説    教    詩篇71篇1〜3節   ガラテヤ書1章3〜5節

「主の贖いによりて」

2017・11・26(説教17481724)  使徒パウロはガラテヤの地方に心血を傾けて伝道し、その結果、ガラテヤに十幾つかの「家の教会」 が誕生しました。その十幾つかの「家の教会」を総称して「ガラテヤ教会」と呼ぶのです。そこでパ ウロは、その愛するガラテヤ教会の信徒一人びとりに対して、いつも変わらぬ主にある祈りを献げ続 けていました。それはガラテヤ教会に連なる全ての人たちが、最初に受けたキリストの恵みから決し て離れることのない群れへと成長することです。この祈りをパウロに抱かしめたのは、ガラテヤ教会 の中に、キリストの福音から離れてゆく悲しい現実があったからでした。  事実、今朝の御言葉のすぐ後の6節を見ますと、パウロはそこに「あなたがたがこんなにも早く、 あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、 わたしには不思議でならない」と語っています。「違った福音」という言葉がここに出てきますが、こ れこそパウロがこのガラテヤ書を通して戦いを挑んだ相手の正体でした。福音とは似て非なるもの、 福音の装いをしつつも中身は福音ではないもの、人を救わずしてかえって滅ぼすもの、そのような「違 った福音」がガラテヤ教会を席巻しようとしていた。この事実をパウロは決して見過ごしにはできま せんでした。  そこでパウロは、愛するガラテヤ教会の人々に対して、最初に受けたキリストの恵みの喜びに立ち 帰るようにと祈りを熱くして勧め、教え、時に厳しく叱咤激励しているのです。それは、キリストが 私たちのために何をなして下さったかを改めて知ることです。私たちが「違った福音」に落ちてゆく のは、私たちのためになされたキリストの救いの御業を忘れることに起因しているからです。それを 改めて思い起こすことこそ、ガラテヤの人々に、また、私たち一人びとりに主が求めておられること です。何よりもパウロは、今朝の1章4節以下でこのように語っています。「キリストは、わたした ちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの 罪のためにささげられたのである。栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン」。  短い御言葉ですけれども、実はこれは、ガラテヤ書の全体を要約している大切な御言葉です。これ は初代教会の讃美歌の歌詞であったという説もあるのです。初代教会における信仰告白文であると考 えられています。それをパウロは改めて「思い起こしなさい」とここに繰り返しているのです。かつ てドイツのハルナックという神学者が「最初の3世紀におけるキリスト教伝道の歴史」という本を書 きました。ハルナックはその中で、ガラテヤ書の位置についてこう語っています。「もしガラテヤ書が パウロによって書かれなかったなら、おそらくキリスト教は西暦100年ごろまでには消滅していたで あろう」。これは驚くべき発言です。パウロが「異なる福音」に対して、このガラテヤ書で果敢な戦い を挑んだからこそ、キリスト教は(つまり真の教会は)消滅することなく、全世界へと真の救いの喜 びを伝える主の器となりえたというのです。教会が真実に「キリストの教会」であり続けるとは、ど ういうことか、それこそガラテヤ書の大きな主題なのです。  そこでまず、ここでパウロが明らかにしている最も大切なことは、キリストが私たちの罪のための 「贖い」として「ご自身を…ささげられた」という音信にほかなりません。すなわち4節に「キリス トは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身 をわたしたちの罪のためにささげられたのである」とあることです。これこそ教会をして教会たらし め、全世界を救う福音の本質なのです。この「ささげられた」という言葉は「与えられた」という意 味です。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった」とヨハネ伝3章16節に あるように、主なる神はその最愛の御子キリストを、つまりご自身の全てを、私たちの救いのために 献げ尽くして下さった。その父なる神の限りない愛をご自身の御心となさって、主イエスは私たちの ために十字架への道を歩んで下さった。それがこの「ささげられた」という御言葉の意味であります。  だから4節の最初には「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い…」とあります。私たち はその逆なのです。私たちは、神に叛くことしかしていないのです。しかも、そのような自分が豊か であり、安心であり、満ち足りていると、錯覚している愚かな存在なのです。人生の根本となる最も 大切な、真の神との関係を疎かにして、自分の満足だけを求めているのが私たちの姿です。光の全く 届かない深海に住む魚の眼が退化してゆくのと同じように、私たちは自分が神から離れた惨めな存在 であることさえ見えなくなっているのです。自分の罪にさえ気がつかないのです。そのような私たち のためにキリストは、十字架という最も苦い杯を父なる神の御手から受けて下さいました。キリスト は十字架に至る全き従順の歩みによって、自分の栄光だけを求める私たちの、不従順そのものの罪を 贖って(覆って)下さった救い主なのです。  だから「今の悪の世」とある御言葉も、私たちは自分の罪と切り離して読むことはできないのです。 自分の周囲を見回して「そうだ、今のこの世には悪が満ちているのだ」と、自分を正義の側に置くこ とはできないのです。そうではなく、まさに「悪」の支配に屈するほかはない私たちの罪を、キリス トはご自身の十字架の死によって完全に贖い、ご自身の恵みの御支配のもとに、平安と喜びをもって 心を高く上げて生きる者(キリスト者)として下さったのです。いま、主の御身体なる教会において、 私たち一人びとりがあるがままに、キリストの満ち溢れる救いの恵み(永遠の生命)にあずかる者と されている。その喜びの生命のもとに、主はご自身の教会によって全ての人を招いておいでになる。 だからこそパウロは語らずにおれませんでした。あなたがたが最初に受けたその恵みのもとに、キリ ストの福音に、堅くとどまる者となりなさいと…。  ここには、私たちの思いを遥かに超えた大切な音信が告げられています。それは、キリストはすで に私たちのために「ご自身を…ささげられた」という福音の音信です。神の大いなる救いの御業が、 私たちの罪の現実に先立っているのです。キリストの恵みの御手が届かない人間の現実はありえない のです。そのことを知るゆえにこそ、パウロは6節に「不思議でならない」と語っているのです。す でに救いを全うして下さったキリストの御手から、どうして離れるなどということが起りうるのか?。 それはありえないことだとパウロは言うのです。その「ありえないこと」を私たちがしているとすれ ば、それは、主にして贖い主なるキリストが見えていないからです。キリストをせいぜい、人生の同 伴者、間違った生きかたをを修正してくれる教師、倫理道徳の模範としてしか見ていないからです。 御言葉によって自分が砕かれるのではなく、御言葉を自分の都合の良い召使にしてしまっているので す。  そのとき教会もまた、せいぜい“宗教的社交クラブ”以上の存在ではなくなります。キリストの生 命に生かされる喜びは、人間的な自己満足に摩り替えられ、古きおのれに死んでキリストの生命に甦 らされる出来事は、人生の上に“プラスα”を積み上げようとする虚栄心に摩り替えられ、全ての人 の救いの出来事そのものである礼拝は、ヒューマニズムの延長としての“キリスト教講話を聴く会” に摩り替えられてしまいます。ガラテヤの諸教会にはそのような危険が満ちていました。それは古く て新しい、私たち自身の問題でもあります。私たちも「違った福音」に落ちてゆく危険があるのです。  ここに記されていることは、パウロひとりの独自な思想や神学などではありません。これは「教会 の信仰」です。神の恵みの歴史の中に立つ、教会の信仰の告白です。誰もが、ここに生きる以外に救 いはありません。ところが、ガラテヤの人々は、この恵みの内にとどまろうとせず、外に落ちてゆこ うとしている。だからこそ、そこにパウロの激しい祈りの戦いがありました。何よりも、キリストの 恵みに生かしめられ救われた喜びを、パウロ自身が証しています。私たちの教会も、この恵みが生か しています。私たちもまた、この恵みの内にとどまり続けるために祈ります。そのために、主の戦い に参加する群れとなります。そこに、私たちの生命そのものがあるからです。全ての人々に宣べ伝え るべき、人間の、また世界の、そして歴史の、本当の救いが、十字架のキリストにこそあるからです。  終わりに、私たちは、改めて「私たちの父なる神の御旨に従い」と4節にあることに心を注ぎまし ょう。これは当然のごとく語られる言葉ではありません。罪の塊のような私たちが、どうして「私た ちの父なる神」と、真の神を呼びうるでしょうか。それは、私たちの底知れぬ不従順を、キリストの 全き従順が、覆い尽くして下さったからです。譬えて言うなら、罪という名の棘だらけの私たちの身 体を、キリストがそのあるがままに、かき抱くようにして覆って下さったからです。その結果、主は ぼろぼろに傷つき、肉を裂かれ、血を流したもうて、私たちの贖いとなって下さったのです。それが あの十字架の出来事です。私たちの罪という名のどん底の、遥かどん底に、主はみずから降りたもう たのです。そこで、私たちの全存在を受け止め、生命を与えて下さるために。  それこそが、「わたしたちの父なる神の御旨」そのものであると、パウロは言うのです。ご自分を十 字架に献げてまでも、私たちを「今の悪の世から」(つまり罪と死の支配から)救って下さったのです。 神の御旨ならば、それ以上に確かなものはないのです。私たちは自分の清さのゆえに、正しさのゆえ に、主なる神を「わたしたちの父なる神」と呼ぶのではない。そのようなものは無に等しい。ただ私 たちのために十字架におかかり下さったキリストの義のゆえに、測り知ることのできないキリストの 愛のゆえに、私たちはまことの神を「わたしたちの父なる神」と呼ぶ者とされているのです。それ以 外の御名で神を呼ぶことはできないのです。キリストの御業の中に、まことの神のお姿が、余すとこ ろなく現われているからです。  そこに、私たちの救いの確かさがあります。この世界に確かなものが何ひとつなくても、キリスト における神の愛、私たちのために主がなして下さった救いの御業、そこに永遠の確かさがあるのです。 私たち一人びとり、いま主の教会により、その限りない救いの確かさの内に立つ者とされているので す。だからこそ、パウロは祝福を祈らずにおれませんでした。3節「わたしたちの父なる神と主イエ ス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」。そして、今朝の御言葉の5節の頌 栄が続くのです。「栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン」。祈りましょう。