説    教   詩篇32篇10〜11節  ヨハネ福音書16章16〜22節

「主を迎える喜び」
2017・12・10(説教17501726)

 今朝、私たちに与えられたヨハネ福音書16章16節から22節までの御言葉におきまして、主イエ
ス・キリストはたいへん印象的な福音の宣言をなしておいでになります。すなわちそれは20節です。
「よく、よく、あなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あな
たがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」。これは一読しただけでは、意味が掴みにく
い言葉です。続く21節と22節にはさらにこう告げられています。「女が子を産む場合には、その時
がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはい
ない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。このように、あなたがたにも今
は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに
満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。

 主イエスは言われるのです。今あなたがたの心は「悲しみ」と「憂い」によって塞がれている。し
かしその「悲しみ」と「憂い」は、そのあとに来る限りない「喜び」によって覆われ、あなたがたは
「喜びに満たされる」。そしてその「喜び」を「あなたがたから取り去る者いない」。つまり神が私た
ちに与えて下さる本当の喜びは、決して奪われることのない「喜び」である。その「喜び」がいま私
たち一人びとりに告げられているのです。私たちの心がその「喜び」によって「満たされる」時が来
ていると、主は私たち一人びとりに語っておられるのです。

 さて、ここで「あなたがたは悲しむであろう」と言われている「あなたがた」とはキリストの弟子
たちのこと、ここに集うている私たち一人びとりのことです。いまや主の弟子たちは、主イエスとの
「決別の時」が近づいていることを知り「悲しみ」と「憂い」に心が塞がれていると言うのです。そ
こで改めて今朝の16節以下を見ますと、その決別の意味をめぐって、弟子たちが互いに議論をして
いたということがわかります。弟子たちの心には不安と怖れが渦巻いていたのです。すなわち18節
によれば、弟子たちは「私たちにはおっしゃる言葉の意味がわかりません」と主イエスに詰め寄って
います。不躾な言いかたです。「主イエスの御言葉の意味が理解できない」と主イエスを詰ったのです。
私たち人間は「わからない」事柄に対して不安を感じます。しかも自分の手に余る事柄に対しては、
たとえどんなに「悲しみ」また「憂え」ようとも、無力な自分に絶望し、不安と焦りだけが募るばか
りです。その不安で張り裂けそうな思いを不躾に主に投げかけた弟子たちには、主イエスの本当の御
姿が見えていませんでした。弟子たちの目にはただ「人間イエス」だけがあって「十字架の主キリス
ト」の御姿は見えていなかったのです。そのような弟子たちの訴えに対して、主イエスは静かに毅然
としてお答えになりました。「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しか
し、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、と
いう喜びがあるためである」。

 出産に臨み、陣痛の痛みを経験した女性は、不安で心が満たされているでしょう。しかしその痛み
と不安の心は、子供が生れたその瞬間に「喜び」に覆われます。それは「ひとりの人がこの世に生れ
た、という喜びがあるため」だと主イエスは言われるのです。ここで主イエスが語っておられる「喜
びの根拠」は実に明快そのものです。大きな「喜び」に巡り合い、それが痛みや不安の目的であった
と知ってこそ、痛みや不安さえもかけがえのない意味を持つのです。そのことは私たちの人生全体に
言えることではないでしょうか。

 作曲家ベートーベンは、音楽家として、耳が聴こえなくなるという最大の試練を経験しました。と
ころが不思議なことに、彼の素晴らしい作品のほとんどが、耳が聴こえなくなってから作曲されたも
のなのです。このベートーベンの座右の言葉として「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」(ドリュヒ・ライ
デン・フロイデ=Durch Leiden Freude)という言葉があります。大切なのは「ドリュヒ」(突き抜け
て)という言葉です。ベートーベンにとって「苦悩」は本当の喜び(歓喜)に至らせるために、主な
る神が自分の人生に与えて下さったかけがえのない通り道でした。だからその「喜び」を見いだした
とき、もはやあらゆる「苦悩」さえも、その「喜び」の中に覆われてしまっている。含まれてしまっ
ているのです。もはやその「喜び」を奪う者はいないのです。それは決して奪われることのない本当
の「喜び」なのです。

 そこで改めて思いますのは、私たちの「喜び」は、そのほとんどが受動的なものになってはいない
でしょうか。つまり、私たちは「喜んでいる」のではなく「喜ばされている」ことのほうが多いので
はないか。たとえば、欲しかった物が手に入ったとき、人はそこに「喜び」を感じます。しかしその
「喜び」とは、欲しかった物が手に入ったという前提の上での「喜び」です。言い換えるなら、もし
その物が手に入らなかったなら、その「喜び」もなかったわけです。あるいは、その物が奪われてし
まえば、その喜びも奪われてしまうのです。そのように考えますとき、私たちが人生で感じる「喜び」
のほとんどが実は、自分が「喜んでいる」のではなく「喜ばされている」“受動的な喜び”にすぎない
ことがわかるのです。だから人生経験を重ねてゆく中で、私たちは「喜び」の儚さも同時に味わいま
す。今日は喜びに満たされていた人が、次の日には絶望のどん底に突き落とされている、ということ
は決して珍しくありません。私たちの喜びは常に「脆さ」と裏腹なのです。それは「脆く儚い一時的
な喜び」にすぎないのです。

 しかし、主イエスが私たちに与えて下さる「喜び」は、そのような脆く儚い「喜び」などではあり
ません。そればかりではなく、主イエスは今朝の20節において「あなたがたは泣き悲しむが、この
世は喜ぶであろう」とはっきりと告げておられます。あなたがたは今「泣き悲しんで」いる。人生の
旅路において「憂い」と「不安」に打ちひしがれている。しかしあなたがたのその「悲しみ」「憂い」
「不安」は、まさにそのあなたの人生の中でこそ、限りない「喜び」に変るであろう。それだけでは
ない。それは「この世」すなわち「全世界の人々」の限りない「喜び」に変るであろう。そのように
主ははっきりと宣言して下さるのです。

 その本当の「喜び」の根拠は何でしょうか?。それを主は続く22節に明確に示して下さいました。
「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。
そして、あなたがたの心は喜びで満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいな
い」。この「あなたがた」とは、私たち一人びとりのことですが、同時に「この世」すなわち全世界の
人々のことをさしています。この全世界が本当の喜びで「満たされる」時が来るのだ。この「満たさ
れる」とは「占領されてしまう」という意味です。全世界が神からの大きな「喜び」によって占領さ
れてしまう「時」が来ている。その「喜び」は決して奪われることのない本当の「喜び」であると、
主ははっきりと宣言して下さるのです。

 さて「悲しみ」と「憂い」という言葉は、実は新約聖書においては「祈り」を意味する言葉として
用いられています。何よりもそれは、主イエスの「ゲツセマネの祈り」に現れています。主イエスは
十字架にかかりたもう前の晩、ゲツセマネの園において夜を徹して全世界の救いのために祈られまし
た。「アバ、父よ、願わくはこの杯(十字架)をわれより遠ざけたまえ。されどわが思いにあらで、御
心のままになしたまえ」と祈られたのです。それならば今朝の御言葉において「悲しみ」と「憂い」
の中心に立っているのは、実は弟子たちではなく、私たちではなく、実は主イエスご自身であるとい
うことがわかります。十字架の主こそ「悲しみ」と「憂い」の中心に立っておられるのです。それは
使徒パウロの語る「イエス・キリスト、しかも十字架にかかられたイエス・キリスト」です。聖書の
主語は主なる神であり、今朝の御言葉も例外ではありません。聖書は「神の御子イエス・キリストが
私たちのためになして下さった救いの御業」を記したものだからです。

 すると、どういうことになるのでしょうか。弟子たちは今や、自分たちの「悲しみ」や「憂い」を
通して、それこそ「苦悩を突き抜けて」十字架の主イエス・キリストの御姿を仰ぎつつあるのです。
主イエスは私たちに「祈り」の喜びを与えて下さいます。主の測り知れぬ「悲しみ」と「憂い」が私
たちの頑なな心を打ち砕き、私たちを新しい「祈り」へと導いて下さいます。そればかりではない、
主は私たち全ての者に限りない本当の「喜び」を与えて下さるのです。「憂い」つまり「祈り」へと変
えられてゆくのです。「あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」。

 私たちは今朝の御言葉において、この全世界の全ての罪の現実のただ中に、十字架を背負われてお
立ちになる唯一の救い主に出会います。想像もつかぬほど大きな「悲しみ」と「憂い」がそこにあり
ます。それこそ十字架の主の御姿です。私たちのために十字架におかかりになった主イエス・キリス
トの「悲しみ」と「憂い」が、私たちを覆っている堅い罪の殻を打ち破り、私たちに「祈り」を与え
て下さいます。主が私たちのために担い取って下さった十字架の重みに、私たちはまなざしを向けは
じめます。それが私たち一人びとりの、そして全人類の、測り知れぬ罪の重みであることに気づかさ
れるのです。そこでこそ、私たちの祈りは明確なひとつの言葉になります。すなわちそれは「主よ、
罪人のわれを憐れみたまえ」です。自分を主の恵みの御手に明け渡す者として、私たちはいまここに
新たにされているのです。

 同じ新約聖書のピリピ人への手紙、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれるほど「主にある喜び」が
語られているものですが、その2章17節にパウロはこう語っています。「たとえ、あなたがたの信仰
の供え物をささげる祭壇に、わたしの血を注ぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と
共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。たとえキリストの福
音のために、血を流し殉教の死をとげようとも、主に贖われ、主に結ばれた私の「喜び」は変わるこ
とはないとパウロは語るのです。そしてその主にある者の「喜び」に、あなたがたも連なる者になっ
てほしい。キリストに贖われ、キリストのものとされ、キリストに結ばれた、その同じ「喜び」が、
全ての人々と共にあるようにと、パウロは祈るのです。それこそ主がこの待降節第二主日において、
私たち全ての者に与えて下さる「喜び」です。奪われることのない本当の「喜び」を、主はご自身の
十字架の贖いによって全世界に与えて下さいます。いま私たち一人びとりが、そのキリストにある「喜
び」に共にあずかる者とされているのです。

 それはなぜでしょうか。それは、キリストは私たちのため、私たち一人びとりのために、この世界
に来られた「救い主」だからです。私たちの全ての罪を赦し、贖うために、この世界の最も暗く、貧
しく、悲惨な所に、私たちの罪の現実のただ中に主は来て下さいました。主はベツレヘムの馬小屋に
御降誕せられたのです。この「主を迎える喜び」に私たちは満たされ、立ち上がり、礼拝者として歩
んで参りましょう。あの羊飼いたちのように「大きな喜び」に満たされ、全ての人々に祝福を告げる
群れとして、遣わされて参りたいと思います。祈りましょう。