説    教  エレミヤ書32章31〜34節  ヨハネ福音書21章9〜14節

「生命の道」

2017・07・16(説教17291705)  ロシアの作家ドストエフスキーの文学作品の凄さは、何と申しましてもドストエフス キーが人間を「その極限において観ている」点にあります。ある人はそれを、ドストエ フスキーは人間存在すべてを「その消失点」(vanity point)において見極めているのだ」 と申しました。この「消失点」とは言い換えるなら「人間の絶対的な限界」ということ です。更に申すなら、全ての人間存在は「死すべきもの」であるということです。罪と 死こそが、私たちの存在を規定している唯一の存在様式である。すなわち、使徒パウロ の語る「罪と死の縄目」こそが、人間存在を規定している唯一の確実性なのだというこ とです。  しかしながら、ドストエフスキーが発信するメッセージは、ただ「消失点」だけに終 わりません。その背後にある中心主題を読み取ることが大切です。それこそドストエフ スキー文学の本質です。それは何かと申しますと、まさしく「虚無的」であり「消失点」 でしかない私たちの存在を、限りなく愛し、これを救い、これに生命を与えるために、 自ら虚無に降られ、消失点に身を置いて下さった、まことの唯一の神がおられるという 事実です。そのかたこそ主イエス・キリストであるという福音のメッセージです。だか らカール・バルトはドストエフスキーのことを「文学者の形をとった神学者である」と 称しています。  私たちがとるべき「生命の道」は「悪霊」の中のキリロフのように、自分が神になら んとする道を行くことではない。それはニーチェが選んで絶望した道です。そうではな く「罪と罰」の中のラスコーリニコフのように、本当に十字架と復活の主、神の御子イ エス・キリストを信じて、イエス・キリストの恵みの御手に自分を明け渡すことです。 それこそがドストエフスキーの作品が発信する最大のメッセージなのです。  そこで、今朝の御言葉・ヨハネ伝21章9節以下を改めてお読みしますと、そこに私 たちが生きるべき「生命の道」が、既に主イエス・キリストみずからの御手によって備 えられている、差し出されている、という明確な福音を私たちは聴き取るのです。改め て9節を見るとこう記されています。「彼ら(弟子たち)が陸に上って見ると、炭火が おこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに 言われた、『今とった魚を少し持ってきなさい』。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引 き上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網 はさけないでいた」。  夜通し苦しい漁をして何ひとつ獲れず、全ての労苦が徒労に終わった弟子たちは、疲 れと飢えと苛立ちに憔悴しきっていました。うなだれて帰る岸辺は「絶望の岸辺」でし かなかったのです。人生を生きるために舟に乗って沖に出た弟子たち、しかし何ひとつ 収穫はなく、絶望の岸辺に帰らねばならなかった。それはそのまま「消失点」に纏わり つかれた私たち人間の姿です。そのような人生に、そもそも何の意味と価値があると言 うのでしょうか?。私たちの存在と人生に消失点が纏わりついているかぎり、そこには 虚無しかありえないのです。主の弟子たちの虚無は、私たちの姿なのです。  そこでこそ今朝の御言葉は、はっきりと私たちに福音を語り告げています。たとえ私 たちの人生に何ひとつ収穫がなくても、私たちをそのあるがままに、かき抱くように、 限りなく愛して下さるかたがおられる。そのかたが、既にいま私たちの人生の岸辺に立 っていて下さる。もはやそのとき、その岸辺は絶望の岸辺ではない。「生命の道」として 私たちの人生全体を祝福するのです。  それは何よりも、教会生活に現わされた大きな祝福です。私たちは一週間の初めの日 曜日を「主の日」として礼拝を献げ、世の旅路に遣わされてゆきます。それは喩えて言 うなら、港から船が沖に出てゆくようなものです。沖に出た私たちは、主日のたびごと に、帰るべき主のもとに「生命の道」に帰ってゆく。そこで新たな御言葉による生命の 喜びと幸いにあずかり、また新たなる一週間の旅路に出てゆくのです。  船をよく見ると、必ず母港の名が記されています。その船がどこの港に所属し、どこ に帰る船なのかがわかるのです。私たちも同じです。使徒パウロはピリピ書3章20節 に「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるの を、わたしたちは待ち望んでいる」と語っています。ここに「来られる」とあるのはラ テン語で“アドヴェント”です。いまあなたのために、あなたを救い、あなたに永遠の 生命を与えるために、主がここに来て下さった。いま、主が虚無の岸辺に既にお立ちに なって下さる。だからいま、私たちの国籍は天にあるのだと、パウロははっきりと告げ ているのです。死の縄目(消失点)に絡みつかれた私たちを救うために、主イエス・キ リストはご自身の全てを犠牲にして世に来て下さいました。ヨハネ伝3章16節のとお りです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信 じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである」。  それゆえに、今朝の御言葉には同時に、限りない祝福の約束が告げられているのです。 それは今朝の御言葉の11節以下に、主イエスの御言葉のままに舟の右に網を降ろした ところ「百五十三匹の大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさ けないでいた」とあることです。この「百五十三匹」という数字は、主イエスの時代の 古代イスラエルにおける魚の全種類でした。ですからこの数字は、全世界の全ての人を 救いたもう主の恵みの約束を現わすものです。主イエス・キリストの十字架による贖い の確かさを示すものです。しかも、それはみな「大きな魚」でした。漁師にとって価値 あるものは「大きな魚」です。同じ鯛でも、20センチの鯛と50センチの鯛とでは、価 値は十倍ぐらいの差があるのです。私たちは主なる神の御前に、かけがえのない価値あ る存在とされているのです。御子イエス・キリストをさえ惜しまず世に賜わった神の愛 によって、私たちはあるがままに、限りない価値ある存在とならせて戴いているのです。 愛には2つの種類があります。愛する対象に価値があるから愛する愛と、愛することに よってその対象に価値を与える愛です。前者は受動的かつ消極的な愛であるのに対して、 後者は能動的かつ積極的な愛です。この後者の愛を、聖書の元の言葉では“アガペー” (神の愛)と呼ぶのです。  神は御子イエス・キリストによって、私たち全ての者に、この世界の万物と歴史の全 体に、限りない愛を現わして下さったのです。私たちがまだ罪人であったその時にさえ、 神は御子によって、その十字架によって、私たちの罪を贖って下さったほどに、私たち を愛して下さったのです。私たちに誇るに足る何か、功績や価値があるから、主は私た ちを愛されたのではありません。もし価値を問われたなら、神の前に私たちは顔を伏し、 絶望するのみです。虚無に支配される以外にない存在です。しかし、まさにその無に等 しい私たちを、神は御子イエス・キリストにおいて、限りなく愛して下さったのです。  そして、かき抱くがごとくに、ご自身の御手に受け止めて下さったのです。その愛に よってこそ、私たちに無限の価値が、天の国籍が与えられています。ドストエフスキー が喜びと確信をもって語った福音の真実がそこにあります。人間が人間たりうる唯一の 救いの道、御国の民とされた聖徒らの幸いの道がそこにあります。神が世にお遣わしに なった御子イエス・キリストにこそ、私たちの永遠に変わらぬ救いがあり、生命と慰め と幸いがあるのです。キリストの溢れる救いの恵みが、いま私たちを満たしていて下さ るのです。もはや私たちは虚無的存在などではありえません。私たちの虚無(ヴァニテ ィ=空洞)さえも、キリストの恵みが鳴り響く器とされているのです。  十字架の主イエス・キリストこそ、まことに「生命の道」です。主はヨハネ伝14章6 節に言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによら ないでは、父のもとに行くことはできない」。たとえいかなる人でも、十字架の主を信ず るなら、主のみもとに身を投げ出すなら、その人はたしかに「生命の道」を歩んでいる のです。いま、私たちがその「生命の道」を歩む僕とされているのです。感謝と讃美を もって、新しい一週間の旅路、人生の歩みへと、遣わされて参りましょう。私たちの帰 る岸辺に、人生の日々そのものに、救い主イエス・キリストが、満ち溢れる生命の糧を もって、既に立っていて下さるのです。祈りましょう。