつつ生きるとは、まさにその恵みの事実の中に人生の旅路を刻んでゆ
くことです。主イエスの御足の跡に、私たち自身の歩みを合わせてゆくことです。弘法大師ではありま
せんが、そこでは最も深い意味において「同行二人」が実現しているのです。主イエス・キリストと私
たち。まことの神と私たち。私たちは世界の何処においても、そこに勝利のキリストの御手と、限りな
い慰めを見いだします。人生のどのような嵐の中にも、共にいて下さる主の御声を聴きます。どのよう
な人間関係の中にも、天の御国へと続く祝福の導きを見いします。徒労にも思えるどのような仕事、報
われぬどのような奉仕の中にも、そこにご自身の愛をもって報いて下さる、主の確かな御支配を見いだ
すのです。

 それは、なぜでしょうか。それは主みずから「わたしのおる所に、あなたがたもおらせるためである」
と宣言して下さったからです。この驚くべき御言葉こそ、今朝のヨハネ伝16章28節と響きあうもので
す。すなわち「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」
と言われたことです。ここに私たちは、想像を絶する救いの恵み、主イエスのこの世に対する御働きを
見るのです。すなわち御子なるキリストは、永遠の昔から御父なる神と等しきかたであったにもかかわ
らず、人となられ、あのベツレヘムの馬小屋に一人の赤子としてお生まれになった。どうか想像して戴
きたいのです。この無限大の宇宙万物の創造主にして万物の主なる神ご自身が、あの寒村ベツレヘムの
馬小屋の、飼葉桶を唯一の褥としてお生まれになったのです。最初にクリスマスの音信を聴いて集まっ
たのは、王侯貴族でもなければ貴顕紳士淑女でもなく、名もなく貧しき荒野の羊飼いたちであったので
す。

 この事実を福音書記者ルカは「客間に彼らのいる余地なければなり」と記しています。この私たちの
世界は、罪によって神とのあるべき関係のいっさいを喪失してしまった世界です。造られた日の美しさ
と祝福を失った世界です。私たちは罪の結果、罪と死の支配を受けるものとなりました。神の御言葉と
愛のご支配の内にあるべき私たちが、ありえない場所に、あってはならない所に、存在する者になった
のです。その“ありえない”事柄の集大成こそが“死”です。パウロの言うように、実に私たちのこの
世界に、罪によって死が入りこみ、全ての人を支配するに至ったのです。罪と死の法則が私たちを支配
するようになったのです。肉においては生きていても、霊においては、神に対しては、死んだ存在に私
たちはなっていました。

 それならば、その「余地なき」罪のただ中にあった私たちのもとに、神の御子は来て下さった。この
世界の最も貧しく、暗く、低い所に、この方はお生まれになったのです。それは、私たちの罪と死を丸
ごと、ご自身に引き受けて下さるためです。祝福された美しい世界ではなく、罪と死の支配する暗黒の
ただ中に、私たちの現実のただ中に、すなわち「余地なき」ところに、キリストは来て下さったのです。
あるべき所にあらず、あるべからざる所に存在していた私たちを、キリストは、ご自身の十字架と葬り
と復活と昇天によって、あるべき唯一の場所に回復させて下さったのです。だからパウロはキリストに
よる唯一の世界の救いを「新しい創造の御業」「第二の創造」に譬えています。それは罪という名の無か
ら、神の国の民が生み出されたことです。無に支配されていた世界が、真に在るべきものへと変えられ
たことです。霊において死んでいた私たちが、キリストの復活の生命に結ばれて甦らされたことです。
死んでいた者が甦り、失われていた者が見いだされ、立ちえなかった者が、キリストと共に歩む者にさ
れたのです。

 それゆえ、その大いなる恵みと生命にあずかる私たちに、主はいま確かに告げていて下さるのです。
「わたしのおる所に、あなたがたもおらせるためである」と。そのために、私は父の御許から遣わされ、
世に来たのだ。そのために私は、十字架にかかり、死んで、葬られたのだ。そのために私は、復活して
天に昇り、父なる神の御許に帰ったのだ。「あなたがたのために場所を用意するために」そのために私は、
ベツレヘムの馬小屋に人となった。失われていたあなたの存在が、在るべき所に回復されるために、私
はあなたの全ての罪を担って十字架にかかった。だから「心を騒がせないがよい。神を信じ、またわた
しを信じなさい」。

 神の御子なるキリストのみが、真の神の御心を、世に余すところなく現して下さった唯一の救い主で
す。だから主はピリポにも「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われました。キリストを信じ
ることこそ、真の神を信じることです。真の神を信じることは、キリストを信じ、キリストの御身体な
る教会に連なることです。どうか私たちは、この待降節第三主日の礼拝にあたり「わたしは道であり、
真理であり、生命である」と言われたキリストの御名を、いつも正しく告白し続ける群れでありたいと
思います。そして、全ての人と共に祝福に満ちた本当のクリスマスを迎えましょう。唯一の救い主なる
キリストを、信仰をもって礼拝する真のクリスマス、キリスト礼拝のクリスマスを、ご一緒に祝いたい
と思います。全世界の人々と共に、この唯一の救いの御名に、栄光と讃美と感謝を献げようではありま
せんか。祈りましょう。