説    教     創世記45章7〜10節   ローマ書16章16節

「祝福の挨拶」

2017・10・29(説教17441720)  イギリスの作曲家エルガーの作品に「愛の挨拶」という名曲があります。エルガーはこの曲を、世界 中の人たちが互いに心から、愛による挨拶を交し合う願いをもって作曲されたと伝えられています。し かし現実を見ますとき、私たちの人間社会は、そのような「愛の挨拶」から程遠い現実にあるのではな いでしょうか。  旧約聖書の創世記は37章から終わりの50章にかけて、「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なドラマを展 開しています。このドラマの主人公ヨセフは、イスラエルの族長ヤコブの末子として生まれ、父ヤコブ の寵愛を一身に受けて育ちます。そのため兄たちの激しい嫉妬と反感を買いまして、ある日、父ヤコブ の目の届かぬ荒野で、イシマエル人の隊商に奴隷として売り飛ばされてしまうのです。  同じ血を分けた兄弟が兄弟を(弟を)奴隷に売る。それは凄まじい憎悪の現れであり人間関係の究極 の破綻でした。「愛の挨拶」どころか、憎しみによる「呪い」が兄弟の間さえも支配してしまうところに、 私たち人間の本当の罪の姿があるのではないでしょうか。しかも父ヤコブには「ヨセフは野の獣に噛み 殺されました」と犯罪の隠蔽工作をするのです。このあたり実に鬼気迫る場面でして、聖書は「これで もか」というほど、私たち人間の絶望的な罪のさまを示しているわけです。  さて、イシマエル人に売られたヨセフはどうなったかと申しますと、過酷な運命に翻弄されるように エジプトに連れ去られ、そこで王(ファラオ)の側近で侍従長であったポテパルなる人物の奴隷になり ます。土地転がしならぬ人間転がしが起るわけです。そして極めつけは、ポテパルの妻の讒言によって ヨセフは無実の罪を着せられ、牢獄に繋がれる身となってしまうのです。古代エジプトの牢獄は生きて 出られる望みのない場所でした。常識的に考えるなら、ここで「ヨセフ物語」は終わりのはずなのです。 ヨセフは短い生涯をエジプトの牢獄で終えて、万事は闇に葬られる結末を迎えたはずでした。  しかし、主なる神は、ヨセフの新しい生涯を、まさにその人間の罪の結果である牢獄の闇の中でこそ 始めたもうのです。バルトが語っているように「人間のピリオド(終わり)は神のコンマ(始まり)」な のです。大きな苦しみと試練の中で、神への揺るがぬ信仰に立ち、謙遜と勇気を養われたヨセフは、自 分の人生というものが、神が求めたもう平和の回復の使者として召されたものであることを知るように なります。数奇な出来事を経て牢獄から出たヨセフは、信仰による高潔な人格と知恵を認められ、エジ プトの王(ファラオ)の信頼をえて、今日でいう財務大臣の地位にまで引き立てられます。そしてヨセ フが財務大臣になるや否や、腐敗堕落していたエジプトの政治は見違えるように立ち直り、人々はみな ヨセフの徳のゆえに神を讃美したと記されているのです。  さて、そのころ、祖国イスラエルがひどい飢饉に見舞われたという知らせがヨセフの耳に届きます。 かつて自分をイシマエル人の奴隷として売った兄たちが、弟ヨセフが財務大臣だとは知らずに、エジプ トに食糧援助を求めてやってきた。その間の色々なやりとりがあるのですが、結論から申しますと、ヨ セフはそこで兄たちと劇的な和解を果たすのです。「わたしはヨセフです、父上はまだ達者ですか」と告 げるのです。驚き恐れる兄たちにヨセフはこう言います。「恐れるには及びません。私をここに遣わした のは、あなたがたではなく、主なる神です。神はイスラエルを救われるために、まず私を和解の使者と して、不思議な摂理の御手をもって、このエジプトへとお遣わしになったのです」。  そこには、分裂した神の家が、神の摂理の御手のもと、再び一つとされた喜びが告げられています。 このように、罪によって分裂した世界の、神の家としての回復と平和こそ「ヨセフ物語」の主題なので す。このことをドイツの作家トーマス・マン、北ドイツの改革派教会の敬虔な家庭に育った人ですが、 マンは「ヨセフとその兄弟」という小説において「ヨセフ物語」がまさに“荒廃した世界の回復と再生” の告知であること、つまり“復活の福音”であることを描いています。マンによれば「ヨセフ物語の主 人公は、十字架の主イエス・キリスト」なのです。十字架の主による罪の贖いに生きる民、主の教会の みが、この荒廃と混乱の極みにある世界の再生と救いの福音を語りうるからです。言い換えるなら、た だ十字架の主のもとでのみ「平安の挨拶」が回復されてゆくのです。  もともと「ヨセフ物語」は、私たち人間が兄弟に対してさえ「平安の挨拶」を持ちえなくなったとい う罪の事実に始まります。すなわち、今朝拝読した創世記37章4節に「兄弟たちは父がどの兄弟より も彼(ヨセフ)を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに語ることができなかった」とあることです。「穏 やかに語りえない」とは「平安の挨拶」を持ちえなくなるということです。私たちにもそのような経験 があるのではないでしょうか。挨拶を失うことは、それ自体が隣人に対するひとつの「呪い」なのです。 そこに殺意さえも醸されるのです。ですから「穏やかに語ることができなかった」とは、そういう「呪 い」が人間関係の中に入りこんできたということ、まさに「呪い」が社会全体を支配するようになった ということなのです。  何よりも、この37章4節で「穏やかに」と訳された元々のヘブライ語は「シャローム」(神の平安) です。つまり「穏やかに語りえない」とは「神の平安を語りえない」ということなのです。聖書の中で 「挨拶」という言葉が重要な意味を持っているのはそのためです。聖書において「挨拶」とは、単に人 間関係の潤滑油にとどまらず、祝福と祈りの問題なのです。人間関係のあらゆる破れや「呪い」を超え て、それにもかかわらず、否、それゆえにこそ、自分が相手のために「祈り」を献げられる存在として、 いまここに生きえているか否かという問題なのです。  主イエス・キリストはマタイ伝5章47節において「兄弟だけに挨拶をしたからとて、なんのすぐれ た事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか」と言われました。形だけ の社会儀礼としての「挨拶」なら、そこに信仰は問われません。主が私たちに求めておられる本当の「挨 拶」とは、まさに「穏やかに語りえない」あらゆる人間の罪の中で、なお相手のために神の祝福と平和 を祈ること、平安を語りうる者とされている恵みに生きることです。  聖書が告げる「挨拶」とは、まず何よりも、相手のために神の祝福と平安を祈ることです。サムエル 記上25章に、ダビデがカルメルの地方に行ったとき、そこで「カレブ人ナバル」という無法者の一族 に出遭ったことが語られています。そのときダビデは「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのも のすべてに平和がありますように」と祈りました。この「挨拶」こそ祝福の祈りです。実際にヘブライ 語で「挨拶」を意味するベラーカーという言葉は「祝福」という意味です。モーセの片腕であった「ア ロンの祝福」が民数記6章24節以下に記されていますが、それは「願わくは主があなたを祝福し、あ なたを守られるように。願わくは主が御顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わく は主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」という祈りです。  また、新約の使徒行伝7章には、初代エルサレム教会の執事・ステパノの殉教の様子が記されていま すが、そこでもステパノは、自分を迫害して死に至らしめた人々の救いのために、祝福と罪の赦しを祈 りつつ死んでゆきました。そこにこそ主イエスが言われる「兄弟だけにするのではない挨拶」がありま す。ですからこの「挨拶」は相手の罪を主の御前に「執り成すこと」です。無視して相手を呪うことと は正反対の、祝福に生きる者(キリストの贖いの恵みに生かされた者)の姿がそこにあります。それこ そが、聖書の語る「挨拶」(ベラーカー)なのです。  それだけに、そこには同時に、その「平安の挨拶」においてこそ、私たちがいかに破れた存在である かが示されています。異邦人さえしている挨拶すらなしえぬ私たちのために、主はゲツセマネで血の汗 を流して祈られ、十字架への道を歩んで下さいました。平安に生きえず、執成しをなしえない私たちの ために、主はご自身の平安を全て私たちに与えて下さいました。ヨハネ伝14章27節「わたしは平安を あなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるよう なものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」。私たちの罪を十字架において完全 に贖い、信じる全ての者を教会の枝として、聖霊の導きのもと、主の平安に生きる新しい群れとして下 さったのです。  主イエスの復活と、続くペンテコステ(聖霊降臨)において、分裂と破れの極致にあった弟子たちに、 主にある真の平安が与えられ、そこに唯一の、聖なる公同の使徒的な教会が誕生しました。その「初代 教会」の伝道の様子を見るとき、いちばん大切なことは、初代教会はその出発点から、主イエスから受 け継いだ「平安の挨拶」に生きる群れであったということです。パウロの手紙の冒頭には必ず「恵みと 平安」を祈る挨拶の言葉が記されています。たとえばローマ書1章7節には「ローマにいる、神に愛さ れ、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あ なたがたにあるように」と挨拶が送られています。教会はその歴史の最初から、主イエス・キリストの 祝福を全ての人々に語る器として「神に愛され、召された聖徒」らの群れであり続けてきたのです。  そしてローマ書の最後には有名な「挨拶のリスト」があります。16章1節から16節までです。パウ ロはそこで具体的に一人びとりの名を挙げ「よろしく伝えてほしい」と告げています。21節以下には、 16節までのリストから漏れてしまった人の名を改めてあげて、丁寧に挨拶を送っています。私たちはあ る種の不思議な思いを禁じえない。この手紙の中で、福音の真理を証しするために、ずいぶん厳しいこ とも語っているパウロです。厳しすぎると感じることさえある。そのパウロが、どうして手紙の末尾に、 長々と挨拶のリストを書き連ねているのか。  その理由は、主イエスの宣教の命令にこそ明らかなのです。主イエスは弟子たちを伝道にお遣わしに なるにあたって「安かれ、父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」 と言われました。そして「あなたがたは行って、人々に『天国は近づいた』と宣べ伝えなさい」そして 「その家に入ったら、まず平安を祈りなさい」と言われました。「神の国は近づいた」という喜びの音信 と「平安の挨拶」は一つのものなのです。神の国は私たちのもとに来ているのです。私たちは教会に結 ばれ、神の国の喜びを歴史の中で先取りしつつ、キリストの平安のもとに生かされているのです。  だからこそ、使徒パウロはここに、共に教会に仕え、福音の喜びを共有する全ての人々とともに、キ リストの平安を、その喜びの挨拶(祝福)を、喜びと確信とをもって告白しているのです。あなたの上 にも、あなたの上にも、この人にも、あの人にも、主はご自身の平安を与えて下さったではないか。私 たちはみな既に、キリストにある「平安の挨拶」を共有する僕たちとされているではないか。そのよう な群れとして、今ここに立たしめられ、世に遣わされているではないか。その喜びと幸いが、あなたの 全存在、全生活を、祝福しているではないか。  それこそ、私たち一人びとりに与えられている幸いです。いまここに私たち全ての者が、神の賜る「平 安の挨拶」に、十字架の主の恵みに生かされ、まさに主の聖徒らと共に「祝福の挨拶」を受け、これを 隣人にも告げる器とされているのです。祈りましょう。