説    教    詩篇62篇7〜8節  ヨハネ福音書13章12〜15節

「キリストに倣う」

2017・10・15(説教17421718)  “キリストに倣う”ということは、実はたいへん難しい、容易ならざることではないでしょうか。し かし「キリストに倣う」ことがなければ、私たちの信仰生活は決して本物にはなりません。もしも私た ちが幾ら口先だけで「キリストを信じている」と言っても、キリストに倣う生活ではなく、逆に自分自 身を「主」とし続けているならば、それはキリスト者の生活とは言えないからです。  今から約550年前に、ドイツのトマス・ア・ケンピスという修道士が「キリストに倣いて」(ラテン 語でイミタチオ・クリスティ)という本を著しました。これはわが国でも安土桃山時代に「こんてむつ すむん地」という題でキリシタン版として翻訳出版された記録があります。この中でトマス・ア・ケン ピスは、今朝のヨハネ伝13章12節以下の御言葉について、このようなことを語っています。トマスは 言うのです、主なるキリストは、まさに私たちの足を洗って下さるために世に来られた。ところが、足 を洗って戴いた私たちは、その主の恵みにもかかわらず、そこから立ち上がって主に従おうとはせず、 依然として古きおのれに留まろうとしている。そのとき、私たちの信仰にいったい何の意味があるのだ ろうか。そのようにトマス・ア・ケンピスは問うているのです。  足は人間の身体を支えるものです。言い換えるなら、足は私たちの生活そのものの譬えです。それな らば、主イエスが私たちの「足」を洗って下さったということは、私たちをして新しい復活の生命に支 えられつつ、主と共に歩む恵みに生きる者として下さったという事実です。では、私たちがそれほどの 大きな恵みを主から受けているにもかかわらず、もしも私たちがそこで何事も起こらなかったように「古 きおのれに留まろうとしている」とするなら、それこそ、トマス・ア・ケンピスが問うているように、 私たちの信仰そのものが問われているのではないでしょうか。  主イエスは、十二弟子たちの足を現われた後で、今朝の12節にありますように「上着をつけ、ふた たび席にもどって、彼らに言われた」のです。すなわち主は私たちにこのように語られました。「わたし があなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは 正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を 洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおり に、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」。  ここに「手本」という意味ぶかい言葉が現れています。何事につけても、私たちが何かを「習う」場 合、そこでまず必要とするのは「手本」ではないでしょうか。たとえば、お茶を習おうとする人がいた とします。そのとき、自己流の勉強をするだけでは、決して茶道は身に付きません。誰か優れた先生の もとに入門し、そこで稽古をつけて戴いて、その先生を「手本」としてはじめて、お茶の作法が身につ いてゆくのです。これはスポーツや芸術や仕事の世界でも、全て同じことが言えるのです。言い換える なら「手本」とは、それを体得している人のことです。「門前の小僧習わぬ経を読む」と申しますが、こ れは良い諺です。実は「手本を真似る」ということが、全ての仕事に当てはまる上達の条件なのです。  その意味で申しますなら、主イエス・キリストはまことに洗足の「手本」となりたもうた唯一のかた なのです。この“洗足”とはいったい何でしょうか?。主は「洗足の恵み」によって、私たちに何を示 して下さったのでしょうか?。それは神の御子イエス・キリストの十字架による、私たちの罪の全き贖 いの恵みの確かさです。すなわち主イエスは「十字架の主」として、全人類の罪の贖いの唯一の「手本」 となられたかたなのです。どなたに対してか?。もちろん父なる神に対してです。父なる神に対して、 主はご自分の全てを犠牲とせられた十字架によって、私たちの罪を執成して下さった。「私がこの者に代 わって十字架につきますから、私の死に免じて、どうぞこの者の罪を赦してやって下さいませ」と、私 たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。  昔、ある国で道徳が乱れ、犯罪がとても多くなったことに、王様が心を痛めていました。そこで、そ の王様は国中にお触れを出すのです。「今後、いかなる罪でも、犯した者はただちに死刑に処す」と。す ると翌日、たちまち捕らえられた青年がいた。その青年の顔をよく見ると、なんとそれは王様の息子で あったのです。王様はとても驚き、かつ悲しみましたが、全国民に示したお触れがあります。泣いて馬 謖を斬らざるをえません。そこで王様は、全国民に対してこう語ったのです。「どうか、この青年の罪を 赦してやってほしい。その代わりに、私が死んでお詫びをする」。こう言って、王様みずからが身代わり になって死ぬことによって、この青年の生命を助けたのでした。  例えて申すならば、私たちが主イエス・キリストの十字架によって頂いている「罪の贖いの恵み」と は、そのような恵みなのです。そうすると「洗足の恵み」が指し示している十字架の恵みとは、大変な ものであるということがわかるのではないでしょうか?。そこで確かなことがあります。それは、私た ちは、この「洗足の恵み」に倣うことなど到底できない、という事実です。何よりも私たちは、自分一 人の罪を償う力さえありません。キリストの十字架に倣うことなど絶対にできないのです。しかし私た ちは、私たちのために十字架におかかり下さった主イエスを信じ、主イエスを見上げ、主イエスにお従 いすることはできます。それこそが、主を「手本」とすることなのです。キリストに「倣う」ことなの です。私たちは主イエスを信じ、教会に連なって生きることによって、いつも主イエスを「手本」とす る生活ができるのであります。  それで、今朝の説教題の「倣う」という字は、習得するほうの「習う」ではなく、自分を相手に投げ かけることを意味する「倣う」であります。人偏に放り投げるという字です。つまり、私たちが「キリ ストに倣う」とは、私たちがキリストに自分を明け渡すことです。自分をキリストに放擲することです。 自分をキリストに委ねることです。つまり、信仰のことを現しているのです。「キリストに倣う」とは「キ リストを主と告白すること」「キリストを信じること」「キリストの御身体なる教会に連なって生きるこ と」です。  教会とは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの復活の御身体であり、恵みによって招かれた 罪人たちの集いです。主の御身体なる教会に連なることによって、罪によって死んでいた私たちに、新 しい復活の生命(キリストの生命)が与えられ、そこに「聖徒の交わり」が現わされるのです。それが 教会です。そこでこそ私たちは、私たちの全ての罪が赦され、神の義が与えられている恵みを知る者と されます。死んでいた者が甦り、失われていた者が見出された喜びに、共にあずかる者とされるのです。 その喜びが、主の御手の内にあって、いつも満ちあふれている場所、それが主の御身体なる公同の聖な る教会なのです。  それならばなおさら、私たちは主がお建てになったこの教会においてこそ、主を唯一の「手本」とす るキリストの弟子に、ならせて戴いているのではないでしょうか。だから、よく間違えて理解されるの ですが、洗足の恵みはヒューマニズムや感傷的な愛の教えではありません。博愛主義者のスローガンで もありません。大切なことは、今朝の主イエスの御言葉は、私たちの限界や可能性を超えたところにこ そ輝いているのです。すなわち、私たちの恐るべき罪の暗黒のただ中にこそ、私たちの虚無の中にこそ、 主の「洗足」の出来事は鳴り響いているのです。どういうことかと申しますと、主イエスはただ一方的 な恵みの出来事として、私たちの汚れた足を洗って下さったのです。私たちが主イエスに「どうか私た ちの足を洗って下さい」と頼んだわけではない。私たちの意志に主が応えて下さった結果、この出来事 が起こったわけではない。そうではなく、全く私たちの意志の及ばぬところで、まだ私たちが恐るべき 罪の暗黒の中にいたその時に、主は私たちの足を、ご自身の一方的な恵みによって洗い清めて下さった のです。  これは、何を意味するのでしょうか。この意味を使徒パウロは同じ新約聖書ローマ書5章8節に次の ように語っています。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったこ とによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」。ここに「まだ(わたしたちが)罪人であった 時に」とあります。私たちが神から全く離れた状態であった時に、しかも、そのみずからの悲惨さを、 知ることもできないでいたその時に、そのような私たちのためにこそ、キリストは死んで下さった。実 にそのことによって「神は私たちに対する愛を示された」のです。すなわちキリスト・イエスみずから、 罪によって神に対して死んでいた私たちを救うために、一方的なご自身の恵みによって、私たちの汚れ た足を洗って下さった。私たちを救って下さったという事実です。  私たちは、神の御前に立ちえない存在でした。みずからの存在を、またみずからの人生を支えうる健 やかな“足”を持ちえない存在でした。しかも、神から離れていたことによって、暗闇の中にいた私た ちは、そのような自分の悲惨さをも知りえずにいた。そのような私たちのために、主は一方的な恵みに よって、私たちの足を洗って下さったのです。私たちの罪の暗黒のただ中に、主ご自身が来臨して下さ ったのです。どん底において、私たちの悲惨さを担って下さったのです。そして、私たちを、神の御前 に健やかに立ち、歩みうる者として下さったのです。  だから、ルターが訳したドイツ語の聖書では、今朝の御言葉の「手本」という言葉をバイシュピール という言葉で訳しています。このバイシュピールとは、直訳すると「ある人のために行なう」という意 味になります。さすがはルターならではの名訳でありまして、主イエスは、私たち罪の極みに座す者た ちの所にいらして、そこで私たちのために既に“行って”下さったのです。成し遂げて下さったのです。 完成して下さったのです。それこそ、永遠の神の御子が十字架に死なれ、私たちを救う御業でした。そ れこそがバイシュピール、すなわち「洗足の恵み」なのです。私たちはその「洗足の恵み」に「倣う」 僕とされている。それは、私たちのために罪の贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストを「主」 と告白し、主を信じて、主の御身体なる教会に連なり、礼拝者として歩むことなのです。そこに、私た ちが主にお献げする「キリストに倣う」生活の幸いと喜びがあるのです。祈りましょう。