説     教    詩篇103篇3〜5節  マルコ福音書2章1〜12節

「汝の罪ゆるされたり」
2017・08・27(説教17351711)

 主イエス・キリストは、ガリラヤ地方における伝道の拠点を、カペナウムにある弟子の一人シモン・
ペテロの家にお定めになりました。ことの発端は、このペテロの姑の熱病を主イエスが癒したもうたこ
とでした。重い病気を主イエスに癒して頂き、主を信ずる者とされたペテロの姑は、その感謝を、主イ
エスに自分の家を提供するという形であらわしたのです。実際に今日、ガリラヤ湖畔のカペナウムの遺
跡を訪ねますと、ペテロの家の跡といわれる場所に「世界最古の教会ここに建設される」と4ヶ国語(英
語、ドイツ語、ヘブライ語、アラビア語)で書かれたプレートが置かれています。まさにカペナウムのペ
テロの家こそは「世界最古の教会」となった記念すべき場所なのです。

 さて、ともあれ、そのペテロの家に「主イエスがおられる」と伝え聞いた大勢の人々が、ガリラヤ中
の町々村々から、その小さな家に集まって参りました。今朝のマルコ伝2章1節以下を見ますと「幾日
かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまがないほどになった」とあります。小
さな家が群衆によって埋め尽くされた状態になったのです。この様子を見た弟子たちは驚き慌てたこと
でした。「いま先生は疲れておられるのだから」と群集を諫めたことでした。しかし主イエスは、集まっ
てきた群集に「御言を語っておられた」と記されています。

 ただでさえ狭いペテロの家は、集まってきた夥しい群衆に取り囲まれ、家の外側も内側も、文字通り
“立錐の余地もない”状態となっていたのです。家に入れない人々は、窓から漏れてくる主イエスの御
声を聴こうと、必死に耳を傾けていた様子がわかります。そのような、ある意味「異常事態」のただ中
で、主イエスは集まってきた人々に福音をお語りになりました。主イエスの御言葉はすべてが「福音」
です。私たち人間の生命と慰めと勇気と平安を与えるものです。そこで2節に「御言を彼らに語ってお
られた」とあるもともとのギリシヤ語は、ずいぶん長い時間、それこそ幾日も続けて説教をなさってお
られたことを示しています。そして日を追うごとに、ペテロの家に集まる群集の数は減るどころか、ふ
え続けていったのです。

 そのようなある日のこと、予期せぬ出来事が起りました。それは3節以下に記さているように「人々
がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた」ことです。「中風」というの
は“寝たきりで歩けない状態”であったということです。たぶんこの人も、またその家族や友人たちも、
何とかこの病気を治そうと、医者を訪ね薬を求め、四方八方手を尽くしたに違いありません。しかし病
気は少しも良くならず、かえって悪くなるばかりだった。しかもこの人は自分では動くことも歩くこと
もできませんから、主イエスの噂を聞いても、自分からはどうすることもできなかった。完全に無力で
あったのです。

 正岡子規という人が「病床六尺」という随筆を書いています。脊椎カリエスのために非常な苦しみを
経験した人です。子規はあまりの苦しみから「死にたい」と叫ぶことが幾度もあったそうです。それを
聞いた石井露月という門人が「そんなことを言うてはなりませぬ」と諌めた。すると子規は「他人でさ
え、それほど死なせたくないと言っているものを、なんぞ自分の命が惜しう無うてなるものか。その大
事の大事の命も要らぬ、どうぞ一刻も早く死にたいと願うは、よくよくの苦痛あるためと思はずや」と語
った。ヨブと友人たちとの対話でもわかるように、本当に苦しみの中にある人間の言葉は、しばしば他人に理
解され難いのです。理解を超えた言葉にならざるをえないのです。その意味で、苦しみは人間から言葉を奪う、
というよりも、言葉が変質するのです。その「変質した言葉」を通訳してくれる人が必要なのです。

 苦しみに押しひしがれ、言葉を奪われた人間は、自分の存在の重みに対して、沈黙の中で孤独に向き合わざ
るを得ません。重い病気を経験した人は、まさにその孤独の中で、変質した言葉を通訳してくれる人を必要と
しています。苦しみを理解し、寄り添ってくれる人を必要としています。言い換えるなら、私たち人間は苦し
みの経験の中でこそ、人間にとって本当に大切な「生命の言葉」を求める歩みを始めるのです。いわば苦しみ
が人生の「突破口」となって、自分の殻を打ち破り、自分の存在を根本的に支えるもの、超越的な救い主を求
める歩みを始めるのです。

 この中風の男性にとって、変質した言葉の通訳となってくれたのは、彼を担いで主イエスのもとに連れて行
ってくれた友人たちでした。その道のりはかなり遠かった可能性もあります。何日もかかって、彼は友人たち
に担がれて、ペテロの家にやって来たのかもしれません。主イエスにお目にかかって、生命の言葉を(罪の赦
し=救いを)戴くためです。ところが、ペテロの家は既に大勢の群集で埋め尽くされていて、家の中に入るこ
となどとうてい不可能でした。普通ならそこで諦めるところです。しかし彼らは諦めなかった。神の子イエス・
キリストにしか真の救いはないのです。彼らは実に大胆果敢な行動に打って出ます。なんと中風の友人を家の
屋根の上まで担ぎ上げ、屋根瓦を剥がして大きな穴をあけ、その穴から中風の友人を、担架の四隅に縄をつけ
て部屋の中に吊り降ろしたのでした。

 居合わせた人々はみな、唖然としたことでした。考えてもみて下さい。いきなり家の天井に大きな穴が開い
たと思いきや、そこから担架に乗せられた病人が吊り下ろされてきたのです。人々の頭上に容赦なく瓦のかけ
らや土埃が降り注ぎました。このような非常手段を取ってまで、彼らは主イエスに全てを委ねたのです。この
かただけが、この大切な友人を救って下さると信じたからです。人の家の屋根を壊してまでも、友人を主イエ
スに会わせようとしたのです。それは立派な信仰告白です。つまり翻訳された中風の人の言葉はこれでありま
す。「主よ罪人なるわれを救いたまえ」。この言葉においてこそ、中風の人も友人たちもひとつの群れとなった
のです。

 そこで5節をご覧ください「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪は赦された』と
言われた」とあります。主イエスがご覧になったのは、この中風の人の信仰、そして彼を非常手段をもってま
で主イエスのもとに連れて来た友人たちの信仰でした。「牛に引かれて善光寺参り」と言う諺があります。そ
れは“他力に頼った信仰”(他人まかせの信仰)という意味ですが、主イエスはそれを限りなく祝福して下さっ
たのです。たとえいかなる理由であっても、どのような手段を通してでも、主イエスのもとに来た全ての人を、
主はかならず祝福し、救い、新たな生命を与えて下さいます。だから本当の伝道は人を礼拝に誘うことです。
主イエスのもとに吊り降ろすことです。そして主イエスのもとに吊り下ろされた人に、主は私たちの思いを遥
かに超えた救いの御業を現して下さるのです。

 旧約聖書の詩篇103篇を併せてお読みしました。そこで詩人は「わがたましいよ、主をほめよ。わがうち
なるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にと
めよ」と歌っています。この詩人が主の御名を讃美するのは、測り知れぬ罪の支配から、ただ主なる神のみが、
贖い出して尽きぬ生命を与えて下さったからです。「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての
病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ」て
下さる。そして、この詩の終わりでこう歌うのです「主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはす
べての物を統べ治める…主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。
わがたましいよ、主をほめよ」。

 私たち人間は、たとえこの世界において何を得ましょうとも、神に対する罪を解決されないままでは「失わ
れた者」(生命なき者)にすぎません。神に立ち帰らずして、魂は孤独のままであり、言葉は失われたままです。
わが国のある優れた哲学者が「原罪について」という文章の中で「原罪の問題、すなわち、神に対する罪の問
題ほど、近代社会において軽んぜられた問題はない。しかし実はそこにこそ、人間にとってあらゆる問題の本
質的な解決への全てが含まれているのである」と語っています。

 神は私たちを罪の暗黒の中に放置したまわず、これをいかにしても救うために、最愛の独子イエス・キリス
トを世に遣わして下さいました。屋根から友人を主のもとに吊り降ろした人々の行為を「非常手段」と呼ぶな
らば、全人類に対する神の、御子イエスを賜わった愛の行為こそ、本当の意味での「非常手段」と言わねばな
りません。言い換えるなら、今日の御言葉のこの出来事は、天を打ち破ってまでも、罪びとなる私たちに対し
て主なる神か介入して下さった、その救いの非常手段に応答する、私たちの非常手段なのです。それゆえに主
は彼らの信仰をご覧になって「わが子よ、あなたの罪は赦された」と宣言して下さったのです。まず主なる神
の取りたもうた非常手段なるクリスマスの出来事、そして主の御生涯と十字架と復活の出来事によって、私た
ちは生命の言葉を回復し、新たな存在へと造りかえられ、罪の支配の下から、神の永遠の愛と恵みの御支配の
もとへと移された喜びに生きはじめる。「わがたましいよ、主をほめよ」との、真の礼拝者たる喜びに生きは
じめるのです。

 単に私たちがこの人生において物質的な利益を受け、健康から健康、安心から安心、成功から成功へと進む
ことが、神の愛なのではありません。私たちに対する神の御心とは、そんな小さなものではない。そうではな
く、私たちがこの壮大な神の世界である人生において、救い主なるイエス・キリストを見いだし、罪のまった
き贖いによって新たな永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)を受け、教会に結ばれた、新しい、キリスト
と共なる人生を歩むようになることです。私たちの全存在が、身も心も魂も全てが、キリストのもとに回復さ
れてゆくことです。真の自由と平安を得ることです。主イエス・キリストによる罪の全き贖いと赦し、そして
復活の永遠の生命こそ、神が私たち全ての者を招いておいでになる、限りなき生命の祝福にほかならないので
す。

 まさしく、今朝の御言葉のこの「中風の人」こそ、私たち一人びとりのことです。そして、この人が「子よ、
あなたの罪は赦された」との主の極みなき救いの宣言によって、新たな者とされたように、私たちもまたこの
主の教会において、憎みつつも安住していた死の絶望の床から立ち上がって神を讃美し、神と共にその限りな
い祝福と平安のもとを生きる、新しい人生、新しい生命を与えられているのです。「子よ、あなたの罪は赦さ
れた」。いまここに、主の恵みの宣言が、生命の言葉が、私たち一人びとりに鳴り響いています。ここに、全
ての人々のまことの救いがあるのです。祈りましょう。