説     教     詩篇51篇17節   ガラテヤ書1章10節

「主の僕とせらる」

2017・05・21(説教17211697)  「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるい は、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わた しはキリストの僕ではあるまい」。これが今朝、私たちに与えられているガラテヤ書1章10節の御言葉 です。ガラテヤ書の中でも特に印象の深い、大切な御言葉です。  私たち人間には社会生活をしております限り、いつも大きな誘惑が付きまとうのです。それは、どう にかして「人の歓心を買いたい」という誘惑です。できるだけ人から高く評価されたいという願望です。 それ自体は決して悪いことではないでしょう。しかしいつの間にか「人からどう評価されるか」という ことが“人生の基準”となるとき、私たちの人生は自由と喜びを失うのです。「人の歓心を買おう」と努 める卑屈な思いが、私たちのまなざしを曇らせ、大切なものが見えなくなるのです。  何よりも「人の歓心を買おう」とするとき、私たちは本当の自分を生きてはいないのです。自分が如 何に生き、かつ生きるべきか、ということではなく、人の目に自分がどう評価されるか、いわば外見上 の自分が勝手に歩き始めるのです。それは逆に言うなら、人に評価されたいために「歓心を買おう」と するのであって、人の評価の及ばぬところでは「どんなに悪いことをしても構わない」というモラル・ ハザードに繋がるのです。その結果、私たちは、本当の自分ではなく、ただ人に評価されたい自分を「見 せている」だけの存在になってしまいます。それこそ「虚栄心」の正体です。虚栄心とは字のごとく“虚 しき栄えを望む心”です。そしてその結果、私たちは、いたずらに思い悩み、自分が正当に評価されて いないと不満をかこち、喜びと感謝を失います。そしてその反動から、さらに「人の歓心を買おう」と 努めるようになります。いわば“虚栄心の悪循環”が起こるのです。  使徒パウロも、かつては、そのような「人の歓心を買う」ことに躍起になっていた人でした。パリサ イ人サウロであった時のパウロは、家柄においても、学歴においても、律法を守る清さにおいても、ま さに「群鶏中の一鶴」であり、他の追従を許さぬ選りすぐりの人物でした。律法学者として「律法の義 において落度のない者」であったサウロは、民衆からは絶えず尊敬を受け、同僚たちからは羨望のまな ざしを向けられ、将来は大祭司たる地位を約束された、いわば「選ばれし人」でした。サウロがキリス トの教会を迫害するようになったのも、律法に対する「熱心さ」からでした。パリサイ人の立場から見 れば「神が人となられた」クリスマスの出来事は神聖冒涜の罪であり、キリストを信じている人々は律 法に叛く罪人と見做されたからです。だからパウロはピリピ書3章6節にかつての自分を回顧して「熱 心の点では教会の迫害者(であった)」と語っています。この「熱心」とは神に対する熱心という意味で すが、その実態は「人の歓心を買おう」と努めることでした。それこそが正義そのものだとサウロは思 っていたのです。  しかし、今朝の御言葉であるこのガラテヤ書1章10節においてパウロは「もし、今もなお人の歓心 を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」と断言しています。つまりパウロ はここに、正義そのものと確信していたかつての自分の生活、つまり「人の歓心を買おう」と努める古 き生きかたが、まことに虚しいものにすぎなかったと告白しているのです。信仰の熱心ゆえの行動と自 他ともに認めていたかつての自分の行いが、実は「人の歓心を買おう」とするものにすぎず、それこそ 「罪」であったと告白しているのです。逆に言うなら、かつてパリサイ人サウロであった時の自分は、 信仰の名に隠れて「人の歓心を買おう」とする虚しき存在であったと語っているわけです。  そこで、私たちの信仰の歩みにおいても、同じような“すり替え”が起こりうることを心せねばなり ません。私たちの生活の全てにおいて「主の僕とせられた」キリスト者の歩みが徹底しているかどうか、 今朝の御言葉によって問われているのです。主の僕とされた幸いと自由が、いつも私たちの全生活を潤 し支配しているか否かです。むしろ逆に私たちの信仰生活は生命を失い「人の歓心を買おう」とするも のになってはいないでしょうか。信仰の「熱心」という装いの陰で、神の栄光ではなく自分の栄光を求 めていることはないでしょうか。不信仰の罪よりも怖いのは、見かけだけの信仰の罪です。それこそ信 仰の名のもとに「人の歓心を買おう」とすることです。  パウロは、そのような「人の歓心を買おう」と汲々としていたパリサイ人時代の「古き生活」から、 復活のキリストとの出会いをきっかけにきっぱりと決別しました。「古きはもはや過ぎ去り、新しくなり たり」という経験をしたのです。それはサウロが教会を迫害するために、エルサレムの大祭司の添書を 携えてダマスコに向かう途上での出来事でした。サウロはそこで復活のキリストに出会い、古き罪のお のれを根底から打ち砕かれたのです。十字架においてご自身を犠牲として下さった主イエスに出会い、 主イエスの十字架の死が自分の罪の赦しのためであったと知ったとき、パウロは根底から変えられまし た。見えなかったことが見えるようになりました。それまで、信仰の「熱心」ゆえの正義と信じていた ことが、実はおのれの栄光を求める「虚栄」にすぎなかったこと、つまり「人の歓心を買おう」として いた自分の「罪」を明らかに示されたのです。  それは、全ての人を極みまでも愛し、ただご自分を全き「神の僕」として全ての人の罪の贖いとして 献げ尽くして下さった、主イエス・キリストの恵みを知ることにおいて明らかにされたのです。十字架 と復活のキリストとの出会いによって、パウロははじめて自分の本当の姿を知らされたのです。そして それまで自分にとって「誇り」であり「頼み」としていた虚栄の全てを「キリストを知る絶大な知識(信 仰)」の喜びのゆえに「塵芥のごとく」かなぐり捨てる神の僕とされました。十字架の主がサウロの虚栄 心(自己中心の古き生きかた)を打ち砕いて、真の神の僕と造り変えて下さったのです。パウロはその 救いの経験をピリピ書3章9節にこう語っています。「それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を 受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。  ここにこそ、私たちの人間としての本当の自由と幸いがあるのです。自分を装い鎧っていた虚栄心か ら解放され、真の主なる神に立ち帰り、キリストの愛の御手にあるがままの自分を委ねまつることにこ そ、私たちの本当の自由と幸い、変わらぬ喜びと平安があるのです。「人の歓心を買おう」とする生きか たは罪の自己保身がなせるわざです。「自分の欲望を満足させること」を人生の目的とすることです。し かし「キリストの僕たる歩み」は恵みによる自由な神の僕たる生きかたであり、自分の欲望ではなく「神 の愛と祝福を世に現す」新しい生活です。その人生の方向の大転換をパウロは第一コリント書10章33 にこう語っています。「わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われる ために、自分の益ではなく彼らの益を求めている」。  ここに、人生の目的と方向と意味の逆転という奇跡が起こるのです。死から生命への大転換です。キ リストに従う私たちは、もはや自己保身に生きる必要がないほど、キリストによる真の自由と喜びと幸 いを与えられた「神の僕」たちなのです。古きおのれはキリストと共に十字架につけられ、キリストの 愛と恵みが、私たちの存在全体を、そして人生の全体を、死に打ち勝つ生命によって満たしているので す。だから今朝の御言葉は「あなたの心を変えなさい」「あなたは強くなりなさい」という人生訓ではあ りません。弱いままで良い、欠点があるままで良い、病気を抱えている人も、そのあるがままで良いの です。満ち溢れるキリストの恵みが、私たちを「人の歓心を買おう」とする古き生から解き放ち、おの れの利益を求める古き生活から「神に喜ばれる」新しい自由の生活へと導くのです。だからこそパウロ は「もし今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」と語っ ているのです。これはキリストに結ばれて生きる私たちの喜びと感謝の告白なのです。  パウロは第一テサロニケ書2章4節でこのように語っています。「わたしたちは神の親任を受けて福 音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福 音を語るのである」。この「人間に喜ばれる」の「喜び」と「神に喜ばれる」の「喜び」は質が違うので す。今朝のガラテヤ書でも同様です。前者は滅びる喜びであり「人に取り入ること」ですが、後者は永 遠の喜びであり「主の僕とせられること」です。そして、ここが大切です、私たちが「主の僕とせられ ること」は、ただ主が私たちのためになして下さった全ての御業によるのです。私たちはただ信仰によ ってキリストの御業を「アーメン」と告白することによってのみ「主の僕とせらる」のです。  かつて、私たちの先輩である旧日本基督教会の牧師先生たちは、よく「キリストの僕たるの道」とい う言葉を使いました。英語のディシプリン(discipline)の訳です。その「キリストの僕たるの道」の中 心は何かと言えば、それはこの私(たち)のためになされたキリストの御業を、あるがままに受ける者 となることです。キリストの愛と祝福に生活全体を支配して戴くことです。そのとき、私たちはもう「人 の歓心を買う」ことが人生の目的にはなりえない。「神に喜ばれる」ことが人生の目的なのです。ジュネ ーヴ教会信仰問答の問1にカルヴァンが語るとおりです。「問・我らの人生の目的は何ですか?」「答・ 唯一まことの神を知り、救い主なる神を礼拝し、永遠に神を喜ぶことであります」。私たちの全生活をキ リストの恵みがご支配くださる幸い。それこそが「キリストの僕たるの道」なのです。  今朝あわせてお読みした詩篇51篇17節にこうありました。「神の受けられるいけにえは砕けた魂で す。神よ、あなたは砕けた悔いた心を、かろしめられません」。神は私たちの悔い砕けし魂をこそ全てに まさる「いけにえ」(献げもの)として御手に受けとめ、喜びとなして下さるのです。それは何のゆえに か、主イエスが私たちのためになして下さった全ての御業のゆえです。主の御業が全てに先立つのです。 弱く脆い私たちが、そのあるがままに主の恵みの御手に自分を委ねるとき、私たちの人生全体を通して 神の祝福と平和が世に現されてゆく。キリストの御業が、キリストの愛が、キリストの祝福が、私たち の生活を満たして下さる。そこに「主の僕とせられる」ことの幸いと喜びがあります。そして私たちが 「主の僕」として生きるとき、主の恵みの御手に自分を委ねるとき、私たちの失敗や悩みや挫折や病い をさえ、主は尊い恵みの働く機会として用いて下さるのです。祈りましょう。