説    教  出エジプト記3章13〜14節  ヨハネ福音書17章24〜26節

「御名を知る者として」

2017・11・19(説教17471723)  今日の御言葉であるヨハネ伝17章25節と26節は、まことに印象的な主イエスの御言葉であり祈り です。すなわち主イエスは私たちのために、このように祈られたのです。「正しい父よ、この世はあなた を知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになっ たことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。 それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおる ためであります」。  ここでまず私たちが注目したいのは、最初に主イエスが「正しい父よ」と呼びかけておられることで す。これは元々のギリシヤ語では“パテル・ディカイエ”という一つの言葉です。直訳すると「義なる 父よ」という呼びかけです。私たちは祈るとき、まず神に対してどのように呼びかけるでしょうか。今 から150年ほど前、キリスト教が宣教師たちによってわが国に伝えられた頃「祈祷」や「祈り」という 言葉はまだ定着しておらず、祈りは「神を呼ぶこと」と言い表されました。旧約聖書の出エジプト記で、 アブラハムがハランを出て、着いた最初の地において「主の名を呼んだ」とあるのは礼拝のことです。 「祈り」と「礼拝」は切り離すことができない大切な事柄です。  つまり、私たちの教会は、その最初の時から「祈り」とは「礼拝」であると理解していたのです。そ の根源はどこにあるかと申しますと、それはまさしく今朝の主イエスの御言葉にあるのです。主イエス みずから「正しい父よ」すなわち「義なる父よ」と、父なる神の御名を呼んでおられることです。つま り「祈り」とはすなわち「神の御名を呼ぶこと」であるということを、主イエスみずから明らかにして おられるのです。  ところが、祈りにおいてこそ主イエスの弟子であるはずの私たちが、このことをよく理解していない ことが多いのではないか。私たちは「祈り」と言う場合、それは個人的なものだと思ってはいないでし ょうか。もちろん個人的な祈りというものもあります。家庭において、密室で、ひとり祈る祈りの生活 というものがあります。それも大切なことです。しかしそれゆえにこそ、私たちの祈りはいつも礼拝を 中心としたものになっているかどうかが問われています。言い換えるならそれは、私たちの祈りがいつ も「神の御名を呼ぶ」祈りの生活になっているかどうかということです。  そこで、主イエスが祈られた今朝の「正しい父よ」すなわち「義なる父よ」という25節の御言葉の 意味は「私を生かしめる救い(私を支える義)は、ただ父なる神にのみある」という信仰告白なのです。 つまり「正しい父よ」とは「私たちは正しくない汚れた者だけれども、父なる神のみはいつも正しくお られる」という意味ではないのです。人間と神との正しさの比較ではないのです。そうではなく、「私た ちを真に人間として健やかに生かしめ、存在の深みから支える義は、ただ父なる神にのみあるのだ」と いうことなのです。比較ではなく、私たちの救いはいつもただ父なる神にのみある、という絶対の神信 頼の祈りなのです。これを、主イエスご自身が私たちのために祈られたのです。  それは、なぜなのでしょうか?。そもそも主イエスは永遠の昔から、父なる神の真の独子です。その 主イエスがなぜ、ここで敢えて「正しい父よ」と祈っておられるのでしょうか?。その答えは25節の すぐ後の御言葉にあります。それは「この世はあなたを知っていません」と主がおっしゃっておられる ことです。この「この世」とはまさしく私たちのことです。私たちは父なる神を知らないでいた存在な のです。言い換えるなら、私たちは「神の御名を呼ぶ」ことを知らないでいた存在なのです。またさら に言うなら“神の御名”そのものを知らなかった者たちなのです。そのような“神の御名を知らないで いた”私たちのために、主イエスはみずから「正しい父よ」と祈って下さったのです。人間を真に人間 として健やかに生かしめ、真の自由と平安を与え、日々を神の愛の内に、祝福に支えられつつ、雄々し く生きる者として、主イエスは私たちをまさに、御自身の執成しの祈りの中でこそ新たにして下さった のです。神の御名を知ることなしに生きていた私たちを、神の御名を知る者として甦らせて下さったの です。  私たちにとって“神の御名を知る”とはどういうことなのか。この最も大切なことを私たちは、今朝 の御言葉から明確に知ることができるのです。それは主イエスが今朝の26節にこのように祈っておら れることです。「そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、 あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであ ります」。ここではっきりと示されていることは、私たちはただ神の御子イエス・キリストによってのみ、 正しく“神の御名を知る”者とされるということです。主イエスは言われました。「わたしは道であり、 真理であり、命である」と。この「道」も「真理」も「命」も全て単数形です。つまり、主イエスは信 ずる全ての者に、かけがえのない唯一の「道」と「真理」と「生命」をお与えになる救い主なのです。 だからこの単数形は文法上の事柄ではなく“ただあなたのために”という、私たちの救いにかかわる福 音の単数形です。主イエスにとってどうでもよい人間は一人も存在しないということです。私たち一人 びとりがかけがえのない唯一の存在、神の限りなく愛したもう唯一絶対の人格なのです。  顧みて、この世界における人間の根本的な矛盾や悲惨は、私たち人間が、絶対的なものを絶対的なも のとせず、かえって相対的なものを絶対化してしまうところに原因があるのではないでしょうか。言い 換えるなら、人間の存在という絶対的な価値あるものを相対的なものにしてしまう。かけがえのないも のを相対化してしまう。逆に、相対化して扱うべき事柄を絶対的なものとして扱う、そのような本末顛 倒した価値観が、現代の社会を蝕み、人間の魂を損なっているのではないでしょうか。それは、人間が ただ手段としてのみ重んじられ、存在のゆえに重んじられることのない、歪んだ社会を生み出すのです。 人間が点数や機能や業績によって尊ばれ、点数や機能や業績の無い者は排除される社会です。私たちは そのような社会を造ってしまっているのではないでしょうか。そして、その根本原因はどこにあるかと 申しますと、いちばん基本的なところ、つまり造り主なる父なる神との関係において、人間が“かけが えのない人格”として確立していない点にあるのです。私はよくやるのですが、ワイシャツのボタンを 最初にかけ間違えると、最後までおかしくなってしまう。それと同じで、まず神との正しい関係が確立 されていなければ、その後をどんなに取り繕っても無意味なのです。人間が人間として、その存在のゆ えに価値ありとされる社会は、「祈り」と「礼拝」においてこそ確立されるのです。  聖書において「名を知る」とは、その名をもって呼ばれる存在そのものを知ることです。だから「神 の御名を知る」とは、私たちがまことの神ご自身を知ることです。この「知る」とは「信仰」を意味し ます。それゆえに神を知るとは、同時に、神の愛の内にある自分を新しく見いだすことです。私たちが 捕らわれていたあらゆる常識や偏見を拭い去り、自分自身をも、また他の人々をも、神が限りなく愛し ておられる“かけがえのない人格”として新たに見いだすことです。だから「神の御名を知る」ことは、 実は根源的な意味において、あらゆる健全な人間理解の基礎なのです。また逆に言うなら、神の御名を 知らないところでは、人間をして人間たらしめる、いかなる健全な人間理解も生じえないのです。  だからこそ、主イエスは言われました。主はまさに私たち全ての者のためにこそ、この祈りを、十字 架を目前にして献げきって下さったのです。それが26節です。「そしてわたしは彼らに御名を知らせま した。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうち にあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。主イエスは、いかにしても神を知りえない私 たちに、真の神の御言葉を伝えるために世に来て下さった救い主です。主イエスは神の御子であられる のです。主イエスを見た者は父なる神を見たのです。主イエスを信ずる者は父なる神を知るのです。で すから“神の御名を知る”とは「主イエス・キリストの父なる神」として神を知ることです。その神と は、私たちを限りなく愛し、私たちを罪から救うために、ご自分の全てを献げ尽くして下さったかた、 十字架におかかりになって、私たちの罪のための贖いとなって下さったかた、イエス・キリストを通し て、私たちははじめて、真の神がいかなるかたであるかを知り、信じる者とされるのです。そこに、私 たちの新しい生命が始まってゆくのです。  主イエスは、父なる神の御名を知らせる御自分の御業について「またこれからも知らせましょう」と 語りたまいました。このことは、この御業が今もなお続いていることを意味します。この世界には「神」 と名の付くものは無数にありますが、私たちを極みまでも愛し、私たちのためにその独り子を賜い、十 字架にかかって下さった真の神は唯一イエス・キリストの父なる真の神あるのみです。そしていまこの 礼拝を通して、御言葉と聖霊によって、主イエス・キリストは私たちのただ中に現臨しておいでになり、 尊い救いの御業を私たちに現しておられるのです。ほかならぬ私たちの内にいま、主の御業が現れてい るのです。  最後に、今朝の御言葉の26節の終わりに、主イエスは「それは、あなたがわたしを愛して下さった その愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」と祈られました。実に、 永遠の昔から父・御子・御霊なる三位一体なる真の神の内にあった永遠にして完全なる愛の交わりの内 に私たちを迎え入れて下さるために、主イエスは世に来られ、十字架におかかり下さったのです。そし て、そのための確固たる保障として、またご自分の救いの御業を現す器として、主はこの教会をお建て になりました。私たちは主の教会に連なり、礼拝者として御言葉を聴きつつ生きることによって、何の 価もなきまま、無条件で、あるがままに、三位一体なる永遠の神の愛の交わりの内を歩む者とされてい るのです。それが聖書が全ての人に告げている祝福の生命です。私たちに対するキリストの祝福とは、 キリストがご自分の生命を献げて、私たちを永遠の神の愛の内を歩む者にして下さったことです。  だからこそ、主ははっきりと言われました。祈りきって下さいました。「それは、あなたがわたしを愛 して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」と!。私た ちの内にキリストが共にいて下さるのです。「二人または三人が、わたしの名によって集うところに、わ たしも共にいるのである」と主は言われました。そこでも大切なことは「わたしの名によって」という 宣言です。私たちの贖い主なるまことの神の御名を知ることです。御名を呼ぶことです。礼拝者として 生き続けることです。主の教会に連なる者となることです。そのとき、私たちは既に永遠なる神の愛の 内を生きる者とされています。キリストに贖われた者として、心を高く上げて生きはじめている。キリ ストが共におられ、私たちの救いとなられ、義と聖と贖いとになられた、新しい復活の生命を生きる者 とされている。そこに私たちの限りない喜びと感謝、希望と幸いがあり、本当の自由と祝福があるので す。祈りましょう。