説    教    創世記12章7〜9節   ガラテヤ書3章15〜18節

「救いの約束の確かさ」

2017・08・13(説教17331709)  パウロという人は、キリストの使徒になる以前はユダヤ教の律法学者でした。すなわち 「ラビ」と呼ばれるパリサイ人でした。ですから当然のことながら、旧約聖書の律法の解 釈に関しては専門家であり、いわばパウロは旧約聖書の権威(エキスパート)であったわ けです。そこで、パウロが今朝の御言葉であるガラテヤ書3章15節以下でまず明らかに しようとしていることは、神は全ての人に対して「救いの約束」(救いの出来事)をお与え になった、その「救いの約束」は限りなく確かなものであり、私たちはこれを信ずる者と してここに招かれているということです。  そこで、この「救いの約束」の内容は何かと申しますと、それは十字架のイエス・キリ ストを信ずる信仰による「神からの義」によって、全ての人が神の御国の民とされるとい う約束です。パウロはこの約束の確かさを説明するにあたって「遺言」の例を取りあげま す。すなわち15節に「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさ え、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれ にもできない」とあることです。これは今日でも、ほとんどそのまま通用する法律の解釈 です。遺言というものはそのような重さを持つのです。遺言を勝手に書き換えたり、付け 加えたりすることは許されないのです。  言い換えるなら「遺言」における主権(中心)はそれを書いた人の意思にあるのです。 だから遺言主の意思に叛くことは重大な法律違反なのです。そこでパウロは申します。人 間が書き、人間が遺言主である「遺言」でさえ、それほどまでに重んじられるのなら、ま してや「神の約束」(神がお定めになり、神ご自身が遺言主であられる救いの約束)はなお さら、確かであり、不変のものではないか。それを私たちは恵みとして頂いているのだと パウロは語っているのです。  ですから続く16節の御言葉にはこうあります。「さて、約束は(この「約束」とは、イ エス・キリストを信ずる「信仰による神からの義」によって、全ての人が救われるという 約束です)アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして『子 孫たちとに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、 キリストのことである」。ここにこそ、今朝のガラテヤ書の御言葉の中心があるのです。具 体的には、これは旧約聖書・創世記12章7節の御言葉です。神の御招きに従ってハラン の地を「行く先を知らぬまま」旅立ったアブラハムが「シケムの所、モレのテレビンの木 のもと」に着いたとき、そこで主なる神はアブラハムに「わたしはあなたの子孫にこの地 を与えます」と約束された、その祝福の出来事をさしています。  ここに、神ははっきりと「わたしはあなたの子孫に」と仰っておられる。そのことをパ ウロは今朝のガラテヤ書3章16節に引用して「ひとりをさして『あなたの子孫とに』と 言っている」と語っているのです。大切なのは、その「ひとり」とは「これは、キリスト のことである」と明確に告げられていることです。ここに今日の御言葉、ひいては新約聖 書全体を貫いている“明確な中心点”があります。それこそ十字架の主イエス・キリスト による永遠に確かな救いです。パウロによれば、否、新約聖書によれば、旧約の律法は全 て「十字架の主イエス・キリスト」を証しするものなのです。言い換えるなら、十字架の キリストに出会わない旧約(律法)の読みかたは間違っているということです。  そして、パウロはこの聖書の御言葉の読み間違いこそ、ガラテヤの諸教会を混乱に陥れ ている「偽教師たち」(福音的律法主義者たち)の決定的な誤りであると指摘しているので す。「偽教師たち」は旧約の律法を少しも正しく読んではいない。その証拠は、彼らが「キ リストによらなくても人間は救われる」と説いていることです。具体的に申しますと「割 礼のない洗礼は無効である」と「偽教師たち」が主張したことでした。「割礼」というのは 律法の定めです。しかしそれは、来たるべきキリストによる救いの確かさを世に告げるた めの「遺言」でした。つまり、遺言主は神ご自身であられるのです。それならば律法は「影」 であり「本体」はキリストにあるのです。ところが「偽教師たち」はただ「影」のみを追 って大切な「本体」のキリストを見失っていた。律法の掟だけにこだわり、律法が証しす る十字架のキリストを見失っていた。そこに「偽教師」たちの根本的な間違いがあると、 パウロは明らかにしているのです。  そこで、あたかもたたみかけるかのごとくにパウロは、今朝の17節以下にこのように 語ります。「わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、 四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことは ない。もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。 ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである」。よくぞ 計算したと思いますが、ここにパウロはシケムにおけるアブラハムに対する神の契約から、 シナイ山におけるモーセに対する十戒の授与(つまり律法の授与)までの期間を「四百三 十年」と算出しています。この数字は聖書のここだけに出てくるものです。そこで、その 「四百三十年」の基点であるアブラハムへの契約は、パウロの時代から遡れば1680年前 のことであり、私たちから見ればそれに約2000年が加わるわけですから、実に今から3680 年も前の出来事になります。そんなに大昔の神の約束であっても、それが今になって「破 棄」されることなどありえないとパウロは言うのです。  顧みて、私たち人間は、昨日の約束でさえも、本当に守れるかどうか怪しいのではない でしょうか。あるいは、守っているように見せかけながら、実は自分の都合の良いように 作り変えていることだってあるかもしれません。「約束は破るためにある」と豪語した政治 家もいたほどです。しかし、主なる神の「救いの約束」はそのような不確かなものではな いとパウロは申します。それは永遠の「遺言」であって、絶対に変わることのない確かな 「救いの約束」なのです。この「遺言」という言葉は英語では“テスタメント”と訳され ます。実はこの“テスタメント”とは聖書をあらわす言葉です。「神による不変の救いの約 束」という意味です。新約聖書は“New Testament”旧約聖書は“Old Testament”です よね。つまり「神による不変の救いの約束」こそ聖書が私たちに告げている福音の内容な のです。  それは続く18節に「相続」という言葉が出てくることで明確になります。それこそ「神 による不変の救いの約束」のことを指しているからです。まさに“福音そのもの”であら れる十字架の主イエス・キリストと、そのキリストが私たちに与えて下さる確かな救い、 永遠の生命、祝福と自由、それを私たちは「相続」する者とされている。神ご自身が私た ちの相続を保証して下さっている。それを無効にするいかなる力も存在しない。そういう ことがここに明確に告げられているのです。  その驚くべき恵みにおいてこそ、パウロは強調しています「もし(その)相続が、律法 に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない」と。これこそ「偽教師た ち」(福音的律法主義者)の主張に対するパウロの強烈な反論でした。彼らは「救いは律法 に基いて与えられる」と主張していた。しかしパウロは、アブラハムへの契約の後「四百 三十年」経ってから定められた律法は、その契約(イエス・キリストによる救いの約束) を保証するものである。だから救いは律法によるのではなく、むしろ「約束」(アブラハム への契約)に基くものなのだと明らかにしているわけです。このあたり、パウロがいかに 旧約聖書を正しく読んでいたかを示すものです。私たちの教会もまた、この、旧約と新約 を貫く中心点(すなわち歴史の主)が十字架のイエス・キリストであられる、という福音 理解に堅く立つ群れなのです。  主イエスは“山上の垂訓”の中で、特にマタイ伝5章17節以下にこう仰せになりまし た。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではな く、成就するためにきたのである。よく言っておく、天地が滅び行くまでは、律法の一点、 一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。…わたしは言っておく、あな たがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいるこ とはできない」。  今朝の御言葉において、まさに私たち一人びとりに、この主イエスの御言葉を正しく聴 いていか否かが問われています。主イエス・キリストは、人間は、律法という自力救済か ら福音という他力救済に乗り換えることで救われる、とお教えになったかたではないので す。そうではなく、神の御言葉は一点一画も損なわれず全うされねばならない。それが律 法である。だから、私たちの義が「律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決 して天国に、はいることはできない」のです。それでは、私たちはどのようにしたら、律 法学者やパリサイ人にもまさる「義」に生きうるのでしょうか。まさにその明確な答えを こそ、今朝の御言葉は私たちにはっきりと告げているのです。  それこそ今朝の御言葉の16節です。すなわちパウロが「それは、多数をさして『子孫 たちに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリ ストのことである」と明確に語っていることです。律法学者やパリサイ人は「神の義」(救 い)は、人間が律法を完全に守ることによって得られると主張しました。しかし、律法を 完全に守ることはいかなる人間にも不可です。どんなに正しい人間といえども神の聖なる 律法の前には無に等しいからです。私たちの内側には救いはないのです。大切なことは、 大切なかたは、ただ一人です。十字架の主イエス・キリストです。このかたのみが、私た ちのために、律法を完全に成就して下さった。このかたのみが、律法の成就者として、私 たち全ての者の罪の贖いのために十字架にかかって、ご自分の全てを献金―げ尽くして下 さった。このかたにのみ、私たちの唯一永遠の救いがあるのです。  だからこそ、主イエスはヨハネ伝5章39節に、律法学者たちにお教えになってこう言 われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書 は、わたしについてあかしをするものである」。そして同じヨハネ伝の6章28節にはこう もあります。「そこで、彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何 をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じ ることが、神のわざである』」。  聖書が告げる福音の本質は、まさに「神がつかわされた者(十字架の主イエス・キリス ト)を信ずること」にあります。私たちはこの神の御子を信ずる信仰によって教会に結ば れ、信仰による「神からの義」を受ける者とならせて戴いています。いまここに集う私た ち全ての者が、キリストを信ずる信仰によって「律法の義」に遥かにまさる「神からの義」 に生きる僕とされているのです。そして、そのことによって私たちは律法を全うする者と されているのです。それは、十字架の主が、私たちのために、私たちの滅びと絶望をさえ 担って、あの呪いの十字架に死んで下さったからです。まさに今朝のこのガラテヤ書3章 15節以下は、この十字架のキリストのみをさし示す御言葉として、私たちに「福音」とし て告げられている、神の限りない救いの約束そのものなのです。  ですから、テモテへの第一の手紙1章15節はこう告げられています。「『キリスト・イ エスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け 入れるに足るものである。わたし(パウロ)は、その罪人のかしらなのである」。パウロは この世界で最も確実なもの、それこそキリストによる救いと祝福の恵みであると語ってい るのです。それは「そのまま受け入れるに足るもの」なのです。私たちのためになされた 主の御業を、私たちは「そのまま受け入れる」者として、ここに招かれているのです。そ のパウロは、続けて、大きな喜びと感謝をもって、全世界にこの事実を語ります。「しかし、 わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない 寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるた めである。世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光 とがあるように、アァメン」。「罪人のかしら」であるこの私をも、神は救って下さったの なら、どうしてあなたが、あなたも、あなたも、救われぬはずがあろうか。神の祝福の内 にないはずがあろうか。これを知るとき、パウロは、否、私たちは、福音を宣べ伝えずに はおれません。そして、神への讃美・頌栄が私たちの日々の生活を形造ります。その恵み は、私たちの生にも、死にも、決して変わることはないのです。祈りましょう。