説    教   詩篇130篇7〜8節   エペソ書4章17〜24節

「神の生命を受けよ」

2017・11・05(説教17451721)  私たちは誰でも、厳しい言葉を聞くのは嫌なものです。昔から「良薬口に苦し」と申しますが、「苦 い」と知りつつ口にすることは、やはり愉快なことではありません。たとえそれが聖書の言葉(神の 御言葉)であっても、厳しい言葉は聞きたくないというのが、私たち人間の本音ではないでしょうか。 まさにそのような私たちに、今朝の聖書の御言葉は、まことに厳しい言葉を告げています。まさに「厳 しく」しか語りえず、また聴くことができない、私たち人間のあるがままの罪の姿を、今朝の御言葉 は示すのです。すなわち、エペソ書4章17節以下の御言葉です。  「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩い ているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神の いのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆ だねている」。  本当にこれは私たちの姿なのでしょうか?。これを聴いて、私たちのうちの少なからぬ人はこう思 うかもしれません。「これは私のことではない、ここに書かれていることは私とは無関係である」と…。 本当にそうなのでしょうか?。本当に私たちは、ここに記されている罪の姿と無関係な存在なのでし ょうか?。私たちの聖書の読みかたのひとつの危険は、いつも自分を棚の上に上げて、御言葉を高み から見下ろすことです。向こう岸の火事のように、御言葉を見物するものになってしまうことです。 私たちは「エペソ人への手紙」は「エペソ人」のものだと、どこかで割り切っているのです。「主よ、 私は少なくとも、これほど酷い人間ではありません」と、言い訳をしつつ読んでいるのです。この19 節に「自ら無感覚になって」とありますが、これは原文を直訳するなら「自分の存在を自分に委ねる」 という意味です。自分の存在を自分に委ねて生きる…。それこそ私たちがごく普通に、日常にしてい ることではないでしょうか。「無感覚になって」とは、そうした自己中心主義が「当然のこと」になっ ているという意味です。  福音によって新たにされた喜びに生きるのではなく、いつも旧態然たる自分を宥めつつ生きている。 キリストが主なのではなく、自分がいつも「主」になっている。そこに使徒パウロは、エペソの人々 の、否、今日の私たちの罪の姿を見ているのです。だから、厳しい言葉を語らざるをえなかったので す。ですから18節に「無知」とあることも、ただ「知識がない」という意味ではなく「キリストの 恵みを知らずに生きている」という意味です。さらに言うなら「キリストの御招きを拒みつつ生きて いる」ということです。そこから「心の硬化」つまり「魂の動脈硬化」が起こるというのです。ここ では文字どおり「心が石になる」という意味のギリシヤ語が用いられています。マルコ伝3章5節に、 安息日に手の不自由な人を癒された主イエスの行為を避難したパリサイ人らに対して、主イエスが 「(彼らの)心のかたくななのを嘆かれた」と記されています。それと同じ「かたくな」という言葉が ここに用いられているのです。  宗教改革者カルヴァンは、そのような「かたくなな心」を“キリスト教綱要”の中で「いのちの虚 像」と呼びました。いっけん生命があるように見える。しかしそれは形だけのことで、神の愛と恵み に答えるべき心は、魂は、石のように硬直化して生命を失ってしまっている。つまり「虚像になって いる」と言うのです。だからパウロはすぐそのあとで「神のいのちから遠く離れ…」と語っています。 この御言葉が今朝の大切な要点です。  私たち人間の混乱した姿は(悲惨さは)どこに由来しているのか?。どうして私たちの生命は「硬 直化」し「虚像」になってしまっているのか?。それは私たちが「神のいのちから遠く離れ」ている ことによるのだと、パウロは明らかにしているのです。その結果、私たちは自分の人生を、キリスト の愛と恵みの上にではなく、自分の上に立ててしまっている。肉なる、罪の塊のような自分が、自分 の存在の根拠になってしまっている。本来それは堅固な建物の土台となりえない「砂地」ですから、 風が吹き濁流が押し寄せれば、倒れてしまうほかはないものです。そのことが今朝の19節に「放縦 に身を委ねている」という厳しい言葉で現わされているのです。「人生の土台を失っている」という意 味なのです。  ある女性が学生時代の親しい友人数名と温泉旅行に出かけて、とても楽しい時を過ごしていました。 ところが夜この女性に、自宅が火事で全焼してしまったという電話がかかってきました。その電話を 受けた途端、もう彼女は青ざめて心状態になってしまったのです。その出来事に喩えて申しますなら、 私たちの「人生」という名の旅は「帰るべき家」があってこその「旅」なのであって、もしその「帰 るべき家」を失えば、それはもはや「旅」ではなく「放浪」になってしまうのです。  ちょうど、私たちはそれと同じ状態になっているのではないでしょうか。今朝の御言葉の「放縦」 という厳しい言葉は、実はそこから来ています。「勝手気まま」という意味ではなく「魂の故郷を失っ ている」という意味なのです。人生の放浪者になってしまっているという意味なのです。私たち人間 は、生ける真の神との交わりを失ったままでは、つまり「神のいのちから遠く離れ」たままでは、決 して自由と幸いをえることはできないのです。たとえ全世界をわがものとしようとも「神のいのちか ら遠く離れ」ていては全て虚しいのです。  まさにそれは、当時のエペソの街が抱えていた問題そのものでした。エペソは当時の地中海世界で 最高の文化都市でした。しかしそこに住む人々の魂は飢えたままであったのです。今日の私たちの社 会も同じ状況なのではないでしょうか。ことわざに「衣食足りて礼節を知る」と言いますが、現代の 問題は「衣食足りて神を見失う」ことにあるのです。だからこそ今朝の御言葉には「(あなたがたは) 異邦人が空しい心で歩いているように歩いてはならない」と勧められています。教会から離れた生活 をしてはならないと言われているのです。キリストがご自身の生命をもって贖い取って下さった私た ちなのだから、あなたはその恵みに根ざして健やかに歩む者になりなさい。否、もう既にそのような 者とされているではないか。まさにその、いま私たちを生かしめている豊かな祝福(神のいのち)を、 今朝の御言葉は告げているのです。もはや私たちは「空しい心」で歩まなくて良いのだ。帰るべき故 郷を失ったままではないのだ。だからこそ、それを知らない者(異邦人)のように歩んではならない のです。  ある大学の卒業式の式辞に、その大学の学長が「今日の政治の乱れは“誇りの欠如”によるものだ。 だから諸君は、この大学の卒業生という誇りを忘れないで欲しい」と語っているのを新聞で読みまし た。私はそれを読んで、少し違うと思いました。まさにそのような人間の誇りこそ、政治の混乱を作 っているのではないか。かつて、キリスト者であった矢内原忠雄という政治学者は、卒業式に際して いつも「誇る者は主を誇れ」というパウロの言葉を引用して、社会の木鐸たれと戒めていたそうです。  何よりもパウロが語っています。20節です「しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだの ではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのま ま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人 を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人 を着るべきである」。  パウロもまた、かつてはパリサイ人として、誰よりも強いこの世の「誇り」に生きていた人でした。 ピリピ書の3章に詳しく記されています。しかし、パウロはその中でこう語るのです。「しかし、わ たしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に 進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っ ている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。 それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを知る信仰に よる義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる ためである」。  ここにパウロは「キリストのうちに自分を見いだす」と語っています。これこそ、キリストにあっ て(結ばれて)新しき人を着ることです。今朝の21節に「イエスにある真理をそのまま学んだ」と あることは、実はこの「キリストを着る」ことをさしているのです。キリストが私たちのためになし て下さった救いの御業を、あるがままに受けることです。信ずることです。教会に連なり、礼拝者と して歩み、主の教会に仕える僕となることです。  パウロは福音の光に照らされて、はじめて自分が「罪人のかしら」であることを知りました。滅ぶ べきは実に、異邦人ではなく、この私である。その「生まれながらの滅びの子」であった私を救って 下さるために、神の子キリストは世に来られ、十字架におかかりになり、身代わりとなって下さった。 御自分の生命の全てを献げて、私たちの罪の赦しと贖いとなり、義と生命となって下さった。  この神の御子の絶大な恵みを知るパウロは、全ての人々に語らざるをえないのです。まことに、こ の主キリストが、あなたを罪から救うために、十字架にかかって下さった。この主に教会によって結 ばれて生きるとき、私たちはもはや「神のいのちから遠く離れ」た者ではありえない。「神のいのち」 を受ける者とされているのです。否、神の生命そのものであられる主イエス・キリストが、私たちの 救い主であられるのです。  それならば「心の深みまでも新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新し き人を着るべき」とは、この「神の生命」を受けた私たちへの祝福です。あなたはいま「新しき人」 すなわちキリストを「着る」ために招かれている。神の生命を受ける者とされている。キリストがあ なたを覆ってい下さる。キリストが私たちの全生涯を、堅く御手の内に守って下さる。死ぬべき者が、 死なないものを着るのです。死はキリストの生命に呑まれてしまったのです。キリストが私たちのた めに、永遠かつ完全に死に勝利して下さったのです。  まさにその、キリストの勝利の御手に守られ、支えられつつ、私たちは永遠の故郷である主のみも とに召されるその日まで、主に結ばれた旅人として、主の祝福の内を歩み続けてゆきます。そして、 やがて主の救いの御業が全世界に完成するその日、私たちは主の生命、主の義をまとって、復活の新 しい身体をもって、神の御前に立つ者とならせて戴けるのです。いま、この礼拝者としての歩みの中 に、私たちは既に神の生命を受けた僕たちとして、ここに連なっていることを憶えましょう。そして、 ますます主の御恵みに応える生活を造って参りたいと思います。祈りましょう。