説    教     箴言20章6節   ヨハネ福音書18章38〜40節

「真理とは何ぞや」

2017・07・09(説教17281704)  いにしえの人は「朝に道を聴かば、夕べに死すとも可なり」と申しました。人間と して生きるべき真の道、人生を支え導く真理を、ひとたび聴く幸いを得たならば、も う自分の生命はその日のうちに終わっても良いと申したのです。これは古代の人々の 人生観・価値観でありますが、今日の私たちの心にも強く訴えかけてくるものがあり ます。  人間として真面目に生きようとする限り、悩みや苦しみなしに過ごしうる人はおそ らく一人もいないでしょう。それだからこそ、私たちが日々の生活の中でいつも切実 に求め続けているものは、人生を支え導く「真理」なのではないでしょうか。自分の 人生を本当の幸いと自由へと導く真理、本当の生きがいを与える真理を、私たちは無 意識にせよ求め続けてやまないのです。そしてそれは究極的には「何とかして真の神 にお会いしたい」という願いであることがわかります。自分を救って下さる真の神、 自分の存在と生命の根源である真の神に、何とかしてお目にかかりたい、その真の神 を知る者になりたいという願いです。それが、全ての人間存在の根底にある切実な願 いなのです。  今朝お読みしましたヨハネ伝18章38節において、ローマの総督ポンテオ・ピラト は主イエス・キリストに対して「真理とは何か」と訊ねました。しかしピラトのこの 問いは、深刻な人生の反省や悩みから出てきた問いではありません。むしろこの問い は、人生において最も深刻な、神の御子イエス・キリストの十字架という場面に立ち 会いつつ、しかもそれに目を背け続けているピラトが、戯れ心から発した問いであっ たにすぎないものです。それは先の37節において、主イエスが「だれでも真理につ く者は、わたしの声に耳を傾ける」と仰せになったことに対するピラトの揶揄でした。 つまりピラトは「そうか、それならばお前に訊ねるが、お前の言うその真理とはいっ たい何なのだ?」と訊いたわけです。真剣な問いではなく、むしろ主イエスを貶める ための意図的な質問でした。言い換えるならピラトは自分という人間を、この大切な 問いの枠の外に置いているのです。真理の傍観者であろうとしていたのです。  ですから、たとえ言葉それ自体はいかに正しくとも、ピラトの問いは実体の伴わな い空言にすぎませんでした。「真理とは何か」と訊ねたピラトは、主イエスの内に真理 を求めてはいなかったからです。しかし、それにもかかわらず、ピラトが予期せずし て口にしたこの問いこそ、主イエスに対して最も相応しい問いでした。なぜなら、主 イエス・キリストは「すべての人を照らすまことの光」として世に来られた神の御子 であられるからです。この「まことの光」とは「真理そのものの光」という意味です。 主イエス・キリストは「すべての人を照らす」真理そのものの光として、世においで になったかたです。そのかたがいま、真理そのものとしてピラトの前に立っておいで になるのです。  リルケというドイツの詩人がおります。私はあまりリルケの作品を好みませんが、 先日ある文章を読んでいて、こういう言葉に出会いました。「信仰を持った人間の余裕 ある祈りの言葉よりも、信仰のない人間の真剣な懐疑(疑い)のほうが神に近いもの である」。これはパスカルがパンセで語っていることであり、わが国の太宰治、また遠 藤周作や大江健三郎にも受け継がれている姿勢です。ひとつの逆説ですが、私たちに もよくわかるのではないでしょうか。要するに「不真面目な信仰よりも真面目な疑い のほうが神により近いのだ」と言っているのです。  そこで、ポンテオ・ピラトはどうでしょうか。なるほどピラトは主イエスに対して 「真理とは何か」と問いました。言葉そのものはごく真面目です。しかしピラトは主 イエスに対して、真剣な懐疑者であろうとさえしてはいません。むしろ自分が主イエ スを審く側として、この問いを発しているだけなのです。だから余裕綽々たる問いな のです。それどころかピラトのこの問いには「どうせ答えなどあるはずがないのだ」 という投げやりな姿勢が読み取れます。つまり最初から、ピラトは主イエスに答えを 期待しているわけではないのです。「不真面目な信仰」にさえなっていないのです。  私たちにも同じことがないと言い切れるでしょうか。日曜日のたびごとに教会に来 て礼拝を献げている私たちにも、このピラトの頑なさと同じ心が、信仰とは正反対の 傲慢の罪が、見え隠れすることはないでしょうか。私たちもまた、信仰者のふりをし た不信仰者、不真面目な信仰以前の者になっていることはないでしょうか。説教の言 葉を聴く以前から、既に自分の中に答えを用意していることはないでしょうか。ある いは、自分が共感できるのでなければ、あとは聴かないという姿勢でいることはない でしょうか。実は私たちの信仰生活もまた、ポンテオ・ピラトのそれと意外に深い部 分で似ていのではないか。それは「真理とは何か」という、私たちにとって最も真剣 な問いすらも「空言」にしてしまう頑なな心、砕かれない心です。主イエスの御言葉 を聴いているふりをして、実は少しも聴いてはいない頑なな魂が、私たちの耳をも塞 いでいることはないでしょうか。  それは同時に、エルサレムの群衆の姿でもありました。その前日まで、神殿の中庭 で喜んで主イエスの説教に耳を傾けていたその同じ群衆が、もう次の日には主イエス に対して「十字架にかけよ」と絶叫している事実を、私たちは今朝の御言葉に見るの です。バラバとイエスと「どちらを赦してほしいのか」と問うピラトに対して「その 人ではなく、バラバを」と叫ぶ群衆の姿です。バラバを赦して、イエスは十字架にか けよと狂い叫び、拳を振り上げ、石を投げるのです。そこにもたしかに、私たちの罪 の姿が現れているのです。  旧約聖書・箴言20章6節にこうありました。「自分は真実だという人が多い。しか し、だれが忠信な人に会うであろうか」。箴言の著者である預言者はこう告げるのです。 私たち人間は常に「自分こそは真実な人間である」と主張している。自分の中にこそ 真理があると自惚れている。「しかし」と預言者は申します。これは実に重い「しかし」 です。「しかし、だれが忠信な人に会うであろうか」。この「忠信な人」とは「神のみ を仰ぐ人」という意味のヘブライ語です。十字架の主イエス・キリストのみにまなざ しを止めて動かない人のことです。その人こそいかに幸いな人であろうかと預言者は 申します。既に十字架の主を仰ぎ、主を信じ、主をみずからの救い主として告白する ことにおいて、この「忠信な人」は真理そのものに出会っているからです。  古代ローマの人々は「真理」というとき、すぐに「真」「善」「美」の3つを思い浮 かべました。この「真」とは知識、「善」とは道徳、そして「美」とは芸術をさしてい ます。更に申せば、近代において「真」を代表する哲学者はヘーゲル、「善」を代表す るのはカント、「美」を代表するのはシュライエルマッハーです。彼らによれば「真」 「善」「美」はそのまま「宗教の座」(Sitz im Religionen)でさえあります。しかしこ れらはみな全て、高いところから私たちを見下ろしている真理です。私たちに対して 「ここまで昇って来れた者のみが救われる」と告げている真理です。そのような真理 に向かって昇って行こうとする意志を、古代の人々はエロース(愛)と呼びました。 「価値追求的な愛」と訳されます。ニーグレンという人はそれを「偶像崇拝の愛」で あると語っています。  主イエス・キリストにおいて、私たち全ての者に現されたまことの「真理」は、そ のようなものとは根本的に違います。なによりも、主イエス・キリストそのものが唯 一永遠の「真理」であられるのです。真理とはキリストご自身であられるのです。そ れならば、そのキリストはどのようなかたとして私たちのもとに来られたでしょう か?。どのようなかたとして私たちに出会われたでしょうか?。主は私たちを上から 見下ろすようなかたではなく、罪の塊のような私たち、神から離れた私たちを救い、 永遠の生命を与えるために、みずから罪のどん底にまで降りて来て下さった救い主な のです。ですから大切なことは、私たちは、御子イエス・キリストを信じ、キリスト の御身体なる教会に連なって歩むときに、この「真理」そのものに出会い、真理の中 を歩む者とされているのです。すでに私たちは十字架の主において、この唯一の真理 と出会っているのです。  新約聖書の元の言葉であるギリシヤ語では、この「真理そのものが私たちの罪のど ん底に降って来て下さった出来事」をアガペー(神の愛)として宣べ伝えています。 エロースは、偶像を作る愛は、人間を救う力を持ちません。それは人間を支配し、奴 隷化するものに過ぎません。ただキリストの極みなき愛のみが、アガペーのみが、私 たちに救いと、生命と、自由を与えるのです。ヨハネ伝8章31節を読みましょう。「イ エスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『もしわたしの言葉のうちにとどまっ ておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るで あろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう』。  私たちに求められているのは、ただ主イエス・キリストを救い主と信じ告白する信 仰のみです。私たちのために十字架におかかりになり、私たち全ての者の罪の身代わ りとなられ、贖いとなって下さった御子イエス・キリストを信じ、キリストの贖いた まいし教会に連なり、礼拝者として生きることです。そのとき私たちは、聖霊による、 御言葉の絶えざる養いと導きのもとに歩み始めます。いまここにおいて、私たち全て の者が、真理そのものであられる十字架の主と親しく出会い、主が共にいて下さる祝 福の内を歩む僕とされているのです。  私たちが真理を知り、真理に生きる者となるために、主が私たちに求めておられる ことは「わたしの(つまり主の)言葉のうちにとどまっておる」ことです。この「と どまる」とは「信じる」という意味です。いま私たちが、主イエスの御言葉を信じて 生きるなら、誰一人として例外なく、いま真理を知り、いま真理に生きる者とされる のです。真理そのものであられるキリストの、極みなき愛と恵みの内を、いま歩む者 とならせて戴けるのです。その真理こそ、私たちに本当の自由を得させるものです。 いまその恵みが、イエス・キリストという真理そのものが、私たち全ての者に与えら れているのです。このことを感謝し、讃美し、新しい一週間を、御言葉に親しみ、日々 祈りをなし、忠実な主の僕として歩んで参りたいと思います。祈りましょう。