説    教    ハバクク書2章4節   ガラテヤ書2章15〜16節

「福音の中心」

2017・09・10(説教17371713)  ガラテヤ人への手紙には「これこそ福音の中心である」と思われる大切な言葉が随所に見られます。 特に今朝の2章15,16節はその代表例です。ここには私たちの信仰にとって最も大切な中心的な事柄が 示されています。すなわち2章16節にこう記されていることです。「人の義とされるのは律法の行いに よるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イ エスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とさ れるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。  私たち日本人にとって、聖書が語る「義」または「義とされる」という言葉は、とても「わかりづら い」と言われます。たしかに現代の日常会話の中に「義」という言葉はほとんど出て来ないでしょう。 しかし本当に私たちにとって、聖書が語る「義」はわかりづらいのかと申しますと、私はそうではない と思います。試みに私たちは「義」あるいは「義とされる」という言葉を「救い」または「救われる」 という言葉に置き換えてみれば良いのです。そういたしますと、これはむしろ、とてもよくわかる言葉 だということに気がつくのではないでしょうか。  今朝のガラテヤ書2章15節において使徒パウロが明らかにしていることは、私たちは誰一人として 「律法」すなわち“自分の行い”によっては自分を救うことはできない。そうではなく、私たち人間の 本当の救いは、ただ神の御子キリスト・イエスにのみあるのだということです。それがパウロの語る「福 音の中心」です。私たちは十字架の主イエス・キリストの恵みにより、主の御身体なる教会に連なるも のとされ、尊い救いを受けている僕たちなのだということです。つまり救いの中心はただ主イエス・キ リストにのみあるのだということです。この「救い」とは、私たちが全ての罪を贖われて「神の民」と される出来事です。この「イエス・キリストによる救いの出来事」をヨハネ伝では「永遠の生命」と言 い、マタイ伝やマルコ伝では「天の国」と言い、ルカ伝では「神の国」と言い、パウロは「神の義」と 呼んでいるのです。  だから、これは「わかりづらい」ことはないのです。むしろこれほど「わかりやすい」聖書の言葉は ないのです。ルカ伝15章11節以下に「放蕩息子の譬」と呼ばれる主イエスの譬話があります。ある父 親に2人の息子がいました。かねがね父親を疎ましく思っていた弟息子は、父親から自分の財産の生前 分与を願い、それを現金に変えて遠い異国の地に旅立ちます。彼は見知らぬ異国の地で放蕩三昧に浸り きり、やがて全財産を浪費してしまいます。すると金目当てで寄付いていた偽友達はみな彼を見捨てて 去ってしまった。気がつけば異国の地に、乞食同然の孤独の身となり路頭に迷う自分がいるだけでした。 さらに悪いことにはその地方に飢饉が起こり、飢え死に寸前にまで追い詰められたのです。彼はユダヤ 人の忌み嫌う豚の餌である「いなご豆」でようやく飢えをしのぐ毎日でした。そのように落魄した身に なって、はじめて彼は故郷の父親に対して犯した自分の罪を悟ったのです。彼の心に切なる願いが起こ りました。それは故郷に帰ってお父さんに心から罪をお詫びしたい。そうでなければ自分は死んでも死 に切れない。そういう思いでボロを纏った身で帰郷した彼を、一日千秋の想いで待っていた父親は、遠 くからその姿を認めるや否や、駆け寄って慈しみの手に彼を抱きしめ、その全ての罪を赦し、再び息子 として喜び迎えたのでした。「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった のだから」と言って、そこに喜びの祝宴が開かれたのでした。  さて、主イエスがお語りになったこの譬話の中で、弟息子の犯した罪とは、いったい何だったのでし ょうか。放蕩に身を持ち崩し、全財産を使い果たしたことでしょうか。それももちろん罪ですが、それ より遥かに重い罪は、父親を自分の利益のための手段と看做し、父親を亡き者にしたことです。つまり、 神から離れ、神との関係なしに生きようとする、私たち人間存在のありかたそのものが、私たちの本当 の罪であることを、この譬話は示しているのです。私たちは、神との関係を持たない生活のほうが気楽 で自由だと心得違いをしているのではないでしょうか。実際に、神など信じていなくても、自分は人様 から後ろ指をさされるようなことはしていない、恥ずかしいことは何もない、そういうことを言う人は 多いのです。しかしそれは、他人に迷惑をかけない生活、新聞ダネになるような犯罪をおかさない生活 をしているというだけに過ぎません。神との関係は修復されていないのです。神の前には罪人であるま まなのです。  私たちは人間関係には十分すぎるほど気を使います。義理を欠いてはならない、人との約束を破って はならない、人との和を乱してはならない、私たちはほとんど無意識にそう思い、その価値観を生活の 「中心」に据えています。しかしどうでしょうか、私たちをお造りになり、私たちを限りなく愛され、 私たちの救いのために御子イエス・キリストをさえお与えになった、真の神に対する義理を、神との約 束を、神との和解を、私たちが蔑ろにしているとすれば、それこそ人間として本末転倒だと申さねばな りません。もし私たちに生命の恩人がいたなら、その生命の恩人に対する義理は決して欠かさないでし ょう。それなのに私たちは、神の独子であられるイエス・キリストに、自分の罪の身代わりになって戴 いていながら、その恩義を忘れて蔑ろにしているとすれば、それこそ根本的な本末転倒ではないでしょ うか。そうした本末転倒の生活をパスカルは「倒錯した遊戯」と名付けています。私たちの生活は、そ のような「倒錯した遊戯」になってはいないでしょうか。自分の利益のみを追い求め、神との関係を絶 ち、神の愛に叛く罪を、私たちはおかし続けているのではないでしょうか。  使徒パウロは、今朝のガラテヤ書2章15節にこう語ります。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人 であって、異邦人なる罪人ではないが…」と。自分はユダヤ人として当然のごとく「律法によって義と される」(救われる)身であると考えていた。しかし、そのような「律法による義」(行いによる救い) は真の救いではない。そのことをパウロは続く16節にこう宣言しているのです。「人の義とされるのは 律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」ということです。私たちは 自分の行いによってではなく、キリストによってのみ「義とされる」(救われる)のです。「なぜなら」 とパウロは申します。「なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。  私は子供のころ、田圃でザリガニを取っていて、膝の上まで泥にはまったことがあります。驚いたこ とには、膝の上まで泥にはまると抜け出せなくなるのです。私は結局、泥の中に靴を置いたまま、全力 で片足ずつ脱出することができました。靴はあとで田圃に腹ばいになって手を差し入れて取り出しまし た。その時の経験でわかったことです。いったん泥沼にはまると抜け出せる時間はわずかです。自分の 重みによって沈んでゆくばかりだからです。もがいても深みに捕らえられるだけです。そこに救いはあ りません。しかし、そこに私たちを限りなく愛するかたがおられて、私たちのために泥沼の底に潜り、 私たちの足を下から持ち上げてくれたとしたら、どうでしょうか。私たちはそのかたのおかげで救われ るに違いありません。そのかたが私たちの身代わりとなり、泥沼の底に沈んで死んでくれたことによっ て、私たちは救われ生命を与えられた。譬えるならそれが十字架による「救い」です。罪と死という泥 沼に沈むばかりの私たちを、神の御子キリスト・イエスは、どん底から支え持ち上げて下さって、ご自 分を犠牲にして救って下さったのです。それこそが「キリストによる神からの義」なのです。  だからこそ、パウロはここに「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イ エスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」と語るので す。限りない喜びと感謝をもって、全世界に告げられている救いの出来事(キリストの十字架によるま ことの救い)を宣べ伝えてやまないのです。これこそが「福音の中心」であると宣べ伝えるのです。で すから、ここに驚くべきことが告げられています。「キリスト・イエスを信じる信仰」という16節の御 言葉は、直訳するなら「キリスト・イエスの信仰」です。とても不思議な言葉です。私たちは「信仰」 というと「自分の信仰」だと思っています。だから「キリスト・イエスの信仰」と言われると戸惑うの です。この意味はこういうことです。英語で「私はキリストを信じます」というのは“I believe in Christ” です。ドイツ語なら“Ich glaube an Christus”、ラテン語なら“Credo in Christo”です。そこでカー ル・バルトが言うように、この“in”また“an”が大切なのです。つまり「私」が中心ではなく「キリ スト」が中心なのです。それが「私はキリストを信じます」ということです。だから私たちの信仰とは、 実は「キリスト・イエスの信仰」なのです。そのことがパウロにはよくわかっていた。キリスト中心の 信仰のみが真の教会を建てることがよくわかっていた。だからパウロは16節であえて「私たちの信仰」 とは言わず「キリスト・イエスの信仰」と語っているのです。私たちの「救い主」は私たち自身ではな く、神の御子イエス・キリストのみだからです。そう考えますと「義」という言葉も意味深長ですね。 「義」とは「我」の上に「羊」を戴いた漢字です。つまり「我」の上に神の子羊なるイエス・キリスト を戴くことです。それが「義」です。  今朝、併せて拝読した旧約のハバクク書2章4節は、このガラテヤ書の3章11節にも「信仰による 義人は生きる」という文章で引用されています。パウロはここに、旧約と新約を結ぶ壮大な神の救いの ご計画を見ています。イスラエルの歴史に代表される人類の歴史の目的は、イエス・キリストによる真 の救いに全ての人があずかることです。逆に言うなら、信仰によらない義人は生きえない。キリストに 贖われてのみ、私たちははじめて本当の自分に生き始めるのです。自分が神の御前に「かけがえのない 存在」とされていることを知り、神の愛と祝福と導きの内を、御言葉に養われつつ歩む、本当の自由の 歩みが始まってゆくのです。いわば、主なる神は、御子イエス・キリストとあなたを天秤にかけて、あ なたのほうが重いと宣言して下さるかたなのです。ここに福音の中心がある。福音が福音であることの 真の輝きがある。その輝きの中で、私たち一人びとりが、どんなに重い存在とならせて戴いているか。 そしていまここに、御言葉のやしないと、聖霊による新たな生命を戴いて、神の祝福の内を歩む私たち とされているのです。  なによりも、私たちはこの教会において、十字架と復活の主キリストに堅く結ばれた者とされていま す。主の御身体なる教会に結ばれ、真の礼拝者とされて、キリストの復活の生命にあずかりつつ、キリ ストと共に歩む僕とならせて戴いているのです。そこに私たちの尽きぬ幸いがあり、喜びがあり、感謝 と希望と自由があり、永遠の救いがあるのです。まさに「福音の中心」であるその救いに、神の「義」 に、主は全ての人々を招いていて下さるのです。祈りましょう。