説    教    詩篇89篇2節  マタイ福音書27章62〜66節

「死にて葬られし神」
2017・09・03(17361712)

 今日もご一緒に歌いつつ告白しましたが、教会最古の信仰告白である使徒信条に、私たちはひとつの
素朴な疑問を抱きます。それは、この短い信仰告白の中に、なぜキリストの「死と葬り」のみが強調さ
れているのかということです。使徒信条は、主イエスがなさった説教や奇跡については、ほとんど何も
語っていないのです。むしろ「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬
られ、陰府にくだり」と、主の「死と葬り」の出来事のみに告白を集中しているのです。しかも普通に
考えますなら「十字架につけられ」だけでも充分に主イエスの死を語りえているはずなのに、その後さ
らに「死にて葬られ、陰府にくだり」と告白している。あたかも畳みかけるように、キリストの「死と
葬り」の事実へと、私たちの心を集中させているのです。

 私たち人間にとって「葬り」とは「死」の完成にほかなりません。言い換えるなら、死が私たちの生
に対して決定的な勝利をおさめたことの象徴が「葬り」と言えるわけです。昔から「棺を覆ひて事定ま
れる」と申しますが、それは人間の自己満足(幻想)の世界にすぎません。むしろ私たちにとって「死」
は絶対の事実であり「葬り」は人間に対する「死」の絶対的な勝利の徴です。棺の蓋を閉めて、そこで
「定まれる」ものは「この人も確実に死んでしまった」という冷厳な現実のみなのです。それを否定し
うる力は、私たちには全くないのです。

 私は「葬り」について、ひとつの忘れがたい思い出があります。それは私が高校生の時、クラスでい
ちばん親しかった友人が、白血病のためわずか一週間の入院の後に亡くなったのです。陸上部の選手を
していた青年でした。私は級友たちと共に彼の家(大きな農家でした)で行なわれた葬儀に出席しました。
なんと友人の亡骸は、樽型の棺桶の中に蹲る形で押込められていました。僧侶の読経ののち、私は級友
たちと交代で友の棺桶を担ぎ、数百メートル離れた墓地に葬りに行きました。そこで深い穴の中に私た
ちは友の亡骸を静かに降ろし、上から土をかけました。そこには「葬り」にまつわるロマンティシズム
など微塵もなかった。あったのは無限の残酷さと虚無感と深い悲しみのみでした。まだ17歳の青年が
樽に押込められて、冷たい土の中に埋められてゆくことを、誰も止めることはできないのです。その日
以来、それが私にとって「葬り」の原体験となりました。私は牧師としてすでに数百人もの方々の「葬
り」を行なって参りましたが、私はいつでも、あの日、夕焼け空のもとで、暗い墓穴に埋められていっ
た友のことを思い起こすのです。

 私たちの主イエス・キリストは、まさにそのような、残酷きわまりない「葬り」の現実のただ中にこ
そ、身を横たえて下さった、降りてきて下さった、連帯して下さった救い主なのです。神の御子みずか
ら、私たちの「葬り」という虚無と絶望のただ中に介入して来て下さったのです。それは、どんなに言
葉を尽くしても語り尽くしえぬ大いなる恵みです。私たちの主はまさしく「葬り」の絶望の中に、みず
から降って来て下さったかたなのです。まことにわれらの主は「死にて葬られし神」にいましたもうの
です。

 あるドイツの神学者(Ernst Kaesemann)が、まことに驚くべきことを、主の「葬り」について語って
います。それは「死と葬りという虚無の現実の中でこそ、主イエスは最もたしかに、私たちとひとつに
なって下さった」という言葉です。私たちは「死と葬り」というと、それは私たちが人生から切り離さ
れることだと思っています。それは事実でしょう。たしかに私たちは「死と葬り」によって、情け容赦
なくあらゆる人間関係から切り離され、徹底的に孤独になります。死は無情なまでに孤独な出来事です。
しかしそこに、ただお一人、連帯して下さったかたがおられる。「死と葬り」の事実の中に介入して来て
下さったかたがおられる。主イエスは私たちを、死の彼方においてさえも孤独にはなさらないのです。
徹底的に私たちと共にいて下さるのです。

 そのことは、実は使徒信条の中に、すでに明確に示されています。主イエスの御生涯について「処女
マリヤより生まれ」から「十字架につけられ」まで、全てその動詞の主語は主イエスご自身です。この
主語は変換不可能です。「主」の代わりに「私」とか「私たち」という言葉を入れることはできないので
す。しかしその中にたったひとつの例外がある。それが「死にて、葬られ」という告白です。この動詞
だけは、いつの日か必ず、私たちに用いられる時が来るのです。「聖霊によりて」宿ったわけでもなく「十
字架につけられ」たわけでもない私たちですが、「死にて、葬られ」ということだけは、この自分の身に
もやがて確実に起こることを誰も疑うことはできません。それならば、主イエスはここで、私たちと共
に「死と葬り」とを徹底的に共有して下さったのです。

 今朝のマタイ伝27章62節以下を見ますと、その最後の66節のところで「そこで、彼ら(パリサイ
人たち)は行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた」とあります。理由は、主イエスの弟子
たちが主の遺体を墓から盗み出し、主イエスが「復活した」と言いふらすのを阻止するためでした。逆
に言うなら、彼らはそこで「葬り」が「死」の完成であることを、形の上でも示そうとしたのです。だ
から重い墓石にわざわざ「封印」までした上、番人を置いてまで、墓に人が近づけないようにしたので
す。「封印」とは、二度とそこが開かれることがないという印です。主イエスはまさに、その「封印」を
お開きになって復活されたのです。死の支配、否、死の完成(勝利)そのものである「葬り」の事実に、
主は最後の、永遠の審きをお告げになったのです。「死よ、汝の針はいずこにかある。死よ、汝の勝ちは
いずこにかある」と。

 主はまずご自身がまことに死なれ、そして墓に葬られたもうたことによって、罪によって滅びるほか
はない私たちと徹底的に伴って下さり、そして、復活によって滅びの徴である墓を、新しい生命の門と
して下さったのです。死が支配するはずの墓に、永遠の喜びの生命をもたらされたのです。墓を生命で
覆ってしまわれたのです。死はキリストの生命に呑みこまれてしまったのです。それこそが、今日の御
言葉にはっきりと示されている福音です。私たちは信仰によって、教会生活を通して、主イエスの死の
さまに等しくされ、同時に、主の御復活のさまにも等しくされた群れなのです。その復活の生命の確か
さを、全ての人々に宣べ伝えるのがこの礼拝であります。

 先ほど引用したケーゼマンが、キリストの「死と葬り」について、こう語っています。「このかたの死
と葬りによって、私たちの上に何が起こったのだろうか?。それは、教会によってキリストに結ばれた
私たちの誰ひとりとして、もはや決して死に支配されることがなくなったという驚くべき恵みの出来事
である。私たちは聴く『今よりのち、主にありて死ぬ死人はさいわいなり』との御声を!。この宣言を
私たちは、永遠に確かな福音として聴き続ける。私たちは自分の「死と葬り」という最も冷酷な現実の
中においてこそ、主イエスの死のさまに堅く結ばれ、同時に復活のさまに堅く結ばれている。主イエス
は私たちの死をご自分の中に取り込んでしまわれた。私たちの死の意味は根底から変えられた。私たち
は主イエスと共に生き、主イエスと共に死ぬ。死においてさえ、私たちは孤独ではありえない。「死にて
葬られし神」なる主イエスの満ち溢れる恵みのご支配のもと「死は生命に呑み込まれてしまった」のだ。
神との交わりを全く失っていた私たちの絶望の死を、このかたのみがご自分の「死と葬り」において、
ものの見事に贖って下さったからである」。

 私たちの教会の、鎌倉霊園の墓所の墓石には「夜は夜もすがら泣き悲しむとも、あしたには喜びうた
はん」と、詩篇30篇5節の御言葉が刻まれています。この「夜は夜もすがら泣き悲しむとも」とは、
私たちの人生そのものに関わる生命の福音の御言葉です。たとえ私たちの人生が、どんなに冷酷な「死」
の支配のもとに置かれようとも、私たちは私たちの永遠の主(十字架の主)イエス・キリストによって、
すでに「喜びのあした」(朝)を迎えているのです。墓は復活の生命の門に変えられたのです。その、死
に打ち勝ちたもうた主イエスの恵みのもとでこそ、私たちは愛する者たちの「葬り」を執り行うのです。
封印された墓は既に主によって打ち開かれ、復活の生命を証しする“生命の門”に変えられたのです。
やがて巡り来るであろう私たち自身の「死」と「葬り」においてさえも、この同じ主が、限りない恵み
をもって支配していて下さることを、全てにまさる喜びと慰めとして、私たちは信じ、告白し、宣べ伝
えるのです。

 詩篇の89篇2節にこうありました「あなたのいつくしみはとこしえに堅く立ち、あなたのまことは
天のように、ゆるぐとはありません」。これこそ「死と葬り」を経験して下さった復活の主の恵みです。
主の恵みのご支配こそ「とこしえに堅く立ち…ゆるぐことはない」のです。「死にて葬られし神」なるイ
エス・キリストの恵みの確かさに、私たちは生命のかぎり、死を超えてまでも、生かされているのです。
祈りましょう。