説    教    ヨブ記19篇25節   ガラテヤ書3章13〜14節
      「汝の贖い主」
2017・09・24(説教17391715)

 2010年3月のことですから、もう7年以上前のことです。鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が早朝、突
然倒れるという事件がありました。私はいちおう農学校の出身ですから、あのような大木が突然倒れ
るということに驚き、また大きな興味を持ちました。聞くところによれば、その原因は幹が空洞にな
っていたことによるそうです。とても大きな木であったわけですが、幹の中身が空洞になっていた、
それで全体の重さを支えることができず、ある日、突然あのように倒れてしまったのです。

 それと同じことが、私たち人間についても言えるのではないでしょうか。私たち人間をして、本当
に人間たらしめるものとは、いったい何なのでしょうか?。「人間」という字は「人の間」と書きます。
しかし、ただ横の関係、人間関係だけでは、私たちの人生は成り立ちません。何より大切なのは縦の
関係、主なる神との関係です。もしそれを失えば、ちょうど樹木の幹が空洞になっているのと同じよ
うに、私たちの人生も虚しく、倒れてしまうほかはないのです。垂直にして見えざる神との関係こそ、
私たちの人生の本当の基礎であらねばなりません。それなくして、私たちは真に人間たりえないから
です。

 明治から大正にかけての、わが国の独創的な哲学者・九鬼周造は「人間は垂直の絶対者との関係な
くしては、ついに根源的偶然性に媒介された存在にすぎない」と語りました。これはパスカルの言葉
で言い換えるなら「汝の贖い主なる神との関係なくして、われらはついに宇宙の孤児であるにすぎな
い」という意味です。あなたの人生は空洞になっていてはいけない、神との関係、垂直の関係が、充
実したものでなければならない、そして本当の生命を得るものであらねばならない。パスカルが語る
のはそういうことです。そのために、私たちにいま、何が求められているのでしょうか?。

 なによりも、私たちは罪によって、生ける聖なる神との関係を失ってしまった者です。その私たち
が、神との関係を修復して頂き、霊の生命を回復するために、何が必要なのでしょうか?。聖書は、
それは「罪の贖い」であると明確に語るのです。私たちの主イエス・キリストは、まさにその最も大
切な私たちの「罪の贖い」のために、この世界に来て下さった神の独子・救い主なのです。言い換え
るなら、私たちは人生という幹を空洞たらしめないために、イエス・キリストによる「罪の贖い」を
絶対に必要としているのです。なぜなら、私たちは誰一人として自分の力や功績によっては救われえ
ず、救いはただ神にのみあるからです。神が世にお遣わしになった独子イエス・キリストのみが、私
たちの唯一の真の救い主なのです。ローマ書3章23節にこうあるとおりです。「すべての人は罪を犯
したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イ
エスによるあがないによって義とされるのである」。
 
 ヨブ記の主人公であるヨブ。ヨブは主の前に正しく、信仰の深い人でした。しかしある日突然、ヨ
ブの上に大きな悲劇が起こります。それはヨブの子どもたち10人が突然の災害によって全員、死ん
でしまったことでした。最愛の子供たちを一瞬にして失ったヨブは「上着を裂き、頭をそり」つつこ
う語ったと記されています。「わたしは、裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主
が取られたのだ。主のみ名は、ほむべきかな」。言葉にならない壮絶な苦しみの中で、ヨブはなおそこ
で、主なる神の御名を崇めることを止めなかったのです。人生の不条理と大きな悲しみの中でこそ、
ヨブは神への信頼に立ち続けたのです。

 私たちはこのことを、ヨブは特別に信仰の深い人だから、そうした立派な態度が取れたのだ、つま
り私たちとは無縁だ、と考えるのでしょうか?。もしそうなら、ヨブ記はそこで終わっているはずで
す。そころがそうではない。むしろヨブ記はそこから始まっているのです。ヨブはこの不条理の中で、
神の御名を崇めつつ、だからこそ、あたかも神の胸ぐらを掴むように「何故なのですか」と問い続け
たのです。ひたすらに神の義を問うたのです。ヨブ記全体が、人生の不条理と神の義に対するヨブの
痛切な問いに貫かれているのはそのためです。その問いの中で、ついにヨブは、ヨブ記19章25節に
至りまして「われは知る、われを贖う者は生きておられる」と、キリストによる罪の贖いこそ、人間
を人間たらしめ、この歴史と世界を救う唯一の神の恵みであることを知りました。

 このつまりヨブは、自分に与えられた大きな苦難を通して、十字架の主イエス・キリストの恵みの
確かさを指し示す人(預言者)になったのです。世界が本当に求めているもの、それは神の独子イエ
ス・キリストの十字架による「罪の贖い」であることを知り、どうかこの文字を、ただこれだけを、
岩山に彫り刻んで、全ての人が読めるようにしてほしいと願ったのです。それこそ「われは知る、わ
れを贖う者は生きておられる」との福音の音信でした。

 同じ旧約聖書・詩篇32篇1節において、詩人である預言者はこのように語っています。「そのとが
がゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に
偽りのない人はさいわいである」。この御言葉の意味はこうです。ここにこそ死に打ち勝つ本当の生命
がある。それは私たち自身ではなく、造り主なる神の御手にあるゆえに、希望的観測などではなく、
生きた現在の恵みの出来事なのだ!。神の限りない祝福と導きの御手に、私たちはいつも豊かに支え
られている。たとえ私たちの「罪とが」がいかに大きくても、それが主によって「ゆるされ」ること
「あがなわれる」ことに、人間の本当の幸いと自由があるのだ。つまりヨブと同じように、十字架の
主イエス・キリストの「罪の贖い」の恵みのみを喜び語り告げているのです。

 それは、いまこのあるがままの私たちが、主なるキリストの義によって、キリストの十字架の恵み
によって「おおわれ」る「さいわい」に生きることです。これをパウロは「キリストを着る」と語り
ました。あたかも消防士が防護服を着て炎から身を守られるように、私たちは十字架の主イエス・キ
リストをこの身に「着せて」戴いて、罪の結果たる魂の滅びから身を守って戴くのです。だから詩人
は続いてこのように語っています「主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわい
である」。これは「キリストを着た人こそ真に幸いである」という意味です。そして「キリストを着る」
とは、主が私たちの救いのためになさって下さった全ての救いの御業を“アーメン”と信じて教会に
連なることです。とても具体的なことなのです。教会に連なり、キリスト者として歩むことです。そ
の時、私たちは「その霊に偽りのない者」とならせて頂けるのです。

 これは凄い言葉だと思うのです。「その霊に偽りのない人」。詩篇32篇2節ですが、私たちは本来、
これだけは言えない存在なのです。「私は霊において偽りのない人です」とは、私たちは絶対に言うこ
とができないものです。自分の生活態度や考えかた、思想や価値観、判断力や人との付き合い、こう
した外面的な物事、つまり水平の人間関係に対しては、あるいは「私は偽りのない人だ」と言い切れ
る人がいるかもしれません。しかし垂直の「霊において」すなわち「主なる神の御前に」自分が「偽
りのない人です」と、いったい誰が言いうるでしょうか?。むしろパウロは申しました、ローマ書3
章10節です「義人はいない、ひとりもいない」と!。この世界いかに広しと言えども、おのれ単独
にて、神の御前に「義とされる」人は一人も存在しないのです。

 今年は宗教改革500周年の記念すべき年ですが、宗教改革はどうして起こったか、その根本的な理
由は、人間が、あるいは当時の教会が、神を抜きにして、自分の力や功績だけで「私は偽りのない人
だ」と言い始めたからなのです。その現れがあの免罪符であった。免罪符と言うのは正式には贖宥券
と申しますが、要するに人間が自分の功績(あるいは聖人の功績)によって救われるとする認可状で
す。ルターはそこに福音を蔑ろにする罪の本質を見ました。教会という大木の幹が空洞になっている
のを見たのです。それで1517年10月31日にヴィテンベルク城教会の扉にラテン語で書かれた「95
箇条の提題」を提示しまして、ローマ教皇庁に対して公開質問状を突き付けたわけです。

 今日はその「95箇条の提題」の第一命題を心に留めたいと思います。それはこのような文章です。
「我らの主イエス・キリストが“汝ら悔改めよ”と言いたもうたとき、主は、信ずる者の全生涯が悔
い改めの連続であることを欲したもうたのである」。この意味はこういうことです。「悔改め」とはギ
リシヤ語で言うなら「メタノイア」であり、神に立ち帰る喜びをあらわしています。「キリストを着る」
喜びと言ってもよい。大切なのは、ここでの主語が「我らの主イエス・キリスト」であることです。
主は私たちにただ一つのことを望んでおられる。主イエスの御心はいつも私たちの救いのために注が
れている。それは我らの、信ずる者の「全生涯が悔改めの連続であること」です。言い換えるならば、
私たちが日々「汝の贖い主」なるキリストの恵みに堅く立つ僕になることです。ただここにのみ、私
たちの真の救いと生命があるからです。

 ときどき、こういうことを言われる人がいます。それは「いま家庭の中に悩みがありまして、私の
ようなつまらぬ者は、とても礼拝に出席する気持ちになれません」というような訴えです。つまり「自
分の今の悩みや問題が解決したら、改めて礼拝に出席します」と言うわけです。そういうとき、私は
いつも「それは逆ですよ」と申します。「悩みがあるなら、その悩みを丸ごと抱えたまま、礼拝に出席
して下さい。なぜなら、主は義人を招くためではなく、罪人を招くために、世に来て下さったかただ
からだ。主はあるがままのあなたを招いていて下さる。優等生のあなたではなく、劣等生のあなたを
こそ、主は愛していて下さるのだ」と申します。忘れないで下さい。主語は、救い主は、キリストな
のです。私たちではない、あなたではない、私たちの救いのために、まさに「死に引導を渡されたか
た」が私たちと共におられるのです。

 まさに、その福音の告知として、今朝のガラテヤ書3章13節が与えられていることを覚えましょ
う。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出し
て下さった」神は私たちを罪と死から贖い、救いを与え、永遠の生命に甦らせて下さるために、私た
ちのために「のろい」の十字架を担われ、私たちの罪の極みである死に連帯して下さった救い主なの
です。それが、十字架の主イエス・キリストのお姿なのです。神の御子みずから、私たちの罪の「の
ろい」を身に引き受けて下さった。絶望をさえ贖い取って下さった。そのようにして私たちを「律法
ののろい」すなわち罪と死の支配から解放して下さった。そこに、聖書が宣べ伝える福音の本質があ
ります。「汝の贖い主」なる主イエス・キリストの恵みがあるのです。十字架の主が、私たちの人生を
根底から支える堅固な幹になって下さったのです。その主が、全ての人に約束して下さるのです。「汝
の罪、許されたり。われ汝と共にあり」と!。祈りましょう。


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