説    教    民数記6章24〜26節  ガラテヤ書1章3〜5節

「恵みと平安」

2017・10・08(説教17411717)  ガラテヤ人への手紙は使徒パウロが、ローマ帝国アジヤ州ガラテヤ県に開拓伝道をした十幾つかの 教会にあてて書き送った手紙です。今日で申しますならトルコ中央部の平原地帯です。エルサレムか らもローマからも数千キロ離れた辺境地帯です。そこに誕生して間もない諸教会に宛てて、パウロが この「ガラテヤ人への手紙」を書き送ったのは西暦57年頃のことです。この手紙は、パウロの伝道 の初期に書かれた手紙のひとつです。  そこで、この西暦57年頃と申しますのは、ガラテヤの諸教会とそこに集う教会員たちにとって、 信仰生活を続けて行く上で実に過酷な試練を経験しなくてはならなかった“苦難の時代”でした。外 からはローマ帝国による迫害があり、内には律法主義の問題がありました。事実パウロはこのガラテ ヤ書の中で幾度も「異なる福音」に気をつけなさいと、ガラテヤの信徒たちに注意を喚起しています。 福音とは似て非なるもの、福音のふりをして近づいて来る“間違った信仰”に対して、主にあって堅 く立ち、動揺することのない群れに成長するよう勧めているのです。  このパウロの心からの願いと祈りは、何よりも愛するガラテヤの諸教会に宛てて「祝福」を告げる ことに現われています。パウロは1章1節以下に、主にある挨拶を書き送ったすぐあとで今朝の3節 以下に「祝福」の言葉を告げています。すなわち3節に「わたしたちの父なる神と主イエス・キリス トから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」とあることです。これはパウロがガラテヤの諸 教会に告げている祝福であるのと同時に、いまここに集うている私たち一人びとりにも同じように告 げられている祝福です。  そこで何よりも、私たちはこの祝福の中で、まず「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストか ら」とあることに心を向けたいのです。私たちが受ける「祝福」は漠然とした観念ではなく、そこに はいつも確かな“祝福の与え主”がおられるのです。それは「わたしたちの父なる神」そして神の独 子なる「主イエス・キリスト」です。ではこの場合「聖霊」は入っていないのかと申しますと、そう ではありません。西暦381年のニカイア信条には「聖霊は父と子とを通して」私たちに与えられるも のであると告白されています。  それなら、ここで「父なる神と主イエス・キリストから」とパウロが告げているとき、そこには父・ 御子・聖霊なる三位一体の聖なる神の御業が語られていることは明白なのです。つまりパウロはここ に「父なる神と主イエス・キリストから」の祝福を告げるにあたり、当然のこととして聖霊の御業に ついても語っているのです。聖霊はこの歴史の中に教会をお建てになり、私たちに信仰を与え、世界 を救いの完成へと導き、私たちを永遠にキリストに結び合わせて下さる“絆”だからです。  まさに「造り主なる聖霊」によってこそ、御父と御子との「恵みと平安」が私たちの“いまここに おける祝福”となります。様々な信仰上の試練や困難の中にあったガラテヤ諸教会の信徒たちにとっ て、三位一体なる神の「祝福」こそ、いつも正しい信仰に立ち帰らしめる原動力であり道標でした。 それなくして日々の信仰生活はありえなかった。だからその「祝福」は単なる言葉でではなく「力」 なのです。事実パウロはここに「祝福」の内容が「信仰の生命の力」であることを明らかにしていま す。それは「恵みと平安」という言葉です。すなわち3節に「わたしたちの父なる神と主イエス・キ リストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」とあることです。  そこで、この「恵みと平安」という表現について、よく言われることは、「恵み」とは異邦人つまり ギリシヤ人の挨拶の言葉であり、「平安」とはユダヤ人つまりイスラエル人の挨拶の言葉であったとい うことです。たしかにそのように言えるでしょう。ギリシヤ人にとっては「恵み」(グラティア)そし てユダヤ人にとっては「平安」(シャローム)が日常の挨拶の言葉でした。特に当時のガラテヤの諸教 会においては、教会員の半数は異邦人(つまりギリシヤ人)であり半数はユダヤ人でした。ですから パウロはここで異邦人にもユダヤ人にも不公平にならない挨拶として「恵みと平安」という表現を用 いているのだと考えることもできるのです。しかし、そういたしますと、この「恵みと平安」という 祝福は一種の社交辞令ということになります。パウロはギリシヤ人とユダヤ人の両方に気を遣ってい るのだ、という程度のことになってしまうのです。  そうではなく、私たちはここで何よりも、この「恵みと平安」という祝福が、主イエス・キリスト ご自身を鮮やかに示している事実を知らなければなりません。それを明確に示しているのがヨハネ福 音書1章14節です。「そして言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光 を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。ここにははっ きりとキリストの「栄光」について、それは「めぐみとまこととに満ちていた」と告げられているの です。「恵みと平安」という表現とは少し違いますが、この「めぐみとまこと」の「まこと」とは「神 の真実」すなわち、私たち全ての者のためにキリストが成し遂げて下さった救いの御業のことです。 特にヨハネ福音書において「栄光」とはキリストの十字架のことをさしています。つまりヨハネ福音 書1章14節における「まこと」とは、主イエス・キリストの十字架の恵みを語っているのです。  何よりも、主イエスご自身がはっきりとお語りになりました。ヨハネ福音書17章1節です「これ らのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、『父よ、時がきました。あなたの子があな たの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわしてください』」そして4節以下「わたしは、わたし にさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世 が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」。そして同 じヨハネ伝の12章23節「すると、イエスは答えて言われた、『人の子が栄光を受ける時が来た。よ く、よく、あなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままで ある。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』」。  これらの主の御言葉から明らかなように、主イエスはご自分が受けるべき十字架のことを「栄光」 とお呼びになった。それなら、この「栄光」とは私たち全ての者の救いの出来事です。それが今朝の ガラテヤ書1章3節の「恵みと平安」という祝福と結びつくのです。私たちの救いのために、神の御 子みずから、ご自身の全てを献げ尽くして下さった恵みの、救いの出来事です。主が私たちの罪の永 遠の贖いを成し遂げて下さったことです。それをパウロは「恵みと平安」と語っているのです。  そういたしますと、今朝の1章3節の「恵みと平安」とは、主イエス・キリストの「栄光」のみ、 主の「まこと」のみを現わしているのだということがわかるのです。それはキリストご自身を(私た ちの救いのためになされた、キリストの十字架の御業を)鮮やかに告げているものです。だから、こ の祝福は単なる言葉ではないのです。パウロも第一コリント書4章20節に「神の国は、言葉ではな く力である」と語っています。「恵みと平安」とは、私たちのため、この全世界の救いのために、神の 御子イエス・キリストが成し遂げて下さった十字架による救いの出来事のみを現わしているのです。 だからそれは、この祝福を戴く全ての者に、真の救いと新たな生命を与える「神の力」そのものなの です。その「神の力」である「恵みと平安」は、キリストの御身体なる真の教会を建て、あらゆる試 練の中にあって教会を力づけ、歴史を救いの完成へと導く聖霊なる神の「力」なのです。  実は、ガラテヤ書をよく読んで参りますと、当時のまだ未熟であった教会が、どんなに数多くの悩 みや試練に立ち向かわねばならなかったかがわかります。そうした悩みや試練の中で、頼みの綱であ った使徒ペテロでさえも“異なる福音”に妥協してしまった事実が告げられているほどです。まさに 教会の根幹が揺るがせられる問題が起こりました。その根本的な原因がどこにあったかと申しますと、 パウロは見事にその原因を見抜いています。それはガラテヤの諸教会が、まさに今朝の御言葉に告げ られた「恵みと平安」を失いかけていたからだ。キリストの祝福(キリストの御業)が見えなくなり かけていたからだ。十字架のキリストが教会の唯一の「主」でありたもう幸いが失われかけていたか らだ。芭露はそのようにはっきりと見抜いたのです。  それで、ガラテヤの諸教会に連なる、主にある愛する兄弟姉妹たちよ、どうか今こそ心新たに「恵 みと平安」に堅く立つ群れになってほしい。十字架のキリストのみが唯一の「主」てありたもう群れ へと成長してほしい。信仰上の過ちに陥った人々があるならば、どうか正しい信仰に立ち帰り、教会 生活の喜びを回復してほしい。そのようにパウロは語り、かつ祈り、かつ願いつつ、ここに改めて「恵 みと平安」を全ての人々に語り告げつつ、ただひたすらにキリストの満ち溢れる救いの恵みのみを明 らかにしているわけです。  だからこそガラテヤ書は、今朝の1章3節以下で、このキリストとはいかなるかたであるかを、は っきりと私たちに告げています。主は私たちのために何をなしてくださったかたであるかということ です。原文では4節は3節の「主イエス・キリスト」という御言葉に接続して「すなわち、ご自身を 与えられたかた、わたしたちの罪のために」となっています。主は私たちの罪のために、ご自身のい っさいを贖いとして与え尽くして下さったかたなのです。このイエスがキリスト(救い主)なのです。 「恵みと平安」とは、まさにこのイエス・キリストによる救いの確かさへと私たちを連ならせる「神 の力」なのです。祈りましょう。