説    教    ゼカリヤ書9章9節  ヨハネ福音書12章12〜16節

「主のエルサレム入城」 駿府教会にて

2017・06・25(説教17111687)  先ほどお読みした旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に、このように記されていました。「娘 シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子で あるろばに乗って」。  ゼカリヤは紀元前6世紀前半に活躍した預言者です。この時代“バビロン捕囚”という 出来事がありました。紀元前586年、イスラエルがバビロニヤに滅ぼされ、国中の人々が 遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた出来事です。やがて紀元前538年、ペルシヤ 王クロスの帰還命令により故国イスラエルへの帰還を許された人々は、エルサレム神殿の 再建という大事業に取り組みます。それは単なる建物の復興ではなく、真の礼拝の再建に よる新たなイスラエル建国のわざでした。その困難な事業のさなか、預言者ゼカリヤはひ とつの幻をイスラエルの民に示したのです。  それが9節の「あなたの王が来る」という救いと喜びのおとずれでした。地上のあらゆ る圧制と暴虐から全ての人を解放し、罪の赦しと永遠の生命を与え、真の自由と平和をも たらす「救い主」なる真の「王」が来られるという預言です。その真の「王」は救い主で すから、神の子・主イエス・キリストですから、その王は「神に従い、勝利を与えられた 者、高ぶることなく、ろばに乗って」再建されたエルサレム神殿に入城されるのです。  しかしこれは、当時の人々の常識では考えられないことでした。なぜならロバは最も卑 しい家畜とされていたからです。この真の「王」はこともあろうに、その卑しい「ろばの 子に乗って」入城されるというのです。そしてそれこそ、このかたが真の「王」すなわち 「救い主キリスト」であることの「しるし」だと言うのです。  もう40年ほども前ですが、私は“キリストの生涯”というアメリカ映画を観たことが あります。神学校の同級生に誘われて、たしか銀座の有楽町の映画館で観たのです。聖書 に基づきキリストの生涯を忠実に描いた、見応えのあるとても良い映画でした。その中で、 主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城さたとき、それを見た祭司長やファリサイ 人らが大声で嘲笑う場面がありました。「あの哀れな姿を見ろ、あれがイスラエルの王だと いうのか?」。ファリサイ人らはそう言って、ロバの子に乗った主イエスを嘲笑ったのです。 事実もそのようであったでしょう。「王」と「ろばの子」という途方もないミスマッチに、 祭司長らは驚きを通りこして嘲笑ったのです。ロバの子を蔑んだのと同様に、主イエスを も蔑んだのです。  しかしそのときの彼らは、預言者ゼカリヤが示した「キリストのしるし」を見事に忘れ ていたのでした。この神殿の完成は、全世界の救いと祝福は、神から遣わされた唯一の真 の「王」すなわちイエス・キリストの到来によってのみ成し遂げられる。その真「王」イ エス・キリストは「ろばの子」にお乗りになって入城される。それこそこのかたが本当の キリストである「しるし」である。この大切な旧約の預言を彼らは忘れていた。神の御言 葉を忘れ、自分たちの知恵や知識や判断だけを頼みとしたのです。目に見えるものだけを 「主」とし、神に栄光を帰さなかったのです。  エルサレム神殿は、古代世界に冠たる壮麗な大建築でした。当時の歴史家ヨセフスはエ ルサレム神殿について「それが朝日を受けて輝くさまは、さながらもうひとつの太陽が地 上に出現したかのごときであった」と記しています。しかし主イエスはファリサイ人らに 「この神殿を壊したなら、わたしは三日のうちにそれを建て直すであろう」と言われまし た。ファリサイ人らはそこでも、驚くより先に主イエスを嘲笑ったのです。「この神殿を建 てるのには48年もかかっている。それなのにあなたは、それを三日で建てると言うのか?」。 主イエスが語られたのは、ご自分の十字架と復活によって建てられる真の神の家(教会) のことでした。しかし、彼らはそれを「悟らなかった」と福音書は記しています。  だからこそ、主イエスはファリサイ人らにこう言われました。「あなたがたは、この建物 をしか見ていないのか。この建物の石ひとつでさえも、他の石の上に残らないようになる 日が来るであろう」。事実、西暦90年ローマ軍の破壊によってエルサレム神殿は瓦礫の山 になりました。ローマ軍は神殿の土台の礎石までも掘り返し、二度と再建できないように 徹底的に破壊したのです。今日では“嘆きの壁”と呼ばれる神殿西側の壁の一部分のみが 僅かに残されているだけなのです。  これは、エルサレム神殿だけではなく、およそ目に見えるものは総て、永遠なるものは 何ひとつ歴史に存在しないのです。教会もまた、目に見える建物だけを“教会”と呼ぶな らそれは虚しいのです。教会の本質はキリストの恵みの主権にあり「主の御名によって二 人また三人の者が集う」「聖徒の交わり」にあります。キリストが私たちの罪のために十字 架にかかられ、死にて葬られ、三日目に復活されたことにより、キリストの御身体なる真 の教会が、聖霊なる神の御業によって建てられたのです。そのことを使徒信条は「われは 聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白しているのです。  私たちの教会の唯一の基礎は「イエスは主なり」との信仰告白です。唯一のかしらなる キリストの恵みの主権によってのみ、教会ははじめて真の教会として立つのです。それを 最もよく現わすのが1890年(明治23年)「日本基督教会信仰の告白」です。私たちはこの 1890年信仰告白を告白する群れとして、キリストの主権のみを現す真の教会を形成し、と もに来たるべき主を待ち望みつつ、主の御身体なる教会に仕えることが、私たち一人びと りに与えられている務めであり責任であります。  駿府教会の皆さんは、この礼拝堂をどのような思いで献堂されたでしょうか?。思い起 こして頂きたいのです。大きな感謝と喜びがあったことでしょう。私がおります葉山教会 でも17年前に新しい礼拝堂を献堂しました。そのとき設計者に願ったことは「百年もつ 礼拝堂を建ててほしい」ということでした。その願いは見事に適えられたと思います。し かし百年後の、今はまだ顔も知らない人々に対して、私たちが負う責任はそれだけではな いはずです。何よりも私たちは百年後の人々に対して、目に見える建物以上に、目に見え ない教会の本質を、今ここに健やかに現しているか否かを主に問われているのです。「百年 前の駿府教会の人たちは、この建物と共に、それ以上に、立派な信仰の遺産を残してくれ た」と言われる教会であらねばなりません。そのような「聖徒の交わり」「聖なる公同の使 徒的教会」に成長することが、今の駿府教会の皆さんの主にある責任なのだと思うのです。  今朝の御言葉の16節を見ますと、祭司長やファリサイ人のみならず、主イエスと寝食 を共にしていた弟子たちでさえ、ロバの子にお乗りになったキリストの「しるし」を正し く悟ってはいなかったという事実がわかります。「弟子たちは最初これらのことが分からな かったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、 人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」とあることです。ここで「人々」 とは全ての人々、つまり私たちのことをさしています。では、真の「王」としてエルサレ ムに入城された主イエスに対する私たちの態度はどうであったかと申しますと、私たちは、 最初は棕櫚の枝を打ち振り、歓呼の声を上げて主イエスを迎えたのです。ところが、主イ エスが自分たちの願っていた“この世の王”ではないとわかった瞬間、掌を返すように「十 字架につけよ」と絶叫し、主イエスに対して拳を振り上げたのでした。  そこでこそ大切なことは「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが 栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたもの」であることを「思い出した」 とあることです。この「思い出した」とは「いまここにおける救いの出来事として信じた」 という意味です。聖書の御言葉を、十字架の主の御業を、この自分に対する救いの出来事 として信じ告白する者になった。言い換えるなら、自分の要求、自分の義、自分の利益の みを求めていた私たちが「栄光を受けられた」主、つまり十字架の主イエス・キリストに よって贖われ、新たにされ、主の教会に連なり、御国の民とされて、神の永遠の愛と祝福 の内を歩むキリスト者にされたことです。「栄光の主」つまり「十字架の主」の極みまでの 愛と恵みによって、神の御前に立ちえざる私たちが立ち上がり、歩みえない私たちが信仰 によって歩みはじめ、神の子でありえなかった私たちが神の子とされ、新しい生命に満た され、平安と、慰めと、限りない勇気を与えられたのです。  だからこそ預言者ゼカリヤは申します。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓 呼の声をあげよ」と!。私たちは喜び踊らざるをえないのです。「歓呼の声をあげる」ほか ないのです。それは私たち全ての者の罪を贖い、真の生命を与える真の「王」として、主 がいま来て下さったからです。しかも、ろばの子に乗って!。まさに主イエスは、限りな き柔和の主として、私たちのただ中に来られたのです。  それはあのベツレヘムの馬小屋の粗末な飼葉桶にも較べられます。私たちの生活は、私 たちの存在は、私たちの知恵や力は、あの飼葉桶、またロバの子のような、見すぼらしい ものでしかありえません。使徒パウロが言うように「土の器」でしかありえない私たちな のです。しかしあの飼葉桶は、主イエスをお迎えした飼葉桶です。そこに、クリスマスの 喜びが現れました。あのロバの子は、主イエスをお乗せしたロバの子です。そこに、主を 信ずる真の教会が建てられてゆきました。あの「土の器」は、福音という絶大な宝が盛ら れた土の器です。そこに、主の僕たる人生の幸いが現わされました。私たちもまた、ロバ の子のように、飼葉桶のように、土の器のように、そのあるがままに、主が尊い御用のた めに用いて下さるのです。私たちに求められていることは、あるがままの自分を喜んで主 にお献げすることだけです。その私たちを、主が必ず豊かに用いて下さるのです。  私たちにとって、それ以上の喜びと幸いはありません。私たちのこの教会は、その喜び と幸いに生きる群れです。私たちはここに集うて、自分の義を誇るのではない。自分の正 しさや清さを誇るのでもない。ただひたすらに「キリストの義」のみを讃美し、神にのみ 栄光を帰したてまつるのです。それが私たちの献げる礼拝であり、私たちの形成する真の 教会です。だから14節には「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」とありま す。この「見つけて」とは「お選びになった」という意味です。主はいま、ロバの子をお 選びになる。私たちを、御業のためにお選び下さる。私たちを、主の教会のかけがえのな い仕え人とならせて下さるのです。主の恵みを持ち運ぶ器とならせて戴けるのです。そし て主は必ず、全ての人々に、救いと祝福を、永遠の生命の喜びを、与えて下さるのです。 祈りましょう。