説    教    詩篇28篇6〜7節   ヨハネ福音書15章7〜8節

「主に繋がりて歩む」

2017・05・14(説教17201696)  今朝、主イエス・キリストは私たち一人びとりにこのように告げておられます。「あなたがたがわたし につながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるが よい。そうすれば、与えられるであろう」。これは、まことに驚くべき御言葉です。なぜなら主イエスは ここで、まず私たちのことを「あなたがたがわたしにつながっており」と断言して下さっておられるか らです。「あなたがたがわたしにつながっており」というのは「あなたがたは、わたしに繋がる者になり なさい」という勧めの言葉でさえありません。そうではなく「あなたがたは既に、わたしに繋がった者 とされている」という恵みの事実の確認であり宣言なのです。  私たちは日々の生活を何をもって始めるでしょうか。朝起きて一日の生活を始めるにあたり、仕事に 取り掛かるにあたり、私たちには多少なりとも緊張感があります。それならばなおさらのこと、私たち が何をもって信仰生活を始めるのかが大切です。私たちの信仰の出発点は何にあるのかということが、 いつも明確にされていなければなりません。まさにその信仰生活の出発点が、今朝の主イエスの御言葉 の内にはっきりと示されているのです。すなわち「あなたがたはすでに、わたしに繋がっている者にさ れている」という恵みの事実の宣言です。その事実を御言葉によって確認すること。まず御言葉を聴い て信じることから、私たちの信仰の歩みは始まるのです。  どういうことかと申しますと、私たちは何とかして「キリストに繋がる者になりたい」これを信仰生 活の目標とするのではない。そうではなくて「私たちはすでにキリストに繋がる者にされている」とい うこと。この事実こそが信仰生活の立脚点であり出発点なのです。「キリストに繋がる」ということは、 私たちの努力目標ではなく出発点なのです。これが非常に大切なことです。このことを見失いますと、 私たちの信仰生活はキリスト目的ではなく自己目的となり、早晩かならず行き詰まってしまうからです。 言い換えるなら、私たちの信仰生活はいつもキリスト中心のものであらねばならないのです。  いま長老会で、毎月の定期長老会の前に、かならず30分間ほど神学の学びをしています。神学の学 びと言っても、難しい専門的なことではなく、むしろ長老・執事の職務に任じられた者たちが、どのよ うにして福音の確信を言葉にしてゆくかということを中心に、基本的なことを学んでいます。いま読ん でいるのはスコットランド長老教会の神学者クランフィールドの「使徒信条講解」です。スコットラン ドの青年や高校生の入門書として書かれたものですが、内容はとても読み応えのある本です。そこで先 日の5月定期長老会のおり、いつものようにこの「使徒信条講解」を皆で輪読して質疑応答の時を持ち ました。そのとき、一人の執事の姉妹からこういう質問が出ました。「この本の中に『イエス・キリスト は、わたしたち人間の歴史の延長線上に現れ出た救い主ではなく、歴史の外側から歴史の中に人となっ て介入した神なのである』とありますが、それはどういう意味なのでしょうか?」という質問でした。  実はクランフィールドという人は、かなりひねった文章を書くようでいて、論旨はきわめて明解な文 章を書く人です。ここでクランフィールドが言いたいことは、ヨーロッパ社会に今日も大きな影響力を 持つ“実存主義”の立場に対する批判です。実存主義とはひとことで言うなら、真理というものはおよ そ客観的な確かさを持たず、ただ主観的な確かさがあるだけだと決めつける立場です。たとえばある人 が「カラスは白い」と言ったとする。それだけなら「そんなわけないだろう」で済むのですが、他の人々 が「そうだカラスは白い」と追従すれば、いつのまにか「カラスは白い」ことが事実になってしまう。 もちろん実存主義が果たした重要な役割は認めなければなりませんが、この立場を福音理解に転用しま すと、そこでおかしなことが起って参ります。  それは何かと申しますと、実存主義の立場にとっては、キリストご自身よりも、キリストを信じる人 間のほうが中心なのです。平たく申しますと「いくらキリストが真実な救い主であっても、それを信じ る人間がいなければ、キリストはいないも同じことではないか」。「だから真理の基礎とは、キリストの 確かさではなく、人間の確かさなのだ」。そういうことを実存主義は主張するわけです。これは自由主義 の立場と相俟って、近代ヨーロッパ社会に広く蔓延した価値観です。今日でも大きな影響力を持ってい ます。実存主義が「新しいルネッサンス」(新しい人間中心主義)と言われる所以です。  そこでこそクランフィールドは「私たちキリスト者が拠って立つ信仰生活の出発点とは何であるか」 を改めて問います。私たちが拠って立つ出発点は、イエス・キリストご自身であろうか?。それとも自 分自身なのであろうか?。この問いは実は、救いの確信においてこそより明瞭になります。私たちは何 をもって「救い」と見做すのか。キリストを信じる自分の確かさか、それとも、私たちを贖って下さっ たキリストの確かさか。それはもちろん、私たちを贖って下さったキリストの確かさでしかありえない のです。そこにしか私たちの救いの確かさはありえないのです。それをクランフィールドは、喜びと確 信をもって語ります。「イエス・キリストは、わたしたち人間の歴史の延長線上に現れ出た救い主ではな く、歴史の外側から歴史の中に人となって介入した神なのである」と。「わたしたち人間の歴史」の中に 歴史の救いは無く、私たちの中に私たちの救いは無く、世界の中に世界の救いは無く、自然の中に自然 の救いは無く、歴史の中に歴史の救いは無いのです。  私たちの「救い」はただ、歴史の外側から歴史の中に「人となって介入した神」十字架の主イエス・ キリストにのみあるのです。それは個々の人間だけではなく、世界全体にも言えることです。この世界 は、世界そのものの中に救いの根拠を持たないのです。この歴史もまた、歴史そのものによっては救わ れないのです。人間は人間によっては救われないのです。そうではなく、私たちの救いはただ、クラン フィールドが「歴史の外側から歴史の中に」人となりて介入して下さった永遠の神の御子イエス・キリ ストにのみあるのです。それこそカルヴァンの言う「われらの外なる救い」です。私たちが神を悟るこ と、神を発見することではなく、私たちが神によって見出されること、神に招かれること、神の愛を受 けていること、御子イエス・キリストを与えられていること、ただそれだけが、私たちの救いの確かな 唯一の根拠なのです。  そして、それだからこそ、私たちは救いを疑うことはできないのです。私たちは、自分自身を疑うこ とはできます。逆に言うなら、自分については、疑うことしかできないのが人間です。自分の存在、自 分の人生、自分の力、自分の可能性、自分の考え、これら全ては究極的には不確かなもの、疑う以外に ないものです。つまりそこに“確かさ”はないのです。「汝自身を疑え」と語ったデカルトが実存主義の 開祖と言われるのは故なしではありません。しかし、私たちは、他の全ての事柄を疑ったとしても、イ エス・キリストによる「救い」の確かさを疑うことはできないのです。なぜならキリストの御業は、私 たちの「外なる救い」だからです。キリストによる「救い」は、不確かな私たちに根拠を持つものでは なく、永遠なる神ご自身の御業に根拠を持つものだからです。だからそれは決して疑うことはできない のです。疑いの理由を何ひとつ持ちえないのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。改めて今朝の御言葉を心に留めましょう。「あなたがたが わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば」と主は言われました。 この「ならば」とは事実の確認です。「あなたがたはすでに、わたしに繋がった者とされている。そして わたしの言葉は、あなたがたの中にとどまっている」と主は宣言して下さいます。この「わたしの言葉」 とは御言葉による救いの出来事です。十字架の出来事です。十字架の出来事があなたがたの内に「とど まっている」と主は言われるのです。これは私たちの罪の贖いのための十字架の出来事をさしています。  言い換えるなら、私たちは「自分はこんなに罪ぶかい存在だから、とても主イエスの御言葉が自分の 中に“とどまって”いるはずはない」と言うことはできないのです。自分の罪のゆえに、自分の弱さの ゆえに、キリストの救いの力を疑うことはできないのです。何よりもまず、キリストみずから「あなた はすでに、わたしに繋がっている」「わたしの言葉は、すでにあなたの中にとどまっている」と宣言して いて下さるのです。この、キリストの救いの御業の確かさの前に、私たちのあらゆる不確かさは悔い改 めへと導かれます。私たちみずからが打ち砕かれ、神に身を投げかける僕とされているのです。  私たちが信ずるかたは、私たちをまず訪ね求めて、率先して見出して下さった十字架の主イエス・キ リストです。私たちを何の価もなきままに、恵みのもとに招いて下さった主です。私たちのために十字 架のご苦難と死を負うて下さった主です。このことを使徒パウロはローマ書5章8節にこう語っていま す。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は わたしたちに対する愛を示されたのである」。この「しかし」の意味することは大きいのです。キリスト は私たちの不確かさの中にこそ、限りなく確かな救いの恵みを、外から「もたらして」下さったのです。 だから、その救いは限りなく確かな救いなのです。  だからこそ、主は今朝の御言葉の8節において、さらにこのようにお語りになりました。「あなたが たが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けに なるであろう」。そして同じヨハネ伝15章5節にはこうあります。「わたしはぶどうの木、あなたがた はその枝である。もし人がわたしにつながっており、またまたわたしがその人につながっておれば、そ の人は実を豊かに結ぶようになる」。私たちが自分の力で主イエスに「繋がっている」確かさは、本当の 確かさではないのです。主イエスが私たちに「繋がっていて下さる」確かさこそ、私たちをして「豊か な実を結ばしめる」救いの確かさなのです。  主イエスはいま、私たち一人びとりを、その御自身の確かさの中へと招いていて下さいます。そして 「あなたがたは、私に結ばれた者として、すでに豊かな信仰の実りを結ぶ僕とされているではないか」 と言われるのです。そして「あなたがたは、私のまことの弟子となっているではないか」と言われるの です。キリストのまことの弟子となること、それは今ここで無条件に、主イエスを信じて教会に連なる 者すべてに主が与えておられる恵みの賜物なのです。私たちはすでに主イエスに繋がって生きる者とさ れている。主が私たちを捕らえていて下さる。まずその恵みの事実あってこそ、私たちはパウロのよう に「後のものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしつつ、神がキリストにあって備えていて下さる栄 光の賞与を得んとて努める」僕とされているのです。祈りましょう。