説    教   ホセア書11章1〜9節  ヨハネ福音書12章31〜33節

「窮みなき神の愛」

2017・12・03(説教17491725)  「『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしが この地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。イエスはこう言っ て、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである」。待降節第一主日の今朝の 主日礼拝において、私たちはこの大切な主の御言葉を与えられています。主イエスはまずここに「今は この世がさばかれる時である」と仰せになりました。この主の御言葉を原文に忠実に直訳しますと「今 こそ、世に対する、神の正しき審き、ここにあり」という語順になります。「今こそ、世に対する、神の 正しき審き、ここにあり」。どうでしょうか。こうお聴きになると、ずいぶん口語訳の聖書とは違った印 象を受けるのではないでしょうか。この「ここにあり」とは「揺るぎなく厳然として存在する」という 意味です。  今から五百年以上昔、中世のイタリアにおいて、ガリレオという人が地動説を唱えました。それまで の天動説、つまり地球が全宇宙の中心であって、他の星や惑星はみな地球の周囲を回っているのだと考 えられていた時代に、ガリレオは正面から異を唱えたわけです。太陽が地球の周りを回っているのでは なく、逆に、地球が太陽の周りを回っているのだと唱えた。それは怪しからん、それは異端者の教えだ として、当時のローマ・カトリック教会がガリレオを異端審問に召喚しました。すなわちガリレオは、 ローマ教皇庁の異端審問裁判において、自説の撤回を求められたわけです。しかしガリレオは「それで も地球は回っている」と申しまして、真理は異端審問より強いことを主張したのでした。誰がどう言っ ても、真理は厳然として真理なのであり、それを曲げることは何人にも許されない。真理は真理そのも のがその正しさを証明するものです。「真理はそれ自らにおいて存在する」。それが真理の真理たる証拠 なのです。  それならば、万物の創造主なる神の御子・主イエスが今朝の御言葉で「ここにあり」と言われること の意味は、それ以上なのではないでしょうか。古代ユダヤの律法では、誰かがある人を審く場合、必ず 複数の証人を必要としました。この形式は現代の裁判制度にも受け継がれています。しかし主イエスの 御言葉は違うのです。主イエスの御言葉は、父なる神の聖なるご意志を世に現すものですから、それは 私たちにとって「真理そのもの」でありまして、他の何者かによって支えられ、補われる必要はないの です。それならば、主イエスが福音の御言葉をお語りになるとき、そこには「世に対する、神の正しき 審き」があるのです。だからこそ主イエスは「今こそ、世に対する、神の正しき審き、ここにあり」と 宣言したもうたのです。  それでは、この「神の正しい審き」とは、いったい何のことでしょうか?。実は私たち現代人は「審 き」と聞きますと、マイナスのイメージしか持たないのです。特に人が人を審くことにおいてはなおさ らです。しかし主イエスが「神の正しき審き」と言われるとき、その「審き」とは、私たちの「救い」 と「自由」に直結した福音の音信(おとずれ)以外なにものでもありません。主なる神は、私たちを罪と 死の支配から贖い、真の救いと自由をお与えになるために、世に「正しき審き」を現わしたもうのです。 「神の正しき審き」とは、実に私たちの「救い」と「自由」のための「真の審き」なのです。  譬えて言うなら、外科医が患者の病根を取り除くために大きな手術を行なうようなものです。もしそ こで外科医が、手術を行わずに膏薬を貼って誤魔化すとすれば、その外科医は治療を放棄しているわけ です。それと同じように、主なる神は私たちを限りなく愛しておられるかたですから、私たちが罪と死 の支配の中にあることを絶対に見過ごしになさらない。その罪と死に対して決定的な「正しき審き」を お与えになります。私たちを永遠の死に至らしめる「罪」という名の病根を、その「正しき審き」とい う手術によって除去したもうのです。それが真の神の愛の姿です。  このことは、たとえば、子供の教育にも通じる真理ではないでしょうか。本当に子供を愛する親や教 師は、その子供また生徒が悪い道に向かおうとしているとき、見過ごしにはしないはずです。「良薬口に 苦し」。必要とあらば厳しい愛の鉄槌をもって、子供を、また生徒を、正しい道に導こうとするはずです。 それは、受けた子供の側から見れば、厳しく理不尽な「審き」に思えるかもしれない。しかし、それは その子の成長にとってどうしても必要な「審き」なのです。最近は、子供を上手に叱れる親が少なくな っているそうです。それは言い換えるなら、必要な「審き」をなしえない大人がふえているということ です。それは根本的には、主なる神の愛の「審き」を知らないところから来ている問題なのではないで しょうか。いっけん自由奔放に見えるアメリカの子供たちも、家庭での躾は日本よりよほど厳しいです。 十年前に天に召された安村信さんは、新渡戸稲造の孫にあたる人でしたが、それこそアメリカ式のピュ ーリタンの教育を受けた人です。ピューリタン式教育の最大の特徴は、「正しき審き」のある社会こそ、 人間を本当に自由にし幸福にするのだということを知っていることです。私たちはどうでしょうか。聖 書の中の「神の正しき審き」という言葉を、私たちはいつも正しく受け止めているでしょうか。  いま、この待降節の最初の主日においてこそ、私たちは改めて正しく聴き取らねばなりません。「今こ そ、世に対する、神の正しき審き、ここにあり」という主イエス・キリストの宣言が、私たちの「救い」 と「自由」に直結した福音の音信であることを。その「正しき審き」の内容とは、神の御子イエス・キ リストが窮みまでも私たちを愛したまい、私たち全ての者の救いと自由のために、私たちのただ中にお いでになったことです。来臨されたことです。すなわち、クリスマスの出来事です。主はこの世界の最 も低く、暗く、貧しいところに、私たちの罪のどん底に、お生まれ下さった「救い主」であられるので す。そのかたが、神の御子キリストが、私たちの罪の全てを担って十字架への道を歩んで下さいました。  これを言い換えるなら、本来は、私たちが受けねばならなかった「神の正しき審き」を、主イエスが 私たちのために、身代わりになって担って下さったことです。それがあの十字架の御苦しみと、死と、 葬りの出来事なのです。ですから、主イエスはここに、ご自分の十字架の御苦しみと死と葬りをお指し になって、ただその恵みにおいてのみ「今こそ、世に対する、神の正しき審き、ここにあり」と宣言し て下さったのです。これは言い換えるなら、こういうことです。こういう宣言です。主イエスはこう言 われるのです。私はあなたのために、あのベツレヘムの馬小屋に生まれた。あなたのために、十字架の 道を歩み、十字架を担い、十字架に死んだ。私の全てを献げて、あなたの救いが実現した。だからあな たは、もう罪と死の支配のもとにはいない。私があなたのために「神の正しき審き」を担ったゆえに、 あなたは満ち溢れる神の恵みの御支配のもとを、祝福のもとを、救われたものとして、真の自由と平安 をもって、歩む者とされている。主イエス・キリストは、ご自身の十字架に基づいて、そのように宣言 して下さるのです。  主は言われました、はっきりと。「今こそ、この世の君は追い出されるであろう」と。この「この世の 君」こそ、人間を神の愛のご支配から遠ざけ、拘束していた罪の支配にほかなりません。だから使徒パ ウロもエペソ書6章12節でこう語っています。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、も ろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。「血肉」と は“人間”という意味です。私たち主の教会に連なる者は、人間に対して戦いを挑むのではない。私た ちの戦いの相手は、常に罪と死の支配であり、その支配に対して、主イエス・キリストが決定的に勝利 して下さった。その主の絶大な勝利に連なる群れとして、全力を尽くして礼拝者として生き、御言葉の 糧にあずかり、キリストの愛と恵みの主権のもとに生き続ける。それこそ、私たち教会に連なる者たち の挑むべき戦いなのです。「勇将のもと弱卒なし」であります。総大将なる主イエスは最終的かつ永遠の 勝利を収めておいでになる。この総大将なる主イエスに連なる私たちは「窮みなき神の愛」に生きる僕 たちとされているのです。  そして、主は続けて、こうも仰せになります。「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべ ての人をわたしのところに引きよせるであろう」と。これはまことに慰めに満ちた御言葉です。主イエ スが「地から上げられる」とは、十字架の死と葬り、そして復活と昇天の出来事をあらわしています。 つまり、私たちの救いと生命のために、主がなして下さった御業の全体が語られています。主が救いの 御業を終えて、天の父なる神のみもとに帰られるとき、そこに驚くべき救いの御業が、世界の隅々にま で現われると宣言して下さったのです。それは「すべての人をわたしのところに引きよせる」という祝 福の宣言です。これは、主が父なる神のみもとから聖霊をお遣わしになって、この世界のいたる所にご 自身の復活の御身体なる“教会”をお建てになるということです。  昨日でしたか、イスラエルのエルサレムにある聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulcher)のことがニ ュースで報じられていました。おや?と思って見ていました。私がそこで改めて驚き、心を惹かれたの は、この「聖墳墓教会」は正式名称をギリシヤ語で「エクレシア・アナスタシス」(Ecclesia Anastasys) と言うのです。訳せば「復活の教会」という意味になります。私は30年前にそこを訪ねたことがあり ます。主イエスが葬られたと伝えられている古い墓穴に5人ずつ入れるのです。長い行列に並んで、私 は4人のドイツ人の女性たちと一緒に中に入りました。感動したのは、そこには真鍮のプレートがあり まして、そこにギリシヤ語でルカ伝24章5節6節の御言葉が記してありました。「あなたがたは、なぜ 生きた方を死人の中に訪ねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。私は 4人のドイツ人のためにその言葉をドイツ語に翻訳して伝えました。そうです、なぜ私たちは「生きた 方を死人の中に」すなわちこの墓の中に、訪ねようとしていたのでしょう?。行列を作ってまで入った ことに何の意味があったのでしょう?。本当にそう思いました。それで改めて、この教会の正式名称が 「復活の教会」であることに思い至ったのです。  主イエス・キリストの救いの御業は、2000年の昔に行なわれた過去の出来事ではなく、今も、これか らも、そして永遠に続くところの、教会における聖霊の御業なのです。死人の中から復活され、聖霊に おいて現臨しておられるキリストによって、私たち一人びとりが、生きておられる復活の勝利の主、イ エス・キリストの救いの御業に預かる者とされているのです。ですから今朝の32節にある「すべての 人」とは、主イエス・キリストを信じ告白して、教会に連なる「全ての人」という意味です。ヨハネ伝 3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひ とりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。  主イエス・キリストにおいて世に現された「窮みなき神の愛」をあらわすために、使徒パウロは「ア ガペー」(Agape)という特別なギリシヤ語を用いました。有名なギリシヤ語新約聖書辞典を編纂したキ ッテルというドイツの学者も語っているのですが、この「アガペー」というギリシヤ語は本当に素晴ら しい言葉です。それまでのギリシヤ語では「愛」という言葉はエロースやフィリアが用いられていまし た。しかしそれは、私たち人間が「愛するに値するものを愛する愛」です。私たちは主なる神の前にそ ういう存在でしょうか?。とてもそうだとは言えないのです。主なる神の御前に、私たちは「愛するに 値する存在」であるどころか、逆に「審かれるべき罪人」であります。それならば、まさにその「審か れるべき罪人」なる私たちを、神は窮みまでも愛して下さったのです。それが「アガペー」の愛です。  それはなぜか?。主イエス・キリストが、私たちの為に「神の正しき審き」を十字架において身代わ りになって引き受けて下さったからです。つまり、神の愛は、アガペーは、十字架の出来事に裏付けら れた「窮みなき神の愛」なのです。そのことを、福音の音信として、今朝の御言葉は私たちに語り告げ ているのです。祈りましょう。