説     教    詩篇46篇1節   マタイ福音書11章28〜30節

「われ汝らを休ません」

2017・07・23(説教17301706)  私たちの人生には、しばしば私たちの意思に関わりなく、むしろ多くの意思に反して、 様々な苦労が絶えません。仕事上の苦労、生活の苦労、人間関係の苦労、健康上の苦労、 予期せぬ出来事によるストレスもあります。信頼する人に裏切られることもあります。数 えればきりがありません。そうした数々の苦労の中で、私たちは言いようのない“疲れ” を覚えています。現代社会を縁取るキーワードは「疲れ」です。かつては疲れても回復す る手立てがありました。現代社会は疲れても休むことすらできない状況が私たちを取り巻 いています。そのような潤いなき現実の中で、しかもなお、否それだからこそ、私たちは 本当の「休み」を求めてやみません。現代はかつてなかったほど、人間が本当の「休み」 を求めている時代なのです。  私たちの主イエス・キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもと にきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われました。これは主イエスが全ての 人に語られた無条件の招きの言葉です。主イエスが嘘偽りを言われるはずはありません。 「すべて重荷を負うて苦労している者は」の「すべて」とは文字どおり「すべて」の人を さしています。たとえいかなる苦労を背負っている人であっても、私のもとに来るならば、 私のもとに身を委ねるならば、その人には必ず本当の「休み」が与えられる。私があなた を休ませる、そのように主は約束して下さっているのです。  そこで、この御言葉は聖書の中で最も有名な御言葉の一つですが、しかし同時にこれは とても不思議な言葉だと思うのです。それは続く29節に「わたしのくびきを負うて、わ たしに学びなさい」と主が言われたことです。「くびき」とは今ではほとんど見られなくな りました。昔、田畑を耕す時に、牛や馬の首にかけて鋤を曳かせた道具のことです。漢字 で書くと車偏に「厄」と書きます。厄とは「絞める」という意味です。それはむしろ不自 由や苦労の象徴なのではないでしょうか。主イエスは「あなたがたを休ませてあげよう」 と言われたのに、その一方では「くびきを負いなさい」と私たちに命じておられる。私た ちはこれを、どのように理解したら良いのでしょうか。そもそもなぜ、主イエスはここに 「くびき」という否定的な言葉を用いておられるのでしょうか。  ここで大切なことは、主イエスは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と 語っておられることです。主はこのように言われたのです。「わたしのくびきを負うて、わ たしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる。わたしのくびきは 負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。私は農学校の出身ですので、実際に「くびき」 を扱った経験があります。私の場合は馬に鋤を引かせたのですが、軛を装着する場合いち ばん気を遣うのはバランスです。左右のバランスが取れていないと馬が疲れてしまうので す。特に古代イスラエルでは2頭の牛に「くびき」を引かせていました。同じ牛のように 見えますけれども生物ですから体力に差があります。強い牛と弱い牛がいます。癖も違い ます。そうした2頭の牛に「くびき」をかける場合、相互の力のバランスが崩れないよう に装着することが大切です。つまり強い牛には強く、弱い牛には弱く「くびき」を曳かせ ることが大切なのです。イスラエルは農業国ですから、当時の人々は主イエスの御言葉の 意味が直覚的に理解できたと思います。  どういうことかと申しますと、主イエスはここで「わたしのくびき」と言っておられる。 これは「主イエスと共に曳く軛」「主イエスが共に担って下さる軛」という意味なのです。 つまり、私たちの人生の重荷という「くびき」を、主イエスが共に担って下さる、一緒に 曳いて下さる、分かち合って下さる、共同作業にして下さる、「わたしのくびき」とはそう いう意味です。それが古代イスラエルの人々にはよくわかった。弟子たちなどはこれを聴 いて恐懼したに違いありません。神の御子みずから、私たちと同じ「くびき」を曳いて下 さる。私たちの人生の重荷を、神の御子みずから「わたしのくびき」と呼んで、私たちと 共に担って下さる。「あなたはもう、孤独なんかじゃないよ」と語り告げて下さる。語り告 げるだけではない、主イエスみずから隣り合って同じ「くびき」を担って下さる。そうい うことがこの御言葉を聴いた人々にはよくわかったのです。  徳川家康の家訓に「人生は重き荷を負ひて遠き道を行くがごとし急ぐべからず」という のがあります。しかし私たちは思います。「急ぐべからず」って、急ぐなんてできるはずが ない。急ぐより先に、まず私がこの「重荷」に圧し潰されてしまいそうだ。この「くびき」 に殺されてしまいそうだ。そして私たちは例外なくこう思うのです。この「くびき」さえ なかったら、この重荷さえなかったら、自分の人生はどんなに幸いだろうか。この「くび き」あるがために、自分の人生は喉元を絞め上げられているようなものだ。この「くびき」 が私の人生の呪いとなり足枷となっている限り、自分の人生には幸いなどありえない。  まさにそこにおいてなのです。まさにそのような疲れと絶望に捕らわれた私たち一人び とりに、主はいま明確に語り告げていて下さる。「わたしのくびきを負うて、わたしに学び なさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる」と!。主が私たちの人生の重 荷という「くびき」を共に担って下さるとき、力のバランスは主イエスに99%、私たちに 1%です。もしかしたら100%対0%かも知れません。私たちは主イエスが担って下さる「く びき」にぶら下がっているようなものです。そのとき、私たちは知るのではないでしょう か。私たちにとって「無いほうが良いもの」「あって欲しくないもの」「人生の呪い」「疲れ の源」でしかなかった「くびき」は、むしろ私たちに「休み」を与えるものになるのです。 この「くびき」があるから自分は疲れて惨めだと言うのではない、この「くびき」は主イ エスが共に担っていて下さる「くびき」であるゆえに、まさにこの「くびき」が私を休ま せ、私に生命を与え、私を慰め、立ち上がらせる力そのものとなるのです。「わたしのくび きを負うて、わたしに学びなさい」とは、そういう意味なのです。  そうしますと、今朝のこのマタイ伝11章28節以下は、実に驚くべき御言葉です。主イ エスは全ての人々に真実の「休み」(平安)を与えようと約束されました。しかも、それは 「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」という御招きと一つのものなのです。 私たちは「くびき」の無いところにこそ「休み」があると思っている。しかし本当の「休 み」は「わたしのくびき」すなわち“主イエスのくびき”を担うところにのみあるのです。 そこでこそ改めて聴くべきは29節前半の御言葉です。「わたしは柔和で心のへりくだった 者であるから」と主イエスが言われたことです。もし主イエスが名刺を持っておられたな ら、その名刺にはこの御言葉が記されてあったと思います。「柔和で心のへりくだった者、 ナザレのイエス」と。そこで、これも不思議な御言葉ですね。もし私たちが誰かに対して 自分のことを「私は柔和で心のへりくだった者です」と言ったなら、相手の人は怪訝な顔 をするに違いありません。  ですから、どうか私たちはこの御言葉の正しい意味を心に留めましょう。「わたしは柔和 で心のへりくだった者」とは、主イエスが私たちの罪の贖いのために担って下さった最大 の「くびき」つまり十字架の出来事を現わしているのです。つまり主イエスはこう仰って おられるのです。「私はあなたの罪と死を担って十字架にかかり、あなたを救い、あなたに 永遠の生命を与えるために世に来た者である」と!。それが「わたしは柔和で心のへりく だった者」の意味です。特に「柔和」と訳された元々のギリシヤ語は“タペイノプロシュ ネー”という言葉ですが、これを直訳すれば「くびきを担う僕の心」です。主は私たちの ために、私たちの人生の「くびき」を担って、私たちに真の「休み」を与えて下さる神の 僕・キリストとして世に来て下さったかたなのです。  そうすると、もはや私たちの「くびき」は、ただ私たちの「苦労」や「悩み」だけの問 題ではありません。主イエスの御眼には私たちの「疲れ」の本質がありありと見えていま す。私たちのあるがままの姿、偽らざる人間の魂の状態が、主イエスの御目には白日のご とく明らかです。それを主は「養う者を失った羊の群れ」と言われました。全ての人間が そうした孤独の内にあることを、主のまなざしのみが見抜いていて下さる。そこに私たち の「疲れ」の真の理由があることを主が見抜いていて下さる。それこそ聖書が「罪」と呼 ぶ、全ての人間の心の最奥に潜む「重荷」なのです。まさにその重荷を「くびき」を十字 架において担って下さる救い主として、まさに「柔和で心のへりくだった者」として、主 は私たちのもとに来て下さり、私たちに真の「休み」を与えて下さるのです。  今から1500年ほど前に生きた、アウグスティヌスという人は、まことの神を求めてさ 迷い続けた、自分の若き日の経験を綴った「告白」という本の最初のページに、このよう に記しました。「神よ、あなたは私たちを、ただあなたに向けてお造りになった。それゆえ、 あなたのもとに憩うまでは、私たちは決して、真の休みを得ることはないのである」。ここ に「あなたに向けて」とあるのは「神の愛に応えて生きる存在として」という意味です。 神から離れたままで、私たち人間にはいかなる真の「休み」もありえません。神との生き た関係を失ったままで、この世のどのような富、いかなる人間関係も、魂の孤独と疲れを 癒す手立てとはなりえません。ただ主イエス・キリストのみが、失われた私たちを見いだ して、父なる神のもとに回復して下さる唯一の救い主です。このかたのみが、私たちに永 遠の生命を与えて下さり、私たちの癒されえぬ「疲れ」を根底から癒し、真の「休み」を 与えて下さるのです。  だからこそ主イエスは、いまはっきりと私たちに告げて下さいます。「すべて重荷を負う て苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたし は柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからである」。主はこう言って下さるのです。あなたは弱いままで良いの だ、あなたの人生の「くびき」を、私の手に委ねなさい。私があなたの「くびき」をあな たのために担うとき、あなたに本当の「休み」が与えられる。その「くびき」はもはやあ なたの足枷などではなく、あなたに慰めと勇気と平安を与え、あなたを立ち上がらせ、力 を与えて歩む者とする「わたしのくびき」である。「わたしのくびき」を負いなさい。私と 共に歩む人になりなさい。私が与える救いの恵みのもとに、離れることなく立ち続けなさ い。主はそのように、私たち一人びとりに語り告げていて下さるのです。私たちの人生の 重荷を「わたしのくびき」とさえ呼んで下さるのです。  主は言われるのです。重く、辛く、苦しい人生の「くびき」に疲れている人は、誰でも、 どんな人でも、私のもとに来なさい。そのあなたの「くびき」のいっさいを私に委ねなさ い。そのとき「あなたの魂に休みが与えられる」。あなたが負いきれず打ちひしがれていた、 その重い「くびき」は、私が共に担う「負いやすく、軽やかなくびき」となる。私はあな たと共に、あなたの全存在を最後まで、死を超えてまで共に担う。そのように私たちの主 ははっきりと告げていて下さるのです。言い換えるなら、こういうことです。主は「私は あなたの『くびき』を『わたしのくびき』とする」と仰せ下さるのです。わたしがあなた の「くびき」を、あなたと共に曳く。他の誰でもない、私があなたと「くびき」を共にす る。そのとき、それはもはや、あなたの存在を押し潰す「重荷」であることをやめ、あな たに真の「休み」(平安)を与える祝福の生命(限りない神の恵み)として、あなたを根底から 支える。そのように主ははっきりと約束して下さるのです。  そのために、ご自分の全てを、私たちの罪の贖いとして、献げ尽くして下さったのです。 私たちのために、十字架を負うて下さったのです。「あなたの罪は、わたしが贖った」と宣 言して下さるのです。「わが子よ、汝の罪は赦されたり」と告げていて下さるのです。この かたが、私たちを招いておられるゆえに、私たちはいまここに、心からの従順(信仰)をも って、主にお従いいたしましょう。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもと にきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。祈りましょう。