説    教    イザヤ書56章7節   マルコ福音書11章12〜18節

「祈りの家」

2017・10・01(説教17401716)  福音書の中には、主イエスがなさった数々の奇跡が記されていますが、その中でも今朝のマルコ伝11 章12節以下の御言葉は、どうも「奇跡」と呼ぶには抵抗感がある、と感じる人が多いのではないでし ょうか。主イエスが通りすがりに一本の「いちじくの木」を呪われた。するとその木が翌日になって、 枯れてしまったという内容の物語です。私たちはこの御言葉を読んで、正直なところ困惑してしまうの ではないでしょうか。一体どのようにこの御言葉を理解し、いかなる福音を読み取るべきなのか。「よく わからない」というのが本音なのではないかと思うのです。  まず12節から14節を読んでみましょう。主イエスは十字架へと至る最後の一週間をエルサレムで過 ごされましたが、夜は少し離れたベタニヤという村に泊っておられました。ですから今朝の12節に「彼 らがベタニヤから出かけてきたとき」とあるのは、主イエスと十二弟子たちがいつものように、ベタニ ヤからエルサレムに向かう途中でという意味です。その距離は約3キロでした。その道の途中に一本の 「いちじくの木」があったのです。時あたかも、主イエスは空腹を覚えられ、その「いちじくの木」に 実がなっていることを期待されて近づかれたところ、その木には葉が繁っているばかりで、肝心の実は 一つも見当たらなかったのです。  今朝の13節を見ますと「葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからであ る」と記されています。ところが主イエスは、そのいちじくの木に向かって「今から後いつまでも、お まえの実を食べる者がないように」と仰せになった。つまり主イエスはその「(実のない)いちじくの木」 を呪いたもうたのです。14節には「弟子たちはこれを聞いていた」と記されています。弟子たちにとっ ても、この場面はよほど印象的であったのでしょう。主イエスが「いちじくの木」を呪われたことは、 弟子たちの目には理不尽なことに見えたのです。  それは、私たちにも簡単にわかることです。どのような木にも実のなる季節があります。いちじくの 実のなる季節でない時に、いくら実を求めたとしても、それは無理難題というものでしょう。その無理 難題を主イエスは求められた。そして無理難題が叶わぬ時、いちじくの木を呪われた。それは幾らなん でも無理というものだと、そう弟子たちは感じたのではないでしょうか。  そこで、古今東西、聖書の様々な注解書の中で、この無理難題がいかに不自然でないかを示そうとし て、様々な解釈が試みられてきました。その中のひとつに、主イエスは「しいな」と呼ばれる、一種の “季節はずれの実”を求められたのだという解釈があります。しかし今朝の御言葉を読むとき、それは いささか牽強付会でありましょう。むしろマルコ伝がここで明確に語っていることは、あくまでも「主 イエスが求めたもうたその時に、いちじくの木に実が無かった」という一点にあるのです。それが私た ちの目に理不尽に見えるか否かは、今朝の御言葉の中心ではないのです。  そこで、なによりも私たちが心にとめたいことは、この「いちじくの木」が当時のエルサレム神殿の 象徴であったという事実です。預言者エレミヤの言葉のとおり、人々は「主の神殿、主の神殿」と口先 で唱えるだけで、真の神を信じ敬う礼拝の精神を失っていました。エレミヤは語ります。実際にはあな たがた(エルサレムの民)は、盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香を焚いている。それなの にこの神殿に来て、自分たちは「救われた」と言っている(エレミヤ7:4〜11)。つまり信仰が表面だけ の行いになり、内容が(祈りが)失われていた。それは、葉ばかりが繁って、実の無いいちじくの木と同 じなのです。ですから「実のないいちじくの木」はまさに、イスラエルの、否、私たちの不信仰を現わ しているのです。  そこでこそ改めて私たちは、今朝の御言葉で主イエスが「空腹をおぼえられた」と明確に記されてい ることにも心をとめねばなりません。激しい飢え渇きにも似た切なる思いをもって、主イエスは私たち を(私たちの救いを)求めておいでになるのです。だから、私たちが実を結ぶとは、私たちが神を信じ て、真の礼拝者になることです。まさに「祈り」の生活を回復してゆくことです。その「実」をこそ、 主イエスは私たちに求めたもうのです。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十 九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にある」(ルカ15:7)のです。「神が御子を世に遣わ されたのは、世を審くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17,18)。  それならばなおのこと、主が私たちに求めたもう「実」とは、私たちが主に立ち帰ることそのもので す。悔改めの幸いです。イエス・キリストをわが主・救い主と信じ、主の御身体なる教会に連なり、礼 拝者としての生涯を、主に従いつつ歩むことです。まさに、主は信仰という「実」を私たちに求めてお られるのです。ガラテヤ書6章7節を心にとめましょう。「まちがってはいけない。神は侮られるよう なかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」。  これらのことを心に留めつつ、次に私たちは、今朝の御言葉の13節以下の「宮きよめ」の記事へと 進みましょう。エルサレム神殿の広い境内には、いつものようにたくさんの屋台が、両替商や生贄の鳩 を売る商売人たちの出店が、軒を連ねていました。つまり、神聖な神礼拝の場であるべき神殿が、商魂 逞しい栄華の巷に様変わりしていたのです。神殿の祭司たちはこれらの現状を黙認する代わりに、多額 の賄賂を受けていました。ですから、主イエスがこれらの屋台を追い払われたのは、普通の見方をする なら、商売人たちと祭司たちとの癒着構造を改革されたのだと考えることができます。しかしそれだけ ならば、主イエスのなさった「宮きよめ」の行為は、歴史のひとコマに過ぎなかったことでしょう。屋 台の商人たちはその時は逃げても、またすぐ戻って来たに違いないからです。なによりも祭司のお墨付 きを貰っていたのですから、神殿の境内は公認の商売の場であったのです。  主イエスの「宮きよめ」のわざは、この世の構造改革などと同一レベルのものではありません。かつ てフランス革命の急進派ロベスピエールは、聖書のこの記事を暴力革命の根拠としましたが、それは間 違った解釈です。主イエスの「宮きよめ」は旧約聖書のマラキ書3章に基づいて、神から遣わされた全 世界の救い主(キリスト)が、いまここに臨在しておられることを示すためのわざでした。「見よ、わた しはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求めるところの主は、たち まちその宮に来られる。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る 日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。  このような主が、歴史の救い主が、いま私たちのただ中に立ちたもうのです。その恵みの御力をもっ て私たちの罪を贖い、世界を救い、新たになすために、主は私たちのもとにいま臨在しておられるので す。だからこそ主は言われます「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』 と書いてあるではないか。それなのに、あなたがたは、それを強盗の巣にしてしまった」。この「強盗の 巣」とは「強盗の隠れ家」という意味です。私たちは罪をおかして、神に立ち帰ることをせず、逆にそ の罪を隠蔽するために、自分の中に「隠れ家」を持つ存在なのです。神の目の届かぬところにいれば、 自分は安全だと思い違いをするのです。しかし神から逃れうる「隠れ家」など世界のどこにも存在しま せん。  ヨハネ伝2章18節以下を見ますと「なぜこんなことをするのか」と問う律法学者らに対して、主は 「この神殿を壊してみよ、三日で建て直すであろう」と言われました。それは、ご自身の十字架による 全世界の罪の贖いと、復活による真の生命に基づく新しい礼拝を現わしています。しかし人々はこれを 神殿に対する冒涜であるとして、主イエスの十字架刑の直接の原因となりました。それならば、今朝の この御言葉は、主イエスの十字架の恵みに裏付けられた「真の礼拝の回復」「祈りの家の回復」のわざな のです。本来は神のものであるにもかかわらず「強盗の巣」になってしまっているエルサレム神殿(す なわち私たちの存在)に対して、主イエスはご自身の十字架にり、真の審き(真の救い)を行って下さ った、完成して下さったのです。まさに「三日目」に、主イエスの復活によって、人の手によらない本 当の神殿(まことの礼拝)が、主の御手によって建てられたのです。私たちの教会はこの復活の共同体 です。  さて、20節以下を見ますと、例の「いちじくの木」は翌日、根元から枯れていました。ペテロは前日 の主の御言葉を思い出して「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」(21 節)と申しました。ここで大切なのは、この「いちじくの木」は「根元から」枯れたという事実です。木 全体が枯れてしまったのです。ここにも、主イエスの十字架の意味が明らかにされています。古き律法 の支配を、エルサレム神殿の祭司制度を、根元から完全に終わらせ、新しい真の救いを全世界に現し、 私たちを救うために、主イエスは十字架の上に贖いの死をとげられたかたなのです。このことをパウロ はローマ書3章21節以下にこう語っています。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と 預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であ って、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」。  主が高らかに宣言なさった「時は満てり。神の国は近づけり。悔改めて福音を信ぜよ」との御言葉を、 どうか私たち自らへの限りない救いの音信として聴き取りましょう。キリストを信じ、キリストに結ば れて生きる私たちは、もはや古き罪の支配のもとにはなく、キリストの恵みの御支配のもとに、一つと され、生かしめられているのです。御子イエス・キリストによって、神が無償でお与え下さる、全く新 しい完全な救いを、私たち一人びとりが心から信じ、その恵みにあずかり、キリストの復活の生命に生 かされて、まことの礼拝者として立ち続けて参りたいと思います。そして真の「祈りの家」を、礼拝共 同体である真の教会を、ここに形成して参りたいと思います。主は私たちのこの群れを通して、豊かな 救いの御業を、この地に現して下さるのです。  終わりに、枯れたいちじくの木に関連して、22節以下には「祈り」に関する主の御教えが記されてい ます。マルコは「枯れたいちじくの木」の出来事と「祈り」に関する主の御教えを結びつけて理解して いる。それは同時に、初代教会の人々が、そのように今朝の御言葉を読み取ったということです。ここ に記されていることは、祈れば山でさえ動くのだ、という魔術的な事柄ではありません。そうではなく、 ここでの主語は神です。私たちのただ中に、主なる神が、不可能なことを実現して下さった。罪に支配 されていた私たちが、神に愛され、神の愛に答え、祈りうる存在とならせて戴いている。それこそ全て にまさる奇跡の出来事なのです。まさに私たちの上に、主イエス・キリストによって、死者の甦りが実 現したのです。「身体のよみがえり」が現実となり、真の礼拝が回復されたのです。それこそ、山が海に 飛びこむよりも、はるかに大いなる出来事なのです。  主なる神は、まさにそのような救いを、私たち一人びとりに現して下さいました。私たちをして、信仰の「実」 を結ぶ者として下さいました。感謝をもって、主に仕え、御言葉に養われつつ、新しい一週間を歩んで参りた いと思います。祈りましょう。