説    教     詩篇54篇1節    ヨハネ福音書17章11節

「御名による救い」
2017・08・20(説教17341710)

 私たちは祈るとき、かならず最後に「この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます」
と申します。そしてその後に「アーメン」と唱えるのです。私たちはこの「主の御名によりて祈る」
ということを日頃、どれほど大切なこととして感謝し受け止めているでしょうか。「御名によって」と
は元々のギリシヤ語では“エン・ホノマティ”という字です。この“エン”とは英語の“イン”にあ
たる言葉ですが、それ以上に「寄り頼む」という意味があります。つまり「キリストの御名によって
祈る」とは「キリストの御名に寄り頼んで祈る」ことなのです。これが私たちに与えられている大き
な恵みであり祝福です。私たちは「キリストの御名に寄り頼んで祈る」者たちとされているのです。

 そういたしますと、このことは、ただ祈りの場合だけではなく、信仰生活の全体、つまり私たちの
日常生活全体についても言える、大きな祝福なのではないでしょうか。私たちの日常の生活の全体が
いつも「主イエス・キリストの御名に寄り頼む」ものとされているのです。そのような生活へと、私
たちは日々新しく招かれているのです。それならばなおのこと、私たちがいつも「主イエス・キリス
トの御名によって祈る」のは、それ自体がたいへん大きな恵みであり祝福であると言わねばなりませ
ん。

 今朝お読みしたヨハネ伝17章11節において、主イエスみずから、私たちのためにこのように祈り
たまいました。「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみ
もとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたした
ちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。この11節の主イエスの祈りは、大きく
分けるなら3つの部分から成り立っています。第一に、主イエスは私たちの罪の贖いとして、十字架
にかかって死なれ、復活されて天の父なる神のみもとにお帰りになるということ。第二に、主イエス
が世を去られた後にこそ、主の弟子たちはキリストの御名によって、あらゆる世の災いから守られて
いるということ。第三に、主イエスと父なる神が一つでありたもうように、弟子たちもまた一つとさ
れるということ。この3つの恵みを主イエスは明らかに示して下さったのです。

 そこで、まず第一のことを顧みてみましょう。主イエスが十字架にかかって死なれ、天の父なる神
のみもとにお帰りになるとは、いかなる恵みをあらわすのでしょうか?。それは主イエスの「栄光」
と深く関わっているのです。何よりも主イエスは、私たちの罪と滅びを担って十字架に死なれ、私た
ちの罪の贖いを成し遂げられることを「わたしの栄光」とお呼びになりました。ふつう私たちが「栄
光」という言葉で想像することは、自分の栄誉や利益になることです。しかし主イエスは、罪人なる
私たちの身代わりとして、ご自分の全てをお献げになることを「わたしの栄光」とお呼びになったの
です。栄誉ではなく、限りない恥辱を、利益ではなく、墓に葬られることを、称賛を受けることでは
なく、罵られて死なれることを「わたしの栄光」とお呼びになったのです。つまり主イエスの「栄光」
とは、主イエスの十字架の死と葬りの出来事をさすのです。

 山室軍平は「民衆の聖書」という注解書の中で、今朝の11節について次のような例話をあげてい
ます。ある人が深い穴に落ちてしまった。穴の底から出ることができず絶望しておりますと、上から
人の声がする。それは釈尊が覗きこんで呼びかける声であった。「おやおや、お前はなんという因果な
場所に落ちたのだ。それはお前の因縁であるから、どうしてやることも出来ぬ。諦めて往生するがよ
い」。またしばらくすると、今度は孔子がやって来て、同じように穴を覗きこんで言った。「おやおや、
お前はどうしてそんな惨めな目に遭うているのだ。それはお前の平生の心掛けが悪かった所為である
から、自業自得である。残念だが助けることはできぬ」。最後にやって来たのは主イエス・キリストで
あった。主イエス・キリストは、穴の底にいる人のもとに、黙って降りて来て下さり、その人を抱き
かかえて、穴から救って下さった。この3人の中で誰が彼の救い主であるか。答えは明白であろう。
「イエス・キリスト、この御名のほかに私たちの救いはない。天上天下、この唯一の御名を除いて、
いかなる名にも救いの権威はないのである」。

 第二に、主イエスが世を去られた後にこそ、主の弟子たちは主の御名によって、世の全ての災いか
ら守られているとは、いかなることでありましょうか。主イエスは「聖なる父よ、わたしに賜わった
御名によって彼らを守って下さい」と祈られました。まさしく私たちは「主の御名によって守られて
いる」のです。私がいつも愛用しているギリシヤ語の辞書、ドイツのバウアー(W.Bauer)という人が
生涯をかけて編纂した辞書ですが、この「御名」(オノマ)という言葉の訳語として“authority”つ
まり「権威」という訳語を上げています。つまり「キリストの御名」とは何よりも「キリストの救い
の権威」なのです。それなら私たちが「主イエス・キリストの御名によって」祈るのは「主イエス・
キリストの救いの権威によって」祈ること、さらに申すなら「主イエス・キリストの救いの権威に寄
り頼んで」祈ることです。

 そこで、この場合の「よりて」ということについて、バウアーは「いま既にその中にありて」とい
う意味だと申しています。私たちは、努力精進して、修業を積んで、選ばれた少数の者だけが救われ
る、というのではないのです。主は私たちに何ひとつ特別な資格や条件を求めたまわない。そうでは
なく、私たちはあるがままに、ただ信仰によってのみ、主の教会に連なることによって、キリストの
救いの権威の内に、いま既に入れられているのです。なぜならばこの「権威」とは、私たちのために
主が十字架と復活によって、すでに完成し成就して下さった救いの出来事だからです。教会はやがて
完成する神の御国の先取りです。礼拝は御国における聖徒らの永遠の礼拝の雛形です。キリストの復
活の勝利の生命に結ばれて生きることです。だから、キリストの救いの権威こそ、私たちの救いの出
来事そのものなのです。この「権威」とはギリシヤ語で「本質から出た力」という意味の字です。こ
の「本質」とはキリストによる唯一永遠の罪の贖いの出来事です。それがいま、私たちのために限り
なく豊かに与えられている。そのキリストの贖いの「権威」によって、私たちはいつも「御名により
て祈る」僕とされているのです。

 最後に、第三番目の事柄を顧みて参りましょう。なによりも私たちはこの17章の御言葉が、主イ
エスの「決別の祈り」であることを思い起したいのです。この「決別の祈り」の中身は主イエスによ
る救いの約束です。主イエスはその唯一の救いの御名(救いの権威)によって、私たち全ての者に確
かな救いを約束して下さったのです。なによりも、主はこの17節の祈りのあとで、私たちのために
十字架におかかり下さったのです。それなら今朝の祈りの全体に、主の十字架の恵みの重みがかかっ
ているのです。言い換えるなら、主はこの祈りにおいて、私たちのために救いを成し遂げて下さった。
だからこそ、私たちはどのような時にも「主イエス・キリストの御名によって」祈る幸いを与えられ
ているのです。キリストの十字架による、救いの確かさの内に生きる僕とされているのです。主の民
とされているのです。キリストの御身体の枝とされているのです。

 主は今朝の11節の最後に、こう祈られました。「それはわたしたちが一つであるように、彼らも一
つになるためであります」。私たちは人間どうしの一致や結束が大事なものだと思いつつ、同時にそれ
がどんなに弱く脆いものであるかをも知っています。そのような私たちだからこそ、主イエスはまさ
に溢れるばかりの救いの権威をもって祈って下さった。まさに主イエスの祈りにおいてこそ、私たち
のあらゆる弱さと破れが、すでに十字架の主の御手に担い取られているのです。何よりも「わたした
ちが一つであるように」と主は祈って下さった。父なる神と御子なるイエスが永遠の昔から完全な愛
の交わりの内にあられたように、私たちをもその永遠の愛の交わりの中に生きる者として下さったの
です。キリストにおける一致です。その完全な愛の交わりの内に、キリストを信ずる全ての者が入れ
られている、招かれている、在らしめられていると、主ははっきりと宣言して下さったのです。

 それは、具体的には、まさにこの教会を現しています。教会における礼拝の交わりを現わしている
のです。それこそ「聖徒の交わり」です。永遠の三位一体なる神の聖なる交わりの内に、主はご自身
の御身体なる教会を通して、私たち一人びとりを招いて下さったのです。父なる神と御子と聖霊との
完全な一致が、この礼拝において「聖徒の交わり」として私たちに現されているのです。御言葉と御
霊によるキリストとの出会い、キリストの御名による完き救い、キリストの権威の内にある喜びと平
安、それこそが、この一致の具体的な徴です。

 全世界の聖なる公同の使徒的教会の一致の徴であるニカイア信条において、そのことは最も明確に
現されています。ニカイア信条には「わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じま
す」と告白されています。父なる神、御子なるキリスト、そして聖霊なる神、この三位一体なる神を、
私たちは主イエス・キリストの御名によりて、つまり、キリストの絶大な救いの権威によりて救われ
た者として告白するのです。それは具体的には、まさにその三位一体なる神の永遠の交わりの、歴史
における生きた現れとしての「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じる」ことなのです。

 すでにそこに、私たちに完全な一致が与えられているのです。世々の聖徒らとの信仰による一致、
いま共に信仰の道を歩んでいる兄弟姉妹たちとの一致、そして何にもまして、イエス・キリストの御
名による三位一体なる神との一致が、私たちに豊かに与えられている。そこに何の価も条件もなくし
て、ただキリストを信ずる信仰によってのみ招かれている。そこに、私たちの変らぬ喜びがあり、ま
た平和があり、希望と感謝と幸いがあることを覚え、新しい一週間の生活へと遣わされて参りたいと
思います。祈りましょう。