説     教     詩篇27篇10節    ヨハネ福音書14章18節

「汝を棄てたまわぬ神」

2017・08・06(説教17321798)  「焼野のきぎす夜の鶴」という諺があります。「きぎす」とはキジのことです。野原 に火事が起こりますと、火からわが身を守るために、野に棲む生き物たちがいっせい に逃げます。ところがどういうわけか、焼け跡から雉の死骸が発見される。この鳥は どうして逃げなかったのだろうと、不思議に思った昔の人がそっと雉の死骸を持ち上 げてみると、その下から生きたままのヒナが出てきた。そうかこの雉は巣に残ったヒ ナを守るために、たとえ身が焼かれても巣から離れなかったのだ。それを「焼野の雉」 と申しまして、子を守り慈しむ親の愛の譬えとなったわけです。万葉集にも「銀も黄 金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」という山上憶良の歌があります。世 の中の人は金や銀や宝石の類を貴ぶけれども、そのようなものより遥かにまさる本当 の宝は子供たちである。子供たちの尊さに較べるならこの世の宝など物の数ではない と万葉の人は歌ったのです。  そこで、現代社会においてはどうでしょうか。そのような古来の親の愛の譬えに反 するような、残念な出来事が少なくありません。家庭内における児童虐待致死事件、 パチンコ店の駐車場に幼子を置き去りにして熱中症で死なせてしまう、あるいは再婚 の際の連れ子を邪険にして飢死にさせる、そのような、親たる者の本義に叛くような 不祥事が報じられています。しかしそれでもやはり、世の中において決してありえな いことの一つの確かなしるしとして、親がわが子を見棄てるということがあるのです。 親がわが子を見捨てる。それは時代がいかに変ろうとも、ありえないこと、あっては ならないことの、最も確かな譬えなのです。  私たちの主イエス・キリストは、今朝お読みたヨハネ伝14章18節において「わた しはあなたがたを捨てて孤児とはしない」とはっきりと約束して下さいました。この 「孤児」とは元のギリシヤ語を直訳するなら「見棄てられた子たち」という意味です。 「わたしは、あなたがたを捨てて、見棄てられた子たちとは決してしない」と主はは っきりと言われるのです。ある意味でこれは私たちに“よくわかる”言葉です。「焼野 の雉」の譬えすらあることですから、ましてや慈しみに富みたもう主イエスは、私た ちを「見棄てられた子たち」などになさるはずはない。逆に言うなら私たちは、それ は「当然のことだ」と思っています。さらにその「当然」という思いを穿つならば、 自分は神に愛されて当然の存在であると、自分は神に見捨てられることなどありえな いという自己評価・自己認識が私たちの心の中にあるのではないでしょうか。  試みに、いま私たち自らに問うてみたら良いかもしれません。「わたしはあなたがた を捨てて孤児とはしない」という今朝の御言葉を聴いて、私たちの心の中に驚きがあ ったでしょうか?。この御言葉を聞いて、私たちの何人が感動し涙を流したでしょう か。むしろ私たちは「当然のことだ」としか感じていないのではないでしょうか。も しそうだとしたら、私たちは今朝の御言葉を神の言葉としてではなく人間の言葉とし て聴いています。言い換えるなら、これは何もキリストの言葉でなくても納得できる ものなのです。  ここで、全く逆のことを考えてみるとよいかも知れません。もしここで主イエスが 私たちに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とする」と言われたなら、私たちはどう 思うでしょうか。「それはひどい」と誰もが感じるでしょう。主イエスともあろうかた がと不審を抱き、戸惑いを感じるでしょう。「そんなイエス様にはもうついて行けない」 と思うでしょう。言い換えるなら、私たちはことほど左様に自分中心にしか御言葉を 聞いていないのではないでしょうか。私たちは御言葉によって砕かれる前に、まず御 言葉を自分の尺度に当てはめようとしていることがいかに多いことでしょうか。  横浜のあるミッションスクールで宗教主任をしている人が、中学一年の女子生徒た ちに「イエス様の、ここが好き、ここが嫌い」というアンケートを書かせました。す ると「ここが嫌い」という回答のほうが倍ぐらい多かった。いちばん多かったのは「偉 そうにふるまう」「よくわからない話をする」「自分がキリストだと見せつけている」 というものだった。中には「不潔そう」「あのロングヘアをシャンプーしたい」という のもあったそうです。それには「勝手にシャンプーしなさい」という宗教主任のコメ ントがありました。それに対して「イエス様のここが好き」という回答でいちばん多 かったものは「いつも一緒にいてくれる」「やさしい」「何でも許してくれる」という ものだったそうです。改めて、ミッションスクールの宗教主任の苦労を思うと同時に、 現代の女子中学生が主イエスについて抱いている素直な印象が聞けました。そして一 つのことを考えさせられました。  それは、教会に連なり信仰生活をしている私たちは、もちろん「イエス様のここが 嫌い」とは申しません。「シャンプーしてやりたい」とも言わないでしょう。しかし「い つも一緒にいてくれる」からイエスさまが「好き」だと、この女子中学生たちのよう に、素直にはっきり言いうる信仰生活を私たちは、いつもしているでしょうか。また 「ここが嫌い」という子供たちの思いを即座に打ち消してあげられるだけの、キリス トと共にある信仰生活を私たちは、いつもしているでしょうか。言い換えるなら「わ たしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と、主イエスが言われたことを、当然の こととしてではなく、大きな恵みとして、福音の喜びとして、祝福として、私たちは 聴き取っているか否かをいつも問われているように思うのです。  今朝あわせてお読みした旧約の詩篇27篇10節に「たとい父母がわたしを捨てても、 主がわたしを迎えられるでしょう」とありました。この詩篇27篇は、家臣であり将 軍であるウリヤの妻バテセバを、姦計を用いてわが手中にするという大きな罪をおか したイスラエルの王ダビデが、その罪をただ神によって贖われ赦された喜びと感謝を 献げているものです。その中でダビデは「たとえわが父母われを棄つるとも、主われ を迎え給わん」と歌っているのです。ダビデは、自分がおかしたあの大きな罪は、た とえ自分の父母に呪われ棄てられても仕方のないほどのものだと言うのです。それは、 ありえないこと、あってはならぬことが、実際に起こったのです。神によって造られ 祝福された人生が、自分の罪によって破壊され生命を失ったことです。それは存在そ のものの意味を失うことです。そしてその罪は、ただあらゆる人間関係の崩壊だけに とどまらない。それは本当には神との関係の崩壊に繋がるのです。神の愛に応えて生 きるべき人間が、その関係性を喪失するとき、肉体だけではなく魂が滅びるのです。 それを聖書では「からだの滅び」と言います。その意味でダビデの「からだ」は滅び たのです。彼の肉体にも魂にも死が纏わりついているのです。使徒パウロ、かつての パリサイ人サウロもその「からだの滅び」を経験しました。それはローマ書7章24 節において「わたしは何というみじめな人間なのだろう」と叫んだ、あのサウロの叫 びにあらわれています。  そのような私たちの世界に、主なる神は御子イエス・キリストによって、はっきり と、大いなる救いと恵みの約束を与えておられます。「たとい父母われを棄つるとも、 主われを迎え給わん」と。ここに主は力強く仰せになる。「わたしはあなたがたを捨て て孤児とはしない」と!。あなたがたを、この滅びの罪の「からだ」である世界を「見 棄てられた子たち」には決してしないと主イエスは約束して下さる。そこに、私たち の本当の救い、本当の平和と喜びがあるのです。  「母を尋ねて三千里」という物語があります。マルコという一人の少年が生き別れ になった母親を尋ねて辛い旅を重ね、ついに母子が再会して幸せに暮らすという物語 です。私たち人間はこの物語と同じように、まことの神を尋ねて旅をしている存在な のです。19世紀スウェーデンの牧師であり宗教哲学者であったゼーデルブロームとい う人は「人類の歴史はまことの神を尋ねて旅する旅人の歴史である」と語りました。 人間は誰でも例外なく、まことの神を尋ねて魂の旅路をさ迷っている存在なのです。 それは真の神を尋ねる旅路ですから、真の神に出会うまでは決して平安をえることの ない旅路です。これをアウグスティヌスは「告白」という本の冒頭でこう語りました。 「神よ、あなたは私たちをただあなたへと向けてお造りになった。それゆえ私たちは、 あなたを見いだし、あなたのもとに憩うまでは、決して休みをえることがない」。  「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。これは「当然の」言葉などではな いのです。この御言葉の中には、十字架の主イエス・キリストの測り知れない十字架 の重みがこめられているのです。すなわち神に棄てられてこそ「当然」であるほどの 矛盾、根本的な「からだ」の滅びを抱えた私たちの存在、そしてその私たちが生み出 すこの世界が、その罪の「からだ」のままに、十字架の主イエス・キリストによって 贖い取られ、その全ての罪を赦され、義とせられ、永遠の生命を与えられた出来事で す。十字架の主による罪の贖いの出来事です。まことの神から離れ、まことの神に叛 き、まことの神に立ち帰る道さえ知らないでいる私たちのために、まことの神みずか らが、ご自分を全く空しくされ、人となって、私たちの罪のただ中に降りて来て下さ った。そこにおいて、私たちの罪のために呪いの十字架を担われ、ご自分の肉を裂か れ血を流したもうて、私たちの赦しと贖いを成しとげて下さった。ただこの十字架の 主イエス・キリストの恵みによってのみ、私たちは今朝の御言葉を、まさしく私たち の「からだ」のよみがえりと祝福を告げる、福音のおとずれとして聴きうるのです。    「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」。これこそまさしく、私たちのため に十字架上に生命を献げて下さった贖い主の約束です。それは何にもまして確かな救 いであり、祝福であり、永遠の生命の約束なのです。「焼野のきぎす」どころではない。 主イエス・キリストは神の御子でありつつ、ご自分の全てを献げて私たちの滅びを担 い取って下さったのです。私たちに復活の生命を与えて下さったのです。その最も確 かなしるしこそ教会です。教会はキリストの復活の御身体の歴史における現れです。 そしてこの礼拝は、三位一体なる神との聖なる交わりの内に、私たちが御言葉と聖霊 によって新たされる幸いです。そこから、新しい人生の歩みへと、私たちは遣わされ てゆくのです。祈りましょう。