説    教   イザヤ書54章9〜10節  ヨハネ福音書18章15〜18節

「ペテロの否認」

2017・06・11(説教17241700)  東京駅の近くにあるブリジストン美術館に「ペテロの否認」という題の小さな油絵があります。(現 在はレンブラント・ファン・レイン「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」となっています)。17 世紀オランダの画家レンブラントの、日本にある唯一の作品です。私はこの絵が好きで、よく見に行 っていたものです。この絵の第一印象は背景が深い闇に包まれていることです。そして画面の中央に は鎧に身をかためた兵士が立っており、左側で人々と共に焚火にあたっているペテロに何かを話しか けています。何よりこの絵が凄いと思いますのは、ペテロが怯えたように振りむく様子とともに、周 囲の人々が話を止めて静まりかえる、その一瞬の緊張感を見事に描いていることです。そしてこの一 瞬の出来事こそ、ペテロにとって生涯忘れえぬ出来事となったのでした。  もともとペテロは、主イエスがピリポ・カイザリヤにおいて十字架の出来事を予告なさったとき、 主イエスの袖を引いて「主よ、とんでもないことです。さようなことがあってはなりませぬ」と諌め た弟子です。またマタイ伝26章31節以下を見ますと「よく、よく、あなたに言っておく。今夜、鶏 が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主イエスに対して、ペテロ はすぐに「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申 しません」と申しました。他の弟子たちもみな「同じように言った」と記されています。そのように、 ペテロには、他の弟子たちにも、たとえ死んでも主イエスを裏切らないのだ、決してこのかたから離 れまいぞ、という強い決意と義務感があったのです。ましてペテロは弟子たちの中でいちばん年上で したから、他の若い弟子たちの前で恥ずかしい姿を見せられないという思いもありました。  だからこそペテロは、他の弟子たちが尻込みしている中を、敢えて単身で、捕縛された主イエスの 後をつけて大祭司カヤパの邸宅に侵入したのです。この大祭司カヤパは同じヨハネ伝18章14節によ れば「ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだと、ユダヤ人に助言した者であった」と記されて います。つまり大祭司カヤパはたいへん政治的な人間で、パリサイ人とサドカイ人との宗教的・政治 的対立という構図の中で、ユダヤの民衆を分裂させることなく、かつ宗主国であるローマ帝国の威信 も保たせるためには、民衆の中から一人の者をローマに対する反逆罪で告訴し有罪とし処刑すること が「全体の利益」につながるのだと助言をしたわけです。このカヤパの邸宅の中庭で行われた主イエ スの裁判は「最初に結論ありき」の似非法廷であり、カヤパは最初から主イエスを十字架にかけよう と決めていたのです。神に対する神聖冒涜罪という、当時のユダヤで最も重い罪を主イエスただお一 人に覆いかぶせることによって、イスラエルの民全体の、ひいてはユダヤ国家全体の、そしてローマ 帝国の利益をさえ、一挙両得にはかろうとしたのでした。  それはカヤパの政治的手腕によることでしたけれども、実はそれは最も深い意味において旧約聖書 のキリスト預言の成就であったことに、カヤパやアンナスはもちろん、当時の誰も気がつきませんで した。彼らを覆っていたのは単に夜の闇だけではなかったのです。「罪」という名の真の暗黒が彼らの (そして私たちの)存在を覆い尽くしていたのです。真の暗闇の中にいる人間は自分の姿さえ見えま せん。それと同じように、主イエスを取巻く全ての人々は自分自身さえ見えていませんでした。正義 は自分にあり「罪」は主イエスにあると信じこんでいたのです。神の独子を「罪」に定めてまでも自 分の側に真理があると主張して止まない、そこに私たち人間の本当の罪の姿があります。それこ本当 の神聖冒涜でした。「われは在りて在るものなり」と語りたもうた神を無にしてまで、自分を義としよ うとする自己栄化・自己神格化こそ私たち人間の罪の本質なのです。この罪のもたらす底知れぬ闇の 中に、ペテロも、弟子たちも、呑みこまれそうになりました。罪の暗黒の前には、義侠心や少しばか りの勇気など何の力も持ちえません。  さて、試練は思いがけないところからペテロを襲いました。今朝の18章15節を見ますと「シモン・ ペテロともう一人の弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、 イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった」と記されています。この「もう一人の弟子」とはおそらく、 もと取税人であったマタイではなかったかと思われます。マタイだけが大祭司カヤパやアンナスと顔 見知りであったからです。マタイはいわば「顔パス」でカヤパの邸宅の中庭に入ることができました。 ではペテロはどうであったかと言いますと、ペテロは中に入れず、最初は「外で戸口に立っていた」 のでした。しかし16節にあるように「大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の 女に話し、ペテロを内に入れてやった」とあるように、マタイの口利きが功を奏して、ペテロもよう やく中庭に入ることができた、そういう場面であります。  そこで、ペテロにとっての試練は、まさにそこで起りました。18節を見ますと「僕や下役どもは、 寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼らに交じり、立っ てあたっていた」とあります。ペテロが他の使用人たちと共に焚火にあたっていたとき、先ほどの「門 番の女性」がペテロの顔をじっと見つめて、いきなりこう話しかけてきた。「あなたも、あの人の(ナ ザレ人イエスの)弟子のひとりだったよね?」。こういう時の女性の記憶力は抜群です。この女性のた ったひと言によって、ペテロはたちまち周章狼狽してしまうのです。もちろんペテロはすぐに「いや そうではない」と答えます。不特定多数の一人を装っていたわけです。ところが、これこそ先ほどの レンブラントの絵の場面ですが、この女性の声によって、警護の兵士が出てくるのです。同時に周囲 の人々も静まりかえってペテロに注目するのです。  狼狽えたペテロの顔を焚火の炎が容赦なく浮かび上がらせます。するとそこにいた大祭司の僕たち や下役たちまでもが「そうだ、あなたも、あのイエスの弟子のひとりだ」と言ってきた。ペテロは再 びそれを否定して「いや、そうではない」と言いました。すると3度目に決定的なことが起ります。 ゲツセマネにおいてペテロによって剣で右の耳を削ぎ落とされたマルコスの「親族の者」がその場に いたことです。そして「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」と怒りな がら詰め寄って来たのです。「お前はマルコスの耳を削ぎ落としたヤツだろう。隠したって無駄だ、お 前はたしかにイエスの弟子だ」と詰め寄ってきたわけです。  もはや万事休すです。ペテロは3度とも「それを打ち消した」のです。主イエスと自分は何の関係 もないと否認したのです。するとすぐ主イエスが言われたとおり「鶏が鳴いた」のでした。暁を告げ る鶏の声が響いたのです。ペテロはそのとき「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らない と言うであろう」と言われた主イエスの御言葉を思い起しました。そして外に飛び出して「激しく泣 いた」と他の福音書は記しています。これがこの夜の出来事でした。ペテロにとっては決して忘れる ことのできない、主イエスを3度も裏切った「恐ろしい夜の記憶」であります。それはペテロや他の 弟子たちにとっては「全ての終わり」でした。しかしそれは、主イエスにとっては全ての始まりであ り、まさにそこに、人間の果てしなき罪の虚無のただ中にこそ、ただキリストの恵みの主権によって、 全ての人を救う神の教会が建てられていったのです。  さて、私たちは今朝のこの御言葉から、いかなる福音を聴き取るのでしょうか。第一に、私たち人 間の「罪」は測り知れない夜の闇にもまして底知れぬものであるという事実です。それならば、その 底知れぬ罪の暗黒のただ中にこそ、主イエスは「十字架の主」として私たちのもとに来て下さった真 の救い主なのです。暗黒が人間の罪の真実ならば、「全ての人を照らす光」こそ神の恵みの永遠の真実 です。私たち人間の現実は、譬えて言うなら、沈みつつある船の中で食事を楽しんだり、ゲームに興 じたりしているようなものです。人間が歴史と共に滅びへと沈みつつあるのに、なおその現実を知ら ずに虚しき安逸を貪り、まるで放蕩息子のように「自由だ」と錯覚して生きているのが人間なのです。 まさに主なる神は御子イエス・キリストによって、私たちをその歴史と共に救いたもう唯一の救い主 です。沈みつつある歴史という船もろともに私たちを救うために、神はその最愛の御子イエス・キリ ストを世にお与えになったのです。  第二に、これは大きな疑問ですが、福音書記者はどうして、ヨハネもマタイもマルコもルカも、こ の「ペテロの否認」という恥ずかしい(忌まわしい)夜の出来事を敢えて隠さずに記しているのでし ょうか?。私たち人間は誰しも恥ずかしい過去は隠したいものです。しかも使徒ペテロは、この福音 書が記された時代には、初代教会のために目覚しい伝道者のわざをなし、最後にローマで殉教の死を とげた人として知られていました。立派な信仰の生涯を貫いた真のキリストの弟子ペテロ。その恥ず かしく忌まわしい過去の「暗い夜の記憶」をなぜ福音書記者たち(またキリストの弟子たち)は隠そ うとしなかったのでしょうか?。  その答えはただ一つだと思います。それは彼らが、ただ主なる神のみを畏れて人を恐れてはいなか ったからです。それはキリストの弟子たち全てに共通する信仰による新しい生活です。ただ主なる神 のみを畏れ、人を恐れない。私たちはどうでしょうか。私たちはキリスト者たる恵みを与えられてい ながら、神を畏れる前に人の顔を怖れてはいないでしょうか。今朝の場面のペテロがそうでした。ペ テロはキリストと共に死ぬ覚悟だと豪語しながらも、結局は神ではなく人の顔を怖れてしまったので す。だから一人の女性の追及にさえ底知れぬ恐怖を感じ「いや、あの人のことは何も知らない」と3 度も主を否認してしまった。自分と主イエスとは何の関わりもないと答えてしまったのです。私たち もそれと同じ罪を犯すものではないでしょうか。これを逆の視点から申しますと、神を畏れず、真の 神を知らずに生きる生活は“この人生は汚点だらけの生きる価値のない人生だ”と決めつけざるをえ なくなることです。自分は取返しのつかない恥を晒してしまった。人生に修復不可能な汚点を残して しまった。もう駄目だ。そう言って自暴自棄になり、自分も他者をも審いて生きるほかはなくなるの です。またはその逆に、人と自分を比較して自分は清く正しい者だと自惚れ、あのパリサイ人のよう に自分で自分を義とする罪をおかすのです。  私たちが本当にキリストに贖われた新しい生を生きるとき、私たちの存在と生活は根底から変わる のです。ただ主なる神のみを畏れ、人を恐れない新しい生活、それは“この人生にいかに大きな汚点 があろうとも、主なる神はその私をあるがままに招き、救い、愛し、新たにして下さる救い主である” この福音を知る者の喜びの生活が始まるのです。神は御子イエス・キリストによる変らぬ「真の新し さ」を私たちに与えて下さいます。私たちは何度でも主の御手によって立ち上がれる。何度でも主の 恵みによってやり直せるのです。主イエス・キリストが私たちと共にいて下さり、私たちの底知れぬ 罪を贖い、招いていて下さるからです。私たちの罪の底知れぬ暗闇の、そのさらにどん底にまで主イ エスは来て下さったのです。そこで私たちの全存在をかき抱くようにしてご自身のものとして下さり、 絶望に伏す者を立ち上がらせ、新しい生命に甦らせて下さるのです。  今朝のペテロの姿は、私たち自身の姿にほかなりません。キリストを3度も裏切るという取返しの つかない「罪」をおかしたのは弟子たち全員です。すなわち私たちの姿です。しかしキリストはまさ にその、取返しのつかない底知れぬ罪から、私たちを贖い出し、救って下さるために、十字架におか かり下さったのです。そのとき私たちにとっても「あの暗い夜の闇」は、主の測り知れない愛と恵み と招きによって照らされているのです。闇が光に変えられているのです。この十字架の主にのみ、私 たちの変わらぬ救いと自由と幸いがあるのです。祈りましょう。