説    教    エズラ記5章1〜2節   ガラテヤ書3章1〜5節

「聖霊の御業なる教会」

2017・06・18(説教17251701)  今日の御言葉は、たいへん厳しい言葉です。その出だしからして尋常ではありません。「ああ、物か りのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出さ れたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」とパウロは問います。そしてさらに3節を 見ますと、たたみかけるように「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、 今になって肉で仕上げるというのか」と問うています。  この「物わかりがわるい」というのは、直訳すると「愚かである」という意味のギリシヤ語です。 だから英語の聖書では「フーリッシュ」と訳されています。つまりパウロはガラテヤ教会の人々に対 して「あなたがたは、愚か者だ」と言っているのです。「十字架につけられたイエス・キリストが…目 の前に描き出された」というのに、まさに私たちの罪と滅びを一身に担って下さった贖い主として、 十字架のキリストが私たちの眼前に臨在しておられるのに、共にいて下さるのに、それにもかかわら ず、どうしてあなたがたはキリストならぬ他のもの(主とはなりえぬもの)に走り寄ってしまうのか と、パウロは厳しく問うているのです。それこそ「愚かなこと」以外の何物でもないと言うのです。  さて、私たちには、このように、はっきりと言われなければ、わからないことがたくさんあるので はないでしょうか。主イエスは、弟子たちにも人々にも、大切な譬話などをなさるに際して「よく、 よく、あなたがたに言っておく」と仰せになりました。この「よく、よく」とは、原文のギリシヤ語 では「アーメン、アーメン」という言葉です。ですから文語訳では「まことに、まことに、われ汝ら に言う」と訳されていました。この訳のほうが原文のニュアンスに忠実です。それならパウロも、同 じ思いでガラテヤの人々に語っているのです。それこそ「アーメン、アーメン」と言っているのです。 神の真実、イエス・キリストの測り知れぬ恵みにおいて、私はいまこの言葉をあなたがたに告げる。 それが1節の「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ」であり3節の「あなたがたは、そんなにも物 かりがわるいのか」という言葉なのです。  そこで、今朝の3節を続いて見てみますと、そこでパウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で 仕上げるというのか」と問うています。ここにガラテヤ教会の人々が陥った罪の問題がありました。 それは教会形成に関わる問題であり、それゆえ信徒一人びとりの生活に直結する問題でもありました。 これをパウロは看過することはできなかった。伝道とは、まことのキリストの御身体なる教会を建て ることです。つまり、キリストのみが唯一の「かしら」にいましたもう教会を形成することです。そ のことなくして、私たち一人びとりの新しい生活は成り立ちません。教会の土台は第一コリント書3 章10節にあるように、十字架の主なるキリストのみであり、そのキリストという唯一の土台の上に、 相応しい材料を用いて教会を建てることが求められているのです。その相応しい材料とは「イエスは 主なり」との信仰告白です。ニカイア信条に告白された、正しい、溌剌とした信仰です。それ以外の ものは、教会形成の材料とはなりえないのです。  第二コリント書の11章24節以下には、パウロが伝道者として受けた、有名な「苦難のリスト」が 記されています。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打た れたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂った こともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、 海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば 食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」。このようにパウロは語ったあとで「なおいろいろ の事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わ たしも弱らないで折れようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」 と語っています。  もし苦難が、自分が本物の使徒であることを証明するのなら、自分は他の誰よりも多くの苦難を受 けたと言い切ることができる。しかし、それはどうでも良いことだと今パウロは言います。大切なこ とはただひとつ「日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごと」がある。そして「誰かが弱っているの に、わたしも弱らないでおれようか。誰かが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれよう か」。この一点においてこそ、教会はまことの教会であり、伝道者はまことの伝道者なのです。そして ガラテヤ教会の場合、その「心配ごと」とは「御霊」(聖霊)によって始められた教会形成の御業が「肉」 (人間の知恵と力とわざ)によって仕上げられようとしていることでした。  キリストという唯一の土台に、相応しくない材料が(つまり肉が=人間の義が)組み合わされよう としていたのです。「肉」という言葉を、パウロはここで「罪」と同じ意味で用いています。言い換え るならガラテヤの人々は、神によって始められた教会形成の御業を「罪」によって仕上げようとして いた。ですから、パウロは第一コリント書3章12節にこのように語っています。「この土台(キリス トという唯一の土台)の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかに し、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」。  教会形成は(伝道のわざは)私たちの目先の判断でしてはならないのです。私たちはこの新しい礼 拝堂を献堂したときに、百年持つ建物を建てて欲しいと設計者や施工業者の人たちに願いました。私 たちはこの建築のために心を一つにし、そして主は思いにまさる礼拝堂を与えて下さいました。感謝 に耐えざることです。それゆえに私たちはいま思いを、祈りと志を、新たにせねばなりません。使徒 パウロがここに「かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がど んなものであるかを、ためすであろう」と語っていることです。それは私たちの信仰です。私たちが 十字架のキリストという唯一の土台の上に、本当の信仰をもって主の教会を建てているかどうか、そ れが「かの日」すなわち主の再び来たりたもう日に明らかになるのです。十年、五十年、百年、二百 年先に、私たちのこの葉山教会が、ただキリストの御業のみを現わし、全ての人々に救いの喜びを告 げる主の教会として立ち続けているために、いま私たち一人びとりが主から責任を与えられているの です。それは聖霊によって始められた教会形成の御業が、聖霊によって完成されるために、私たちが 真にキリストの僕となることです。  聖霊(神の恵み)によって始められた教会形成の御業は、聖霊によって完成させられねばならない のです。そのことを明確にするためにパウロは4節に「あれほどの大きな経験をしたことは、むだで あったのか」とガラテヤの教会に問うています。これは、ガラテヤの人々が多くの迫害や困難の中で、 キリストを信ずる信仰に堅く立ち、教会を形成し、礼拝者としての生活を確立したことです。その時 のことを思い起こしなさいと、パウロは説き勧めているのです。それは「むだであったのか」と問う のです。そして「まさか、むだではあるまい」とすぐに語っているのは、パウロはこうしたガラテヤ 教会の混乱の中にも、キリストの御支配だけが堅く立つことを確信していたからです。「にせ教師」た ちがどんなに巧妙に人々に取り入り「異なる教え」を焚き付けようとも、聖霊によって始められた主 の御業を、止めることは誰にもできないと確信していたからです。  だからこそパウロは最後の5節でこう訊ねています。「すると、あなたがたに御霊を賜い、力ある わざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。単純 明快かつ率直な問いです。主なる神が、あなたがたも記憶する、あのような幾多の困難の中で、この ガラテヤに主の教会を建てて下さったのは、何によるのかと問うているのです。それは「律法を行っ たからか、それとも、聞いて信じたからか」。答えは明らかです。私たちが救われ、神の民とならせて 戴いたのは、少しも自分の力や知恵や功績によるのではありません。そうではなく、私たちは御言葉 に養われる群れです。福音を聴いて信じ、私たちのために十字架におかかり下さった主イエス・キリ ストを告白することにより、私たちは義とされた(救われた)のです。ただ十字架と復活の主イエス・ キリストのみが私たちの救い主なのです。それこそが私たちの信仰生活の原点であり、失ってはなら ない中心であり、絶えず立ち帰るべき基本なのです。  まさにこの基本においてこそ忠実な私たちでありたいのです。私たちは「ああ、物わかりの悪い葉 山びとよ」と言われてはならないのです。習い事をなさる人は繰返し基本を学びますでしょう。繰り 返し基本を習得しますでしょう。それこそ身体に叩き込むようにして覚える。そのようにして身につ いた基本は、もう決して失われることはありません。ガラテヤ教会、否、私たちの教会も同じです。 繰返し繰返し、叩き込むように主がお教え下さる、その御教えに忠実であらねばなりません。真の礼 拝者として、御言葉に養われつつ生き、正しいキリスト告白に立ち続けて行く群れをここに形成して ゆくことです。聖書が語る福音という基本に立ち帰り続けてゆくことです。ローマ書10章17節を心 に留めましょう。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。 この「信仰は聞くことによる」とは、私たちの救いの根拠は私たちの中にではなく、主なる神にのみ あるのだということです。神は御子イエス・キリストを教会の唯一のかしらとして私たちにお与え下 さったのです。  その御子キリストによって、私たちは信仰による「神の義」(永遠の救いと生命)にあずかり、ここ にキリストのお建てになった、聖霊なる神の御業である教会に連なる者とされ、キリストの復活の生 命に堅く結ばれて、心を高く上げて、日々の信仰の生活へと遣わされてゆくのです。真の礼拝者とな らせて戴き、キリストがなして下さった全ての救いの御業を、全世界に対する真の平和と義と幸いと 喜びとして宣べ伝えつつ、ここに私たちは、主が教会を完成して下さることによって、世界の救いを 完成したもうその日「かの日」に、主の御前に讃美と感謝とを献げ続ける、まことの教会として、立 ち続けて参りたいと思います。祈りましょう。