説     教     イザヤ書32章15節    使徒行伝2章1〜4節

「聖霊なる神の御業」

 聖霊降臨日主日礼拝 2017・06・04(説教17231699)  今日はペンテコステ・聖霊降臨日の主日礼拝を迎えています。聖霊によって主の教会が歴史の中に 誕生した記念の礼拝です。ペンテコステとは「五十日目」という意味のギリシヤ語です。イースター (主の復活の日)から数えて五十日目という意味です。ですから「五旬節」と訳されます。この「五 旬節」は本来は古代イスラエルの暦で、シナイ山におけるモーセへの十戒の授与、つまりイスラエル が「神の民」とされたことを記念する喜びの祝日でした。ですからペンテコステ礼拝の起源は旧約聖 書にあるのです。旧約における全ての人々への救いの約束が、主イエス・キリストの十字架と復活に よって完成し、ペンテコステにおける教会の誕生によって歴史の出来事となったのです。  そこで、何よりも大切なことは、今朝お読みした使徒行伝2章1節に、「五旬節の日」に「みんな の者が一緒に集まって(祈りを献げていた)」とあることです。主の弟子たちが祈りと礼拝のために一 箇所に集まっていた。その場所はおそらく「最後の晩餐」が行われたエルサレムのマルコの家であっ たことでしょう。主イエスが最初の聖餐式を行われたその場所が、弟子たちの最初の集会所となり、 そこに聖霊降臨の出来事が起こり、世界最初の教会・初代エルサレム教会が誕生したのです。  それは、主イエスの十字架の死と葬りから、僅かひと月余りの時でした。まだ弟子たちの心には、 信仰よりも恐れが支配していました。トマスのように主の復活を「信じない」と言い切る者さえいま した。復活の主が歴史の中に、私たちの人生のただ中に、いま生きて救いの御業をなさっておられる ことを、なお確かに信じえない弟子たちの現実があったのです。復活の主の御姿が見えなくなるほど、 弟子たちの心はなお大きな恐れに支配されていたのです。  何よりも、大祭司カヤパの邸宅の中庭における、あの恐ろしい夜の記憶は、弟子たちの心に深く焼 きついていました。主の十字架刑の判決が下されたあの夜「たとえあなたと一緒に死のうとも、あな たを知らないなどとは決して申しません」と大見栄を切ったペテロでさえ、その夜のうちに主イエス の御名を三度も拒み、主イエスを裏切り、残りの弟子たちも散り散りに逃げて行ったのです。主イエ スを裏切ったのはイスカリオテのユダだけの罪ではありませんでした。他の弟子たちもみな同じでし た。それは弟子たちにとって、いかに恥ずべく、忌まわしく、抹消したい記憶であったことか…。復 活の主イエスに対しても、いまさら顔向けできない弟子たちでした。しかもその弟子たちに、律法学 者やローマの支配者による迫害の危機が迫っていました。  弟子たちはこのように、大きな恐れと不安の渦中にあったのです。無力に打ちひしがれていたので す。一刻も早くエルサレムから逃れるべきだという声もありました。しかし、そこでこそ弟子たちは エルサレムを離れなかったのです。それは「ここを離れず、共に祈っていなさい」と言われた主イエ スの御声を信じたからです。自分たちの恐れや不安や無力さではなく、ただ主の御言葉のみを信じた のです。時に私たちにも「このような苦しみや悩みから一刻も早く逃れたい」という思いが沸き起こ ることがあります。過去を清算したい思いに駆られることがあります。しかしそれは失敗に終わりま す。むしろ復活の主は、私たちの大きな恥や、恐れや、弱さや、破れの中でこそ、私たちと共にいて 下さるのです。私たちに求められていることは、ひたすらに主の御言葉を信じることです。弟子たち は主の御言葉を信じ、主の約束を信じて、エルサレムに留まり続けました。「みんなの者が(祈るため に)一緒に集まった」のです。自分たちを取り囲む恐れの現実の中でこそ、ただ主イエスの約束を信 じたのです。その約束とは使徒行伝1章8節以下です。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あな たがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人と なるであろう」。  この最初の「ただ」という言葉は大切です。「ただ」主イエスが遣わして下さる聖霊のみが、私たち をいつもキリストに堅く結び合わせて下さるからです。ただ聖霊なる神の恵みによってのみ、私たち は弱さや破れのあるがままに、真のキリストの弟子とされるからです。すなわち第一コリント書12 章3節にこう記されているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言う ことはできない」。そのことを、この「ただ」という言葉が示しているのです。私たちの信仰は聖霊に よるのです。つまりいま私たちは2000年前の弟子たちの信仰と、同じ喜びを戴いているのです。こ れを別の角度から申しますなら、主が測り知れない愛をもって、ご自分の肉を裂き血を流して全ての 人の贖いとなられた、あの最初の聖餐が行われた記念の場所のみが、復活の生命の門(つまり主の教 会)となったのです。主の十字架から逃げた弟子たち、主を裏切った弟子たちが、今ここに、ペンテ コステの日に、新たに十字架と復活の主のもとに招かれ、御言葉のもとに堅く立てられて、福音に仕 える主の僕とされて、全世界に宣教のわざを繰り広げたのです。  それこそ、私たちの教会の原点なのではないでしょうか。私たちもまた、それぞれ違った人生の歩 みから、まことに不思議な仕方で主の御招きを受け、聖霊によってこのピスガ台へと集められている 群れです。まさしく礼拝者として、聖霊によって一つの群れとされ、使徒パウロが語るように、私た ちは数多くあっても、共に一つなるキリストの御身体にあずかる者とされ、キリストに結ばれて一つ の身体となり、かしらなるキリストに仕える僕たちとされているのです。それは、私たちの知恵や力 ではなく、ただ聖霊なる神の御業です。だからこそ、私たちがいま戴いている救いは確かな救いなの です。今ここに聖霊によって教会が建てられ、私たちは聖霊によって教会に連なる僕たちとされてい るからです。だからこそ、私たち一人びとりが「聖霊の宮」とさえ呼ばれます。「宮」とは神の栄光が 現れる礼拝の場所です。私たちの人生の全体が、聖霊なる神の導きのもと、主の教会に結ばれて、神 の栄光を現すものへと変えられてゆく幸いです。宗教改革者カルヴァンは「聖霊は私たちを永遠にキ リストに結ぶ絆である」と語りました。私たち一人びとりが聖霊によって、永遠にキリストに結ばれ、 祝福の人生を歩む者とされているのです。  そこで、今朝の使徒行伝2章2節以下を見ますと「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から 起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように 分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるま まに、いろいろの他国の言葉で語り出した」と記されています。ペンテコステの出来事です。「激しい 風が吹いてきたような音」とは、神の聖なる現臨のしるしです。そして「家いっぱいに響きわたった」 とは、教会全体に「神の現臨のしるし」が現れたことです。また「舌のようなものが、炎のように分 かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」とは、神の言葉が聖霊によって私たち一人びとりに与 えられたことです。「舌」というギリシヤ語は「言葉」とも訳すことができます。聖霊によって神の言 葉が、私たちの「古き人」(罪)を焼き尽くし、新たになし、復活の生命を与える救いの恵みとして、 いま私たち一人びとりに与えられているのです。  今朝、併せてイザヤ書32章15節をお読みしました。「しかし、ついには霊が上から、われわれの 上に注がれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」。旧約聖書において世 界の象徴は「荒野」すなわち生命なき砂漠でした。そこが「良き畑」となり「林」となるということ は、この世界に、この歴史に、全ての人々に、主が生命の祝福を与えて下さる約束です。それが実現 した出来事こそがペンテコステなのです。これと正反対の出来事として創世記11章の「バベルの塔」 の物語があります。そこでは際限なき自己神格化こそ私たちの罪の本質であることが明らかにされて います。バベルの塔の建設が進むにつれ、互いの言葉が通じなくなったのも、その原因は人間の罪に ありました。この「言葉の無意味化」による果てしなき分裂こそ、今日の世界を覆う最も深刻な出来 事です。だから「バベル」という字は「混乱」という意味です。世界は今もなお至るところに「混乱」 というバベルの塔を建て続けているのではないでしょうか。  まさに、そのバベルの塔を打ち壊し、祝福の生命を全ての人に与える神の御業が現れた記念の日が ペンテコステなのです。キリストの生ける御身体なる教会に私たちが連なることによってのみ、本当 の言葉が回復されてゆくのです。私たちのバベル「混乱」の罪は、ただペンテコステの出来事によっ て救われるのです。パリサイ人であったパウロを虚しき誇りから救い、キリストの祝福の言葉の使徒 とした聖霊の恵みが、私たちにもいま与えられているのです。私たちが生きるべき真の身体は、主の 御身体である教会の内にあるからです。私たちはキリストに結ばれてのみ、自分の虚しい義を捨てて、 キリストの義(救いの恵み)に生きる僕とされます。キリストが私たちを、ご自分の義をもって覆い 包んで下さいました。「ただ」そこでのみ私たちは、互いの交わりを建て、人を活かしうる、慰めと祝 福の言葉を持ちうるのです。それは「キリストがあなたと共におられる」という福音の出来事です。 神の測り知れない愛を伝える言葉です。あなたのために、神の御子が十字架に死なれたという福音で す。その生命の言葉と祝福を、私たちは、全ての人に対する新しい祝福の言葉として持つ者とされて いるのです。  ハイデルベルク信仰問答の問1にこうあります。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰め は何ですか。〔答〕わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真 実な救い主、イエス・キリストのものであることです。このかたは御自分の尊い血をもって、わたし のすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放して下さいました。そしてまた、御 自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保障し、今からのち、このかたのために生きることを心から喜 び、それにふさわしくなるように、整えても下さるのです」。  主は、聖霊によってお建てになったこの教会に、全ての人を招いておられます。そこで私たちの人 生に、生きるにも、死ぬにも、決して変わらない真の慰めを、十字架による贖いと祝福の生命を、与 えて下さるのです。聖霊みずから、私たちに与えられた永遠の生命を保証して下さり、今からのち、 私たちが、主の御栄えを現す者となるように、全ての歩みを、御言葉によって整え、導き、支えて下 さるのです。この、言い尽くせぬ大いなる恵みの内に、私たち一人びとりの信仰の歩みが整えられて いることを感謝し、心を高く上げて、教会に仕え、キリストに従ってゆく私たちでありたいと思いま す。