説    教    エレミヤ書20章7節   第二テモテ書4章1〜2節

「預言者エレミヤ」

2017・10・22(説教17431719)  17世紀のオランダの画家レンブラントの作品に「エルサレムの滅亡を嘆くエレミヤ」という絵があり ます。戦火を受けて炎上するエルサレムを前に、一人の老預言者が嘆きつつ祈る姿を描いたものです。 主イエス・キリストもオリブ山からエルサレムを望まれて「ああエルサレム、エルサレム、預言者たち を殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ」と、涙を流して嘆かれたまいました。ドイ ツのキッテルという旧約学者によれば「エレミヤは旧約聖書において最もキリストの御心に近づいた人」 です。預言者エレミヤは自らの苦しみを通して十字架のキリストを指し示した人なのです。  神の義しさ、愛、聖さなどを、ストレートに確信して、命がけで語ったというよりも、圧倒的な神の 迫りの前に躊躇しながら、苦難のただ中にある人々に対して、同じように苦難の中に立つ神の僕として、 ひたすらに御言葉のみを語り続けたエレミヤ。神の御手から逃れようとしながらも、神に捕らえられて 御言葉の器とされていったエレミヤ。そのような一人の預言者の壮絶な戦いの姿(生涯)に、私たち今 日の信仰者もまた、大きな共感と敬意を覚えしめられるのです。  言い換えるなら、あのゲツセマネの園において「アバ、父よ、あなたには、できないことはありませ ん。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのま まになさってください」と祈られた主イエス・キリストの御心の深みに、エレミヤは人間として最も近 づいた人ではないかと思うのです。そのような、十字架の主の御心の深みを垣間見た預言者の真実を、 今朝のエレミヤ書20章7節から聴き取ることができるのではないでしょうか。  今朝の20章7節にこうございました。「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに 従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです」。これは、むしろ非常に 穏健な訳です。ケンブリッジ・バイブル・コメンタリーのニコルソンの訳を見ますと「ああ、主よ、な んじわれを騙せり。われは汝に騙されやすき者なり。汝はわれを陥れたれば、われに勝つことを得たり。 われはひねもす物笑いの種となり、われに出会う全ての人、われを嘲笑うなり」という訳になっていま す。ニコルソンが言うように、原文のヘブライ語を直訳するならば、「欺かれた」とは「騙された」とい う意味です。主なる神が、エレミヤを騙して、陥れたのだというのです。  さて、ここで少し、エレミヤの時代をふりかえってみましょう。紀元前1000年頃ダビデ王によって 統一されたイスラエル統一王国は、次のソロモン王の時代までは繁栄を誇りましたが、その後不幸にし て南北に分裂し、やがて北王国イスラエルは紀元前722年に滅亡してしまいます。残った南王国ユダも その後20年ほどで滅亡するわけですが、このような壊滅的な激動の歴史のただ中で、エレミヤは預言 者としての召命を受けた人でした。  青年時代のエレミヤは、統一王国の分裂と滅亡の原因を、異教の神々の礼拝にあると見たヨシヤ王の 大胆な宗教改革を支持し、ヨシヤ王の宗教改革にこそ国家再建の道があると信じて、その改革にみずか ら参加し、積極的に働きました。しかし宗教的には純粋でも、政治的・外交的には未熟であったヨシヤ 王は、なんと自ら先頭に立って軍を指揮し、エジプトとの戦いで戦死してしまいます。かくしてイスラ エル再建の望みは全く断たれたかのように見えたのでした。  そのような壊滅的状況の中で、エレミヤが神の召命を受けたことは、政治的な手段によってではなく、 神の御言葉を正しく宣べ伝えること、御言葉の宣教のわざによってこそ、真のイスラエル(揺るぎなき 神の家)は再建されることが明らかにされたことです。もともとエレミヤはエルサレム近郊のアナトテ という村の祭司の子として生まれた人でした。意外なことですが祭司の家出身の預言者は珍しいのです。 ですから預言者としての召命を神から受けたときにも、エレミヤは先輩イザヤのように潔く「わたしを お遣わし下さい」とは言えず「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよい か知りません」と尻込みしています。畏れざるをえなかったのです。  そのような召命の原点を持つエレミヤは、預言者になってからも、自分の人生はどこか不本意な、い わば「神によって押し切られた人生」(神によって強制された人生)だという思いが抜けませんでした。 神の選びはもちろん、自分が相応しいと思う人に与えられるものではありません。相談のうえ納得して 決められるものでもありません。上からの一方的な選びなのです。この一方的な選びを、エレミヤはな かなか受け入れることができませんでした。神との関係が一筋縄ではないところにエレミヤの大きな特 徴があるのです。それこそ20章7節で彼が言うように、神は「わたしよりも強いので、わたしを説き 伏せられた」という思いが、預言者としての活動の中でもいつもエレミヤを苦しめ続けていたのです。  そのような意味では、エレミヤの生涯はヨナの生涯に似ていると言えるでしょう。神の召命から逃が れようとしても、神はそれを許したまわず、どこまでも執拗に追いかけて来られる。そのような“追跡 的召命”とも言うべき人生を、圧倒的な恵みとしての生涯を、エレミヤは神の御手から受けた人なので す。  エレミヤにとってのもう一つの悲劇は、彼は人に喜ばれ、感謝される言葉を語るために召されたので はなかったことです。むしろその反対で、レンブラントが描いたように、エレミヤはイスラエルの審き と滅亡を語らねばならなかったのです。エレミヤは謙虚で繊細な人格の人でしたから、自分が神の御言 葉を宣べ伝える預言者であることに、人一倍傷つき悩んだのです。人間は神の言葉を素直に聴かないの です。むしろ反発し、怒り、背くのが人間なのです。しかしそれでも、それが神の言葉である限り、忠 実に語り続けねばならないのが預言者の務めなのです。  さて、南王国ユダは、エジプトとバビロンという二大超大国の間に挟まれた弱小国家でした。ですか ら政治的・戦略的視点から言うなら、ユダが生き残れる唯一の道は、両超大国を刺激せず、バランス外 交を取る以外にないのです。ところが世界制覇を企むバビロンが、突如として北側から侵略してきたの です。紀元前586年のことです。そのとき政治家たちは、エジプトと軍事同盟を結ぶことによって、バ ビロンの脅威に対抗しようとしました。それに対して真向から反対したのがエレミヤでした。  バビロンに敵対してはならない。同様に、エジプトを頼みとしてもならない。そのようにエレミヤは 人々に語りました。剣を取る者は必ず剣で滅びる。エジプトの軍事力を頼みとするならば、同様に軍事 力に滅ぼされるほかはない。私たちが頼みとなすべきものは、軍事同盟ではなく、天地の造り主にして 歴史の主なる神のみである。たとえバビロンによって滅ぼされようとも、決して滅びることのないもの が私たちにはあるではないか。まことの神を信ずる信仰、そしてまことの礼拝、それがあるならば、い かなる軍事力も我々を滅ぼすことはできない。我々は神の民であり、神の御国こそ永遠の御国なのだ。 そのようにエレミヤは宣べ伝えたのです。  しかしこのエレミヤの言葉は、人々の激しい反感と怒りを引き起こしました。エレミヤ書20章8節 以下でエレミヤはこう語っています。「主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるから です。もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』と言え ば、主の言葉が私の心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押える のに疲れはてて、耐えることができません」。御言葉を語っては人々に迫害され、逆に語らないと御言葉 がエレミヤを苦しめる。その辛さは言語に絶するものであったに違いありません。  私たち人間は、目先のことばかりに心を奪われ、本当に大切なもの、永遠なるもの、人間を人間たら しめる神の御言葉を、真剣に聴こうとはしないのです。エレミヤの時代も今日も、そのことになんの変 わりもないのです。そして、それだからこそ、教会は真実に神の御言葉を、主イエス・キリストによる 唯一まことの救いの音信のみを、人々に宣べ伝え続けてゆかねばなりません。教会は世間の流れに迎合 して変身する群れであってはならないのです。福音を人気取りの言葉に摺り変えてはならないのです。 人間を真に人間たらしめ、世界を真に世界たらしめる、歴史の主なる神の福音のみを、本当の救いの音 信のみを、私たちの教会は宣べ伝え続けてゆかねばなりません。教会が教会であり続けるとは、預言者 エレミヤのように歩むことであります。  イギリスのジョン・ミルトン、有名な「失楽園」を書いた人ですが、ミルトンは「失楽園」の中で「礼 拝においてこそ、人間が、社会が、そして世界が回復されてゆく」と語っています。エレミヤが見つめ 続け、宣べ伝えた福音こそ、世界を救う生命の言葉だったのです。主イエス・キリストを信じて、まこ との神に立ち帰るときにのみ、私たちは本当の自分を回復することができるのです。私たちの人生の全 体を、神の祝福として受け継ぐことができるのです。そして世界すらも、はじめて世界たりうるのです。  今朝の説教題を「預言者エレミヤ」としました。この「預言者」という字は「神の言葉を預かった人」 という意味です。ヘブライ語ではナービーまたネビーイームと言います。もともとの意味は「与えられ て語る者」であり、英語のプロフェットも同様の意味を持っています。婦人会ではいまエゼキエル書の 学びをしていますが、その前はエレミヤ書を約10年にわたって学んできました。その学びの中で幾度 も示されたことは、私たちに与えられている福音の御言葉は、主イエス・キリストによる救いの出来事 は、旧約聖書の中にも明確に宣べ伝えられているのだという事実です。エレミヤは十字架の主イエス・ キリストを宣べ伝えた預言者なのです。預言者という言葉そのものが、キリストを告知する者という意 味なのです。  終わりに、私たちは一つの大切なことに気づきます。それは、今朝の御言葉の中で、エレミヤは自分 を「神に欺かれた者」と呼んでいるけれども、それはすなわち、自分が神の御手に自分を委ねた者、つ まり「神の器」となりきって、生かされていることを感謝し喜ぶ信仰告白そのものなのです。だから召 命とは「命を召す」と書きます。エレミヤは自分の命(存在と生涯)そのものを通して、自分が「神の 器」とされたことを信じ、感謝し、そこに神の愛の御支配の、最終的かつ永遠の勝利を確信したのです。  言い換えるなら、神は私たちを救うために、この全世界を挙げて私たちに関わっておられるというこ と。パウロの言う「わたしたちのために御子を賜わったかたが、どうして御子のみならず、万物をも賜 わらないことがあろうか」という確信、そこに世界の本当の祝福と救いがあり、希望があることを、エ レミヤは神に欺かれることによって(神に自分を委ねきることによって)宣べ伝えた預言者なのです。  私たちの贖い主、十字架の主イエス・キリストの恵みを覚え、神の御名を崇め、エレミヤのごとく、 心ひとすじに主に従う僕になりたいと願います。祈りましょう。